片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.5.24

01こんまりは、片づけの谷のナウシカなのか?

 衣類、本、台所用品、アクセサリー、小物などの「モノ」は、資本金を投下された製品工場で安価に大量に生産され、販売店に運ばれ、私たちに購入され、居住空間に持ち帰られる。モノは、購入後すぐに使われたり消費されたりする場合もあれば、不足した場合や替えが必要な場合に備えて、家の中に貯め置かれることもある。そのうちに着ることができなくなったり、誰かに似合わないと言われたりして使用されなくなったモノ(衣類)、読もうと思って買ったのに、時間がなくて読まれないまま積んであるモノ(本)、その他、諸々の貰いモノ、贈りモノなどが、家の中で、知らない間にどんどんと増殖して、ついには生活空間を圧迫し始める。
 雑然たるモノの群れや束は、所有者に物理的に重くのしかかるだけでなく、何とかしなければならないと思いつつも何ともできない状態が続き、片づけなければならないという意識とともに、片づけられない整理できない自分の不甲斐なさが精神的に重くのしかかってくる。大量生産・消費の時代に生きる私たちが抱え込んでいる、そうした特異な課題に対して解決を与えてくれるのが、片づけを専門とする「片づけコンサルタント」である。
 「こんまり」こと近藤麻理恵は、「片づけの魔法」を伝授する、売れっ子の片づけコンサルタントである。彼女の著書、『人生がときめく片づけの魔法』シリーズは、累計で1,000万部以上売り上げたという。2019年1月から始まったNetflixの「人生がときめく片づけの魔法」と題する番組は、異例の大ヒットを記録中である。

 こんまりは、「片づけの谷のナウシカ」なのだろうか?

 宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のナウシカは、人以外の存在、特に虫などの生きものたちと心を通わせるアニミストである。ナウシカは、アニミズムの体現者である。これからアニミズムについて論じていくのだが、ここではアニミズムを、地球という私たちが生きるこの惑星や宇宙にいて、人間だけが必ずしも主人なのではないという考え方もしくは思想のことと定義しておこう。アニミズムでは、人と人以外の存在は、姿やかたちは違えども、心がつうじ合っている。はたして、こんまりは、風の谷ならぬ片づけの谷のナウシカなのだろうか?

 こんまりこと、近藤麻理恵が説く片づけ法の中で、最も分かりやすくかつオカルティックなのものが、「ときめき」を手がかりとして、モノを残すか捨てるかを決めるというやり方である。こんまりは書いている。

 「触ったときに、ときめくか」 

モノを一つひとつ手にとり、ときめくモノは残し、ときめかないモノは捨てる。モノを見極めるもっとも簡単で正確な方法です。(近藤 2019: 62)

 こんまりによれば、片づけで、捨てるにせよ残すにせよ、まずは、モノに必ず触れてみなければならない。「そのモノを触ったときに、ときめくか」どうかが、片づけるか捨てるかの選別の基準となる。こんまりは言う。「モノを残すか捨てるか見極めるときも、『持っていて幸せかどうか』、つまり『持っていて心がときめくかどうか』を基準にする」(近藤 2019: 63)のだと。
 「ときめき」を軸に片づけを説くこんまりの実践的な「モノの哲学」は、実は、とても合理的である。彼女は、モノを捨てられないことには、4つの原因があると分析する。

 人がモノを捨てられないのは、まだ使えるから(機能的な価値)、有用だから(情報的な価値)、思い入れがあるから(感情的な価値)。さらに手に入りにくかったり替えがきかなかったりする(希少価値)と、ますます手放せなくなるわけです。(近藤 2019: 68)

 まだ使えるのではないかと思っていたり、今後必要になるかもしれないと思っていたり、大切な人にもらった思い出の品だったり…ということで、モノは捨てられないのだ。こんまりは、所有者が価値を思いめぐらせることで、本来的にはたんなる物質に過ぎないモノによってがんじがらめに縛られて、「捨てられな」くなっていることを、冷静にかつ合理的に見抜いている。その点を踏まえて、こんまりは、ある種の精神論を片づけ法の基本に置いているように見える。

