片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.7.24

03川上弘美から〈メビウスの帯〉の上を歩むうち、還相論へ

 

聖なるものと野蛮から成るナウシカ

 作家・川上弘美が『風の谷のナウシカ』を映画館で観たのは、彼女が女子高校の理科教員をしていた、20代半ばの頃のことだった。彼女は、人間たちの過ちによってできた世界で、その世界に救いをもたらす少女ナウシカにちょっとばかり打ちのめされ、「美しく正しい少女」に嫉妬に近い感情を覚えた。「聖なるもの」の象徴としてのナウシカに対し、過ちを犯す多くの「その他の人々」の代表が自分であるような気がしてならなかったともいう。
 その後、長いこと経ってから、ナウシカが「聖なるもの」の象徴などではないということに、川上は気がつく。「だめな人間」と「だめでない人間」という二項対立の世界に、自分がとらわれていたことに思い至る。川上は『ナウシカ』のビデオを見直してみて、父を殺された少女の野蛮さを発見する。ナウシカは、まったく聖なるものではないし、正に振れるも負に振れるも、自然まかせの、普通の人間だったのである(川上 2013)。
 川上文学には、こうした思考の過程を経ておそらく形成されたであろう、「二項対立の世界」それ自体を崩壊させる構造を持った作品群がある。それらの作品では、人間と、「クマ」や「蛇」や「トカゲ」などの人間以外の異種との出会いや不思議な共存関係が取り上げられる。清水良典が述べるように、そこでは、「あらゆる出会いが〈異種〉の個体とのざわめく邂逅であり共生であるような夢」(清水 2003: 79)が語られる。川上弘美流のアニミズムである。

 

『神様』と『神様2011』

 1993年の川上のデビュー作『神様』では、主人公である人は、クマに誘われて川原に一緒に散歩に出かける。人とクマは、見かけは大きくかけ離れているが、心でつながり合っている。そうした人間と異種のつながりが、川上のアニミズムの根底にある。
 その後、2011年の東日本大震災直後に川上は、『神様』の舞台を「震災後」に置き換えて、『神様2011』を上梓した。その小説の中では、主人公である人とクマが「防護服を身に着けて」散歩に出かける。

 

川原までの道は元水田だった地帯に沿っている。土壌の除染のためにほとんどの水田は掘り返され、つやつやとした土がもりあがっている。作業をしている人たちは、この暑いのに防護服に防塵マスク、腰まである長靴に身をかためている(川上 2011: 8)。

 

『神様』で描かれた、人とクマが織りなす、「ほんと」のような「うそ」の世界を、防塵服だの被爆線量という原発関連の用語が、実に重苦しい雰囲気にしてしまっている。散歩を終えて自宅に戻ってからの『神様』と『神様2011』の描写を比べてみよう。
『神様』では、「部屋に戻って魚を焼き、風呂に入り、眠る前に少し日記を書いた。熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった」(川上 1993: 18)という記述がある。それが、『神様2011』では、以下のような震災後モードに変わっている。

 

部屋に戻って干し魚をくつ入れの上に飾り、シャワーを浴びて丁寧に体と髪をすすぎ、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被爆線量を計算した。今日の推定外部被爆線量・30μSv、内部被爆線量・19μSv。年頭から今日までの推定累積外部被爆線量・2900μSv、推定累積内部被爆線量・1780μSv。熊の神とはどのようなものか。想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった(川上 2011: 36)。

 

被爆線量の数字を並び立てることによって『神様2011』の震災後に、いやます息苦しさ。こうした工夫によって、それは、震災後の日常への問題提起を孕む、豊饒性を湛えた文学になった。

 

蛇を踏む』の人と蛇

『神様』とその変奏である『神様 2011』のように、人間と異種が違和感なく交わり、つうじ合って登場する川上文学の極めつきが、1996年の芥川賞受賞作『蛇を踏む』である。
 主人公のサナダヒワ子は、ミドリ公園に行く途中の藪で蛇を踏む。秋の蛇なので、歩みがのろかったという。踏んでから蛇に気づいた。蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言い、どろりと溶けて形を失った。そして、人間のかたちが現れたのである。人間のかたちになったその蛇は、50歳くらいの女性となって、ヒワ子の部屋に住むようになる。自分のことをヒワ子の母だと名乗り、以前からそこに住んでいたように膳を並べ、ヒワ子とビールを酌み交わす。ヒワ子は、その女が蛇であることを知っている。女は突然寝ると言って、片づけもしないで、部屋に一つだけある柱にからまって、体は薄くなって柱に貼りつき、天井に登り、蛇に戻った。そして、天井に描かれた蛇のようなかたちになって、目を閉じた。
 その後、ヒワ子の勤め先である数珠屋カナカナ堂のおかみさんのニシ子もまた、蛇と関係していることが分かってきた。ニシ子の叔母と名乗るその蛇は、ずいぶん歳を取っていて、死期が近くなったらしく、人間の姿を取れなくなってきて、蛇の嗜好を発揮して、小鳥や蛙を呑みたがる。ニシ子は、蛇の世界はほんとうに暖かいという。蛇の世界に誘われたのに何度も断って、最後には誘われなくなった。ある時、ニシ子はその蛇を踏みつぶした拍子に怪我をする。死んだ蛇は庭に埋められる。
 カナカナ堂の数珠の納品先である願信寺の住職もまた、蛇に関わっている。蛇を女房にしていたことがあるという。蛇は家の切り盛りがうまい。夜のことも絶品だともいう。子どもは産めないが卵を産む。人と蛇が絡まりあう世界のことが、次から次へと語られる。
 そのうちに、ヒワ子の部屋に住んでいる蛇である母は、カナカナ堂で仕事中のヒワ子を訪ねてくるようになる。部屋に戻ると、「ヒワ子ちゃん、もう待てない」と言って、ヒワ子の首を絞め始める。その後の格闘。結論も何もないまま、話は突然終わる。

