片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2020.2.25

11記号論アニミズム ―エドゥアルド・コーンの思考の森へ―


アニミズムのマクロ

 アニミズムはいったいどこにあるのだろうか? アニミズムは、モノや対象が存在するのであればどこにでもあるのだと言える。それはとりわけ、人間を超えた存在が犇(ひし)めきあう自然の中に豊富に潜んでいるのだと言ってもいい。だがもう一歩踏み込んで、アニミズムが高濃度で現れる場所があるのだとすれば、それは森の中であろう。私たちは森の中で凝縮したアニミズムを体験することができる。森には、人間を超えた夥しい数の生が息づき蠢いているからである。
 哲学者・梅原猛は、他の地域から遅れて2300年ほど前に稲作農耕を導き入れることになった日本の国土の三分の一にはその後も自然林が広く残されて、森が日本人の宗教を生み出したのだという(梅原 1995: 209-10)。大樹・石・山・川・岩・地・動植物などの自然崇拝が、神道の基礎となった(梅原 1995: 210)。6世紀には、仏教が伝来する。仏教は元来、人間が悟りを開くことを説く人間中心主義的なものだったが、日本では、人間ばかりか生きとし生けるもの全てが仏になれるという自然を包含する思想へと変容していった(梅原 1995: 212)。「山川草木悉皆成仏」という天台本覚思想が広まり、その後太陽という自然神である大日如来を中心に据える密教や、一切衆生が死んでから還ってくるという浄土教が盛んに行われるようになった(梅原 1995: 215)。
 梅原によれば、「日本の神道と仏教はアニミズムの原理によっている」(梅原 1989: 13)。そのアニミズムの特徴とは、「霊が植物にも動物にも天然現象にも存在する点…(中略)…また、霊の再生、霊のあの世とこの世の絶えざる循環という思想」(梅原 1989: 17)だという。生きとし生けるもの全てが内面的につながっており、霊的なるものが絶えざる往還の相に置かれるという特徴は、本連載でこれまでに見出されたアニミズムの特徴とも合致する。
 こうした検討を踏まえて梅原は、アニミズムの原理の上に成立した神道と日本仏教のことを「森の宗教の思想」と呼んでいる(梅原 1995: 215)。森の宗教の思想は、山や川を含め、生きとし生けるものは全て同じような存在であり、ともに成仏することができ、また生はやがて死へとつながり、それはまた生へとつながるという、絶えざる往還の相を孕んでいる。森という環境、特に日本列島に残されてきた森は、アニミズムを私たち日本人に刻みつけてきたのかもしれない。
 この梅原による森とアニミズムの相関の指摘は、全くそのとおりだと思う。しかしそのアイデアには、あまりに大きすぎて何も言うことができず、ただ頷いてしまうだけである。日本の国土の上に歴史的に積み重ねられた思想の蓄積を見渡す時に現れるそうしたアニミズムのマクロな見取り図の先に、なぜそうなっているのかという点に、もう一歩踏み込んでいくことはできないだろうか。一気に踏み込むことは困難かもしれないが、いわばミクロな次元で、森のアニミズムの可能性を示すことはできないだろうか。今回検討してみたいのは、そうした問いである。

 