 「ときめかないけど、捨てられない」モノに対しては、一つひとつ、その本当の役割を考えてあげること。すると、意外なほど多くのモノは、すでにお役目を終えていることに気づくはずです。
 …(中略)…
 「モノをたくさん捨てる」のは、モノを粗末にしているということではありません。押し入れやタンスの奥にしまわれ、その存在すらも忘れ去られてしまったモノたちがはたして大切にされているといえるでしょうか。
 もし、モノに気持ちや感情があるとしたら、そんな状態がうれしいはずはありません。
 一刻も早く、牢獄、あるいは離れ小島のような場所から救出してあげて、「今までありがとう」と感謝の念を抱いて、モノを気持ちよく解放してあげてください。
 片づけをするとスッキリするのは、人もモノもきっと同じだと、私は思っています。(近藤 2016: 87-8)

 モノたちは、押し入れやタンスという「牢獄」や「離れ小島」に閉じ込められたまま、見向きもされないでいる。そこで、モノたちの「気持ち」や「感情」になってみよう、と呼びかける。牢獄や離れ小島からモノたちを救い出し、これまでのことを感謝して、気持ちよく解放してあげようではないか。そうすれば、つまり「片づけ」をすれば、人もモノもスッキリするというのが、こんまりの言わんとすることである。
 なぜ片づけができないのかを、多様な価値によって囚われていることを含めて、合理的・論理的に説明して人々を惹きつけ、他方で、モノの気持ちや感情の存在を仄めかして、人々を揺さぶり、一種のオカルティックな解決法を提示する。こんまりメソッドとは、物理と精神論の合成物、あるいは、合理と「非合理」の混合の成果だということはできないだろうか。大量生産と消費の時代に、制御しきれないほどに家の中に溢れかえって増殖するモノ、モノ、モノ…。人間の力を超えて増殖する物理を、人間とモノが互いに通じ合っているというアニミスティックな思弁の領域へと大胆に移し替えて、その場で実践的に対処し、所有者に捨てるものと残すものを整理させて、片づけさせていく。
 それこそが、こんまりの魔法である。見かけは大きく異なっている「人間」と「モノ・対象・客体」が、気持ちや感情を含む心の面でつながり合っている。こんまりは、そう考えている。合理・論理・物理に絶妙な塩梅で混ぜ合わされた「非合理」・オカルト・アニミズム。後者のアニミスティックな片づけ法こそが、こんまりメソッドの持ち味なのではあるまいか。
 アニミスティックな手法は、「こんまりメソッド」の様々な局面に立ち現れる。それはまた、残されたモノ、すなわちときめいたモノたちの収納にもまた用いられる。洋服の収納法には、ハンガーを使ってかける「かける収納」と、一つひとつたたんで引き出しなどに並べる「たたむ収納」がある。こんまりは、「たたむ収納」のほうを強力に薦める。「たたむ収納」は面倒くさいと思うかもしれないが、「そう思ったあなたは、たたむことの本当の威力を知りません」(近藤 2016: 101)。

 洋服をたたむことの本当の価値は、自分の手を使って洋服に触ってあげることで、洋服にエネルギーを注ぐことにあるのです(近藤 2016: 101-2)。

 「手当て」が、ケガをした箇所に治癒を促すように、人の手から出るハンドパワーのようなものが衣服にとっても効果的なのだと、こんまりは言う。「だから、きちんとたたまれた服はシワがピンと伸び、生地がしっかりしていきいきしてくるのです」(近藤 2016: 102)。

 洋服をたたむ。それはたんに収納するために服を小さく折り曲げる作業だけをさすのではありません。いつでも自分を支えてくれる洋服をいたわり、愛情を示す行為なのだと思います(近藤 2016: 103)。