 

ほんととうその交差、日常のきりの崩壊

 川上によれば、『蛇を踏む』で扱われているのは、「ほんと」と「うそ」の交差である。文庫本の「あとがき」で、自身の作風である「うそばなし」に触れて、川上は以下のように述べている。

 

『うそ』の国は、『ほんと』の国のすぐそばにあって、ところどころには『ほんと』の国と重なっているぶぶんもあります。『うそ』の国は、入口が狭くて、でも奥行きはあんがい広いのです(川上 1999: 172-3)。

 

『蛇を踏む』では、「うそ」と「ほんと」が絶妙に溶け合っている。
 同じく文庫本に収められた「解説――分類学の遊園地」で松浦寿輝は、もう一つの交差としての人と蛇、あるいは人間と動物の交差に触れている。

 

あまたの動物や植物が入り乱れる川上弘美の物語世界では、種と種との間の境界がいきなりどろりと溶け出して、分類学の秩序に取り返しのつかない混乱が生じてしまう。この作者はたしか大学で生物学を専攻したはずなのに、あたかもリンネの命名システムなどまったく信じておらず、と思いこんでいるかのようだ。実際、彼女の登場人物たちは誰も彼も勝手ほうだいに自分を動物化し、植物化し、しまいには生物と無生物との境界も消え去ってしまう(松浦 1999: 174)。

 

冒頭で、ヒワ子が公園に行く途中の藪で蛇を踏むことで、別々の種であると思われていた人と蛇が入り乱れて、溶け合う事態が生じる。いきなりスイッチが入って、種の境界が消滅に向かってひた走っていくのである。
 強烈なのは、蛇が蛇でなくなって、人になるシーンである。「踏まれたらおしまいですね」と蛇が言い、蛇はどろりと溶けて「液体」化し、形を失い、煙のような霞のようなものがたちこめて「気体」に誘われるように、人という「固体」になる。しかしその蛇は完全に人間に「なってしまった」のかというとそうでもなく、眠る時は柱にからまって、蛇に戻る。蛇は、蛇と人の間を自由に往ったり、来たりする。
 ヒワ子は、蛇を踏んだ時にふと感じる。「蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった」(川上 1999: 10)。松浦は、この「きりがない感じ」こそが、世界の分類秩序に対して向けられた川上の「悪意の表現」だと見る。

 

われわれが眺めている世界の風景の場合、「きりがある」のがふつうである。それは「きり」よく分類整序され、たとえば人は人であり蛇は蛇であって、それらカテゴリー間の混同はありえないという明瞭な了解がそこで営まれる安穏な生の持続を保証し続けている。世界は、基盤の枡目のようにかっきりと「きり」分けられているのが常態なのだ。この「きり」の概念を崩壊させてしまうものが川上弘美の小説なのである(松浦 1999: 177)。

 

この小説では、いったいどこからどこまでが人で、どこからどこまでが蛇なのかがはっきりしない。ヒワ子の部屋に住みついた蛇がそうであるように、蛇ははたして蛇なのか、はたまた人(ヒワ子の母)なのか。種の境界がどこにあるのかを考えれば考えるほど、余計に分からなくなってしまう。つまり、「きり」がない。それでいて、話自体はすんなりと頭の中に入ってくる。
「蛇と私の間には壁がなかった」(川上 1999: 29)。蛇は人になったり、人から消え入るように蛇に戻っていこうとしたり、逆に、人も蛇の世界へと誘われたりする。そのことによって、人と蛇は安定的な種ではなく、どちらともがどちらにもなりうることが描かれる。両者が溶け合い、入り乱れ、つうじあって交感し、交歓する世界が文学表現の中にまざまざと感得される。

 