森の曼荼羅の小宇宙へ

 人類学者・中沢新一は、「森は、その中に踏み込んだ人間に、容易に観察者の立場に立つことを、許さない」(中沢 2015: 81)という。森の内部から抜け出て、小高い山に登って森の全体像を見渡す観察者は、森の一般理論を考えつくかもしれない。しかし、彼は小川の中で起こっている不思議に満ちた生命の世界を知ることができない。それは、山の上からはけっして知ることができない。山を降りて森の中に入り込んだ観察者は、森を全体像として捉えることを放棄するだろう。自分自身もまた森の一員として、その大きな全体の中に深く巻き込まれていることに気づかされる。観察者自身も森の一部であり、自分も森から切り離された「外部」ではなく、森の中深くに隠された夥しいモノたちと彼の生命は、いまやひとつながりになっていることを知る。「このとき、森は自分の本質を、観察者の立場を放棄した彼の前に、おもむろに開く」(中沢 2015: 82)。那智の森の中に生きた偉大な観察者・南方熊楠は、そのようにして、「マンダラとしての、オートポイエーシスとしての生命だけが知ることのできる、神秘の体験」(中沢 2015: 83)に踏み込んでいったと、中沢は見ている。
 森がどのようなものであるのかを知るために、ミクロな部分に光をあてるのは、日本の観察者だけではない。アメリカの森の中の生の営みを直径1メートル強の円形の「曼荼羅」の内側に入り込んで観察する生態学者がいる。デヴィッド・ジョージ・ハスケルは、テネシー州東部の森の曼荼羅のうち極小のものの中に、普遍的なものを探し出そうとする。「七里ぐつを履いて大陸の端から端まで飛び歩き、結局何も見つけられないよりも、小さな面積についてじっくりと考えるほうが、森の真実がより明らかに、鮮やかに姿を現わすのである」(ハスケル 2013: 8)。
 ハスケルは森で、濡れた落ち葉の上に二匹の琥珀色のアリを発見する。落ち葉の中に渦を巻いて横たわっている紐状のものにアリたちは特別な関心を寄せていた。そのうち一匹が巻きひげを触角で叩くと、コイル状のものがまっすぐになり、ガクンと動いた。ハリガネムシだ。ハリガネムシは水たまりや小川に産みつけられた卵から孵化し、河床を這いまわって、小さな昆虫に食べられる。小さな昆虫が陸地に這い上がって、雑食性のコオロギに食べられると、コオロギの体内で人間の手ほどのハリガネムシに成長すると同時に、水を怖がるコオロギの脳を支配して水に向かわせる化学物質を分泌する。そして、コオロギが水の中に入ると、ハリガネムシはコオロギの体壁を突き破って、くるりと身を回転させて自由になる。そして、ハリガネムシたちは、「ゴルディアスの解けない結び目」のように絡まりあって乱交し、卵を産みつける(ハスケル 2013: 17-9)。
 中沢が、そしてハスケルが、マンダラ=曼荼羅と呼びたい誘惑に駆られたように、森のミクロな世界は、生命が織り成す宇宙全体を見るための舞台なのである。ミクロな部分に目を凝らす観察者は、アリが触角で叩くことで入っていくことができるハリガネムシの小宇宙から、宇宙全体で営まれている生命活動へと想像を広げていくことができる。
 翻って、梅原は、山の上から森を眺めるように、森との相互作用によって日本人が養ってきた思想の分厚い層としてのアニミズムを発見した。そうしたマクロな次元の観察に加えて、南方やハスケルのように、森の中に踏み込むならば、ミクロな次元における観察をつうじて、アニミズムを明晰に捉えることができるのではないだろうか。

 

記号論ネットワークと「思考」する「自己」

 森の奥深くに入り込んで、森の小宇宙の生態学の観察者となれば、私たちは、アニミズムが踊り出てくる瞬間をより身近に立ち会うことができるだろう。この点について深めてみるために打ってつけの研究がある。人類学者エドゥアルド・コーンによって書かれた、南米エクアドル東部のアヴィラの森に住むルナの民族誌『森は考える』(コーン 2016)である。
 その本の中でコーンは、森の中で、生きとし生けるものが、生きていくために互いに交渉・交換する過程で、アニミズムがすうっと立ち上がってくる瞬間を捉えようとしている。彼が採った戦略とは、「考えること」すなわち「思考」を人間だけのものと限定するのではなく、生きとし生けるもの全てが「思考」すると拡張することによって、生きものたちの「思考」を跡付けながら、森が思考する精神的宇宙であることを豊かに示すことであった。C.S.パースの宇宙哲学の独創的な解釈を含め、コーンの理路の一つ一つを追うことは、ここではあまり意味のあることではない。以下では、コーンのアニミズム論、とりわけ記号論的なアニミズム論に絞って検討を加えてみたい。
 コーンは、アニミズムに関して、以下のように述べている。