 いたわるとは、いたわられる相手の気持ちを想像して行われる行為である。いたわってあげることによって、洋服の気持ちや感情が整い、洋服が生き生きとしてくるのだという。
 他方で、「かける収納」に関してもこんまりは、興味深いことを述べている。同じカテゴリーの洋服は隣り合わせにして、まとめてかけるのは基本中の基本であるという。そのことの説明として、

 自分と同じタイプの人といっしょにいると無条件に安心してしまうのは、人も服も同じ。カテゴリー別に分けるだけで、洋服たちの安心感が違います。(近藤 2016: 109)

 人も服も、同じカテゴリーの人や服と一緒にいると心が安らかに落ち着くのだという。こんまりは、人と衣類が、同じような気持ちや感情を抱えているとする見方で語っている。
 それらが、「五歳のときに主婦向けの生活雑誌を読みはじめたことをきっかけに、一五歳から本格的に片づけの研究を始め、一九歳から片づけコンサルタントとして活動を始め」(近藤 2016: 4)た彼女自身の経験から引き出された手法なのだとすれば、私たちは、21世紀に、今まさに作られつつあるアニミズムに立ち会っていることになるのかもしれない。私たちが仰々しくアニミズムと呼んでいるものは、ある種の「必要」――例えば、モノの増殖をなんとか抑えて、快適な生活空間をつくり上げるという現代人にとって、のっぴきならない必要――に応じる過程で出現するという可能性を、こんまりは示してくれているのではないだろうか。
 モノの気持ちや感情を推し量ったり、モノをいたわったり、モノたちの安心感を考えたりというアニミスティックな手法は、こんまりの片づけコンサルティングの文脈では、まったく奇異なことではない。それらは、万人にすんなりと受け入れられるからこそ、彼女の成功があるのだとも言えよう。そして、その手法は、彼女の宗教や何らかの特殊な経験から発したものではないように思われる。言わば、私たち人間が共通に持っている、モノに対する一般的な態度にその源泉があるように思われる。

 同じような経験が、例えば、私が大学で講じている宗教人類学の授業を聞いた学生たちのレポートの中に顕著に見てとることができる。レポートには、履修学生たちの具体的な「アニミズム経験」が書かれていた。いくつか紹介しよう。

 私のアニミズム的即自体験は小学校低学年の頃にあった。私は当時、家の家具自体と頭で会話をしていた。例えば寝ようとしてベッドに上がるとき、私にも分からない「上がるタイミング」が存在していて、そのタイミングを決めるのは私ではなくベッドだった。タイミングが悪いと、ベッドから「もう1回」と言われた気がして、もう一度上がり直したりしていた。

…名づけたにせよしていないにせよ、ぬいぐるみを捨てるとなると激しく反対し、どうしても手放すなら「だれか他の人のもとで幸せになってほしい」と願ったことがあった。汚れてしまったタオルを洗う際にも手放すことを拒んだが、最終的には母の「タオルさんだって汚れちゃって悲しんでいるんだよ」といった言葉に折れた記憶がある。いうまでもないことだが、ぬいぐるみもタオルも無機物であり、動物とちがってそこに「命」はない。しかし、この時私はその無機物の幸せを願い、気遣いすらしていたのである。

私は花などの植物が好きで、観葉植物がたくさん家にあり、水をやる時に、声をかけるようにしている。「大きくなったね。水を飲んでもっと成長してね」と言ったり、時には私が好きな音楽を植物の近くで流して「良い曲だよね」と言ってみたりする。すると、翌日見ると、話しかけた時よりも綺麗に、美しく成長したと感じるのだ。

 この3つのレポートには、「上がるタイミング」を私に命じてくるベッド、幸せであってほしいと願うぬいぐるみ、汚くなって悲しむタオル、話しかけたり世話をしたりすることによって綺麗になる植物、との対話が綴られている。
 ベッド、ぬいぐるみ、タオル、植物というモノたちはどれも、人間とは外見上は全く似つかないが、人間と同じような性質の気持ちや感情を持っている。上で述べたように、人と人以外の存在が、姿やかたちは違えども、心がつうじ合っているのが、アニミズムである。モノや植物などが、人間とで、姿やかたちは別物だけれども、命令したり、悲しんだり、喜んだりする(おそらくその結果、綺麗になったりする)という心を共通して持っていると直観するのが、ここで言うアニミズムである。アニミズムは、人間とモノの対話の過程で生まれる。