〈メビウスの帯〉と自他未分のアニミズム

 文学研究家・佐藤泉によれば、「壁」があるからこそ話ができるのであって、『蛇を踏む』の中で人と蛇は、人が他の人と話す時のような「壁を隔てた遠い感じ」がない、言語分節以前、社会的次元の介入以前の世界を生きている(佐藤 2003: 123)。人と蛇の間で表れる自他未分の感覚。それを直観的に捉えるのに有効な、一つのモデルを招請してみたい。それは、一つの面と一つの縁しかない、〈メビウスの帯〉と呼ばれる位相幾何学の図形である。
 長い紙の帯の一方を他方の端に対して180度ひねってから、両方の端を貼りつければ、〈メビウスの帯〉ができあがる。〈メビウスの帯〉の特徴は、一つの面しかないということである。これとは対照的に、紙の帯の端をひねることなく貼り付ければ、「筒」や「リング」のようなものになる。その筒には二つの面があるので、一つの面を赤に、もう一つの面を緑に塗り分けることができる。ところが、〈メビウスの帯〉には一つの面しかないのだから、面ごとに色を塗り分けることはできない。
 人と蛇、ほんととうそ、自と他、生と死などの二項から成る世界。〈メビウスの帯〉を一つの喩えとして用いるのは、それらの二項の分節以前、二項の未分の感覚に接近するためである。メビウスのような形をした二次元の世界を想定した場合、そこに住む「平面人」が〈メビウスの帯〉を一周して出発地点に戻ってくると、臓器などは反対側に付いたりして、元の自分の鏡像になる(ピックオーバー 2007: 158-163; 瀬山 2018: 216-226)。〈メビウスの帯〉には、「向き付け不能」と呼ばれる数学上の課題があるのだが、以下ではその点を不問にした上で話を進める。
 中沢新一は、一つの面しかない、すなわち「表と裏の区別がない」この位相幾何学のモデルを用いて、生者の世界と死者の世界が一つながりになっていたであろう「古代人」の心のありように接近している。〈メビウスの帯〉の一つの面の上に蟻を一匹載せて、中心線に沿って歩かせると、蟻は表の面を歩いているうちにいつの間にか裏の面に出てしまう。蟻がもう一度表の面に出るためには、そのままとっとことっとこと歩き続けるしかない。

 

生者の世界がこの見えない流動体をとおして死者の世界に連続していく様子を、この図形はもののみごとに表現してみせることができる(中沢 2003: 97)。

 

中沢によれば、生と死が一つながりになっていた、新石器時代の人々の精神性のある重要な側面を示しているモノがある。死者を埋葬した墓地を囲い込むように作られ、死と隣り合わせで生が営まれていた縄文時代中期の「環状集落」や、死の領域に属する「蛙」の背中から「新生児」誕生の瞬間が描かれた、同じく縄文中期に作られた「人面つき深鉢」(今から約4500年前の縄文土器)である(中沢 2003: 98-103)。それらの墓地と土器は、〈メビウスの帯〉的な思考、つまりアニミズム思考の表れだといえるだろう。
 ところが、縄文後期になると、例えば、三内丸山遺跡で、墓地は集落と外界を結ぶ道路の両脇に配置されたように、死者の世界が生者の世界から空間的に切り離されるようになる。〈メビウスの帯〉に決定的な変化が起きたのである。中沢はその変化を、〈メビウスの帯〉の中心線に沿って、鋏を入れて真ん中で切り裂く、〈メビウスの帯の切り裂き〉の喩えで説明している(中沢 2003: 103-105)。それによって、〈メビウスの帯〉から筒ないしはリングへと形状の変化が起きる。〈メビウスの帯〉を切り裂くと、表と裏の区別ができる。つまり、世界が生者の住む世界と死者の住む世界、こっち側とあっち側という二面にくっきりと分かれるのだ。
〈メビウスの帯の切り裂き〉とは、生と死、「ほんと」と「うそ」などを截然と分ける「二項対立の世界」の出現を視覚化して示すモデルである。他方、〈メビウスの帯〉という位相幾何学はここでは、人と蛇、自と他などを容易に切り離すことができず、一つながりのものとみなす、人獣、自他未分の『蛇を踏む』の世界の喩えである。人と蛇は、色を塗り分けることができない一つながりになった面の上、すなわち〈メビウスの帯〉の上を生き、出会っていたのである。

 

@上野眞澄

 

還相論のほうへ

『蛇を踏む』の土台には、人と蛇は別々の種だとされる現実がある。蛇はしかし、種と種の間を自在に往きつ戻りつする存在者として現れる。ヒワ子の住む現実世界では、人と蛇の間でゆるやかに共有される「人間性」が描かれる。読者はそこに、アニミズムが動き出すさまを感じるだろう。
 人と蛇はまた、あたかも、浄土への「往相(おうそう)」と浄土からの「還相(げんそう)」の往還を含む浄土思想における衆生のようでもある。親鸞の「還相論」では、阿弥陀仏の本願により「浄土」に往生した衆生が「穢土(えど)