アニミズムはひとつの存在論的な事実に根ざしている。すなわち、他なるたぐいの思考する自己が人間的なるもののかなたに存在するという事実である(コーン 2016: 166)。

コーンによれば、アニミズムは、人間にとっての「他なるたぐい」としての森の中の生きものたちが「思考」することによって、「自己」として立ち現れてくるという事実に緊密に結びついている。つまり、生きものたちが「記号過程」もしくは記号論的ネットワークの中に入り込むことによって、「思考」が生み出されるのだ。同時に、生きものたちは精神を持つ「自己」となる。コーンは、この存在論が、アニミズムの土台となるのだと言う。
 ところで、記号過程とは何か? それは、大掴みに言えば、「イコン(類像記号)」と「インデックス(指標記号)」という「記号」の受け渡しのプロセスのことである。イコン(類像記号)とは、ナナフシが木の枝と見分けがつかないほど擬態していることで表されるような「類似」に基づく記号である。インデックス(指標記号)とは、煙がもくもくと上がっていることによって、火が焚かれていることが表されるというような「指標」的な記号のことである。この二つの記号を、人間も人間以外の存在(人外)も、同じように言語以前の段階で、理解し解釈する、すなわち「思考」する。人間も人外も同じく、それらの記号を受け取って「思考」し、次に取るべき行動を組み立てている。
 抽象的過ぎるかもしれない。具体的にはいったいどのようなことなのか? 以下では、コーンがあげる4つの生きものの事例を取り上げて、森の生きものたちが、記号過程の中に入り込んで、どのようにして「思考」し、記号論的な「自己」として現れ出るのかを見てみよう。

 

ウーリーモンキー、イヌ、ハキリアリ、メジロメキシコインコ

 一つめは、ウーリーモンキーの事例である。森の中に狩猟に出かけたイラリオとルシオは、樹上に見つけたウーリーモンキーを射撃しようとした。彼らは、獲物を撃つために、そのウーリーモンキーを隠れた林冠の止まり木から明るい場所に出す必要に迫られた。そのために、彼らはヤシの木を切り倒したのである。ヤシの木の大きな倒壊音は、樹上にいるウーリーモンキーを驚かせ、止まり木から立ち退かせることになった。
 「倒壊は…(中略)…何かを指差する」(コーン 2016: 60)。ヤシの木の倒壊音をインデックス記号として受け取ったウーリーモンキーは危険を察知して、咄嗟にその場から飛び退いたのである。コーンによれば、「びっくりしたサルが高い止まり木に飛び移ったことは、この生きている記号連鎖の一部である…(中略)…ひとつの思考が別の思考を引き起こし、次に別の思考へとつながり、さらには潜在的未来を引き起こすことになる」(コーン 2016: 63)。
 ウーリーモンキーが、ヤシの木の倒壊音を未来の危険を示すインデックスとして受け取って、その止まり木から飛び退いたという記述の中に、私たちは、ウーリーモンキーの「思考」の軌跡を認めることができる。その時、ウーリーモンキーはまた、精神を持つ記号論的な「自己」として現れたことになる。この存在論が、コーンによれば、アニミズムの土台となる。
 二つめの事例として、イヌがヤマライオンに遭遇した時の反応を取り上げてみよう。どうやら、イヌたちは、獰猛な捕食獣であるヤマライオンを、同じ黄褐色で、大きさの似た獲物であるアカマザマジカと見まちがえたようだった。イヌたちは最初、向き合っている動物に対して「ゥアッ、ゥアッ、ウアッ」と勢いよく吠えていたが、その直後鳴き声は、イヌたちが威嚇や攻撃を受けた時に上げる「アヤーイ、アヤーイ、アヤーイ」という甲高いものに変わった。ルナの女性ルイーサが、イヌたちの声音の変化に気づいた(コーン 2016: 125-6)。
 イヌたちは、対象をアカマザマジカであると同定するイコン的な「思考」から、それをヤマライオンと捉え直して、自らの危険を察知して後退するというインデックス的な「思考」へと移行した。興味深いことに、この場面で、イヌたちが「思考」したことの証は、イヌたちが「『とても、とても愚か』」(コーン 2016: 129)だった、つまり対象を見まちがえたことにある。イヌたちは、記号を受け取った際の「思考」の内容の変化をつうじて、記号論的な「自己」になったことが、はっきりと浮かび上がったのである。それは、人間的なるもののかなたに、アニミズムが立ち現れた瞬間でもあった。
 三つめは、ハキリアリをめぐるエピソードである。ハキリアリは、年に一度だけ夜明け前に、羽つきの女王アリを巣から吐き出して、他のコロニーの雄アリと交尾させる。羽つきアリは脂肪分たっぷりで、塩をまぶして食べれば、美味である。人間だけでなく、動物たちはこぞって毎年僅かなタイミングを待ち構えてハキリアリを捕まえようとする。
 カエル、ヘビ、小型ネコ科動物などが、ハキリアリや、ハキリアリに誘われてきた動物に引きつけられてやって来る。それらの生きものたちはハキリアリを監視し、ハキリアリを監視している動物にも目配りする。生きものたちは、ハキリアリの周囲に出没する生きものたちの行動を、ハキリアリを狙っているのだと、インデックス的に解釈して、「思考」する「自己」となる。
 コウモリも飛行中のハキリアリを襲撃しようと待ち構える。コウモリは、脂肪のたっぷり詰まったハキリアリの腹部を噛みちぎって捕食する。それに対して、ハキリアリは、捕食者たちの裏をかき、夜行性と昼行性の両方の捕食者から最も見つかりにくい夜明け前の時間帯を選んで、巣から飛び立つ。ハキリアリもまた、自分たちが狙われているのだと、インデックス的に「思考」する「自己」になる。記号論的なネットワークの中に、瞬間瞬間に「思考」する「自己」であるカエルやヘビやコウモリやハキリアリが現れ出る。
 最後に、メジロメキシコインコと人間が絡まり合う事例を取り上げてみよう。ルナは、トウモロコシ畑からメジロメキシコインコを追い払うために、「インコ嚇し」と呼ばれる案山子を毎年つくる。同じ長さの平らなバルサ材の板を十字に組み合わせて、赤と黒の縞を炭で描き、板の上部には顔を掘り、目も描く。猛禽類の尾羽を板の末端に差し込んで飾りつけることもある。
 案山子は、猛禽類の写実主義的な代物ではない。しかしメジロメキシコインコは、その案山子を猛禽類のイコン的な記号として受け取って、周辺に近寄ろうとしない。メジロメキシコインコにとって、案山子は、捕食者である猛禽類に見えるのだ。「こうした案山子はインコをうまく遠ざけており、そのためアヴィラでは毎年つくられている」(コーン 2016: 157)。案山子がメジロメキシコインコを追い払うことに奏功することから、メジロメキシコインコが案山子を猛禽類として解釈して「思考」し、それと同時に精神を持つ「自己」として出現すると考えられるだろう。人間(ルナ)は、案山子を制作する過程およびその恩恵を確認する瞬間に、自らの内面の深くにアニミズムを経験するのだと言えるのではないだろうか。

 

コーンとともに、森の中で魂を生け捕りにする

 「思考」する「自己」として現れ出るウーリーモンキー、イヌ、ハキリアリ、メジロメキシコインコの事例のうちに、コーンによって示されたのは、夥しい数の生きとし生けるものが息づき蠢いている森の中に入り込めば、そこに宿る精神や魂が必然として感じられる、すなわちアニミズムに出くわすという単純なことではなかった。前節で示されたのは、生きとし生けるものが、記号論的なネットワークの網の目の中に入り込み、記号を受け取って、そのつど記号を解釈する過程で「思考」する精神が生み出され、記号論的な「自己」が出現すると同時にアニミズムが立ち上がるということであった。
 コーンは、生きものたちがなぜ精神を持つ「自己」であるのかを、端的に、以下のように表現する。

記号は精神に由来しない。私たちが精神あるいは自己と呼んでいるものは、記号過程から生じる(コーン 2016: 64)。

精神とは、記号過程の産物なのである。「思考」する精神とは、魂のことに他ならない。そのことが、アニミズムの深い淵源だったのである。アニミズムが、あらかじめ森の中に存在するのではない。生きものたちが、記号過程のやり取りをつうじて、人間的なるものを超えて「思考」する精神を持つ存在として現れ出るのと同時に、アニミズムが立ち上がってくる。
 コーンは、記号過程に結びついた生きとし生けるものの生命活動のうちに、「生ある思考(living thought)」が行われることを指摘している。

ルナのアニミズムとは、世界における生ある思考に注意を向ける方法のことであり、それが生命と思考の重要な特性を増幅し、明かすのである。ルナのアニミズムは、世界を思考するひとつの形式であり、世界=内=思考の独特な属性のいくつかを可視化するようにして、特定の状況でその思考に親密に関与することから生じる(コーン 2016: 129)。

アニミズムとは、ルナ(人間)が「生ある思考」に注意を向けることに他ならない。「生ある思考」に親密に関与することから、アニミズムは生じる。言い換えれば、「生ある思考」こそが、アニミズムの母胎なのである。
 人間が、ウーリーモンキーやイヌやハキリアリやメジロメキシコインコなどの生きとし生けるものの「生ある思考」に注意を向けることの中に、アニミズムの生成の秘密がある。その時、私たち人間は、森の中で、モノの魂を生け捕りにすることになる。
 アニミズムは、生きものが「思考」する精神の動きを垣間見せてくれる瞬間に、人間の感官の前に立ち上がってくる。コーン流の記号論ネットワークの中に現れ出る「生ある思考」によって生じる精神(魂)の働きを、梅原による、小高い山の上から眺めた森の宗教の思想へと接続するならば、アニミズムが遍満する森の曼荼羅=マンダラの構造が見えてくるのではないだろうか。

 ここで見たように、アニミズムとは、人外との際(きわ)で起きる、徹頭徹尾、人間的な現象であった。人外の生きものたちどうしの交換・交渉のみからは、アニミズムは立ち上がってこない。人間不在の世界には、アニミズムはない。アニミズムとは、人間中心主義の最後の砦、その最も縁(へり)のところで起きる現象であると言い換えてもいいのかもしれない。人間的なるもののかなたに、森の思考、森の精神的宇宙を生け捕りにする人間的な感性の内側に、アニミズムは潜在し、発見されることを常に心待ちにしている。
 次回は、この問題、人間とアニミズムをめぐる問題について、本連載の最後に考えてみようと思う。

 

参考文献

梅原猛 1989 「アニミズム再考」『日本研究』1: 13-23、国際日本文化研究センター。
梅原猛 1995 『森の思想が人類を救う』小学館ライブラリー。
中沢新一 2015 「解題 森の思想」南方熊楠著、中沢新一編『森の思想』pp.9-134、河出文庫。
コーン、エドゥアルド 2016 『森は考える:人間的なるものを超えた人類学』奥野克巳・近藤宏共監訳、近藤祉秋・二文字屋脩共訳、亜紀書房。
ハスケル、D.G. 2013 『ミクロの森:1㎡の原生林が語る生命・進化・地球』三木直子訳、築地書館。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回、最終回 2020年3月24日(火)掲載