 ところで、こんまりは片づけをする時、「自分の持ち物に対して、一つひとつときめくか、どう感じるか、ていねいに向き合っていく作業は、まさにモノを通しての自分との対話」(近藤 2016: 83)だと述べてみたり、「たまに『音楽をかけてノリノリで捨てましょう』という片づけ法もあると聞きますが、私はおすすめしていません。せっかくのモノとの対話が音でごまかされてしまう気がするからです」(近藤 2016: 84)と言ったりしている。ここでいう対話が、モノをつうじた自分自身との対話(前者)なのか、自分とモノとの対話(後者)なのか、実は、あまりはっきりしない。
 いずれにせよ、こんまりメソッドには、自分とモノが向き合う対話の過程が大切な構成要素として組み込まれているのは確かである。その意味で、アニミズムとは、人間とモノ・対象・客体との対話の中で、心の面でのつながり合いの想定の下に生じるある種の経験であるということを、ここでは再確認しておきたい。この点には、今後、何度も立ち戻ることになるであろう。
 ここまで書いてきて、それがゆえに、気になることが一つある。それは、今しがた述べたように、こんまりメソッドが、自分とモノとの純粋な対話ではなく、自分との対話を目指すものになっているのではないかという点である。モノではなく、自分自身との対話であるならば、それは、はたしてアニミズムなのであろうか。アニミズムが、すでに述べたように、地球や宇宙における存在者のうち、人間だけが必ずしも主人なのではないという考え方なのだとすれば、自分との対話を目指すというのは、人間のことだけしか考えていない、頭の中にない、という意味で、アニミズムではないようにも思われる。
 大量消費時代においていくらモノが身の周りに溢れ、自分自身を圧迫しているとは言え、さらには、感謝の念を込めてモノを捨てるのだとしても、アニミストであれば、自ら進んでモノとの関係を切断し、単なるゴミとして廃棄するということはそんなに簡単にはできないとも思われる。上述した学生たちが示してくれたように、モノとの間での特異な関係性や、モノへの愛着以上の何かがあって、モノが捨てられなかったり、モノが粗末に扱えなかったりすることが、アニミズムであるように思われるからである。
 自分自身から切り離されてゴミとなったモノは、めぐりめぐって、自らが住まう環境を悪化させるという、現代の資本主義特有の問題を生み出し、自然を、さらには自分自身すなわち人間自身を苦しめることになる。そうした人間中心主義的な振る舞いを可能にする身勝手な世界理解を含むものを、はたして、アニミズムと呼んでいいのだろうか。
 本連載の出発点は、ここにある。こんまりメソッドは、自分との対話なのか、自分とモノとの対話なのか? 前者だとすると、それは人間を中心に人間を拡張する世界を想定している点で、アニミズムとは言えないのではないか。それとは逆に、後者こそが、アニミズムの名に値するものだと思われる。そう言い切っていいのか、いや、そうではないのか。こうした点が、この連載をつうじて考えてみたい点である。
 次回以降、アニミズム「を」考えるのではなく、アニミズム「とともに」考えることを目指したい。論点を先取して述べれば、アニミズムとともに考えることは、自らを人間同士の関係だけに閉じてしまうのではなく、人間の周囲にあるあらゆるモノ・対象・客体――たんに物質ではなく、動植物、生命を含む――と人間との関係を生きることに他ならない。アニミズムは、人間とそれ以外のモノ・対象・客体との関係性にかかわるがゆえに、「人間=以上の(more-than-human)」領域に目を向け続けることに深く関わっている。

参考文献
近藤麻理恵 2019 『人生がときめく片づけの魔法 改訂版』河出書房新社。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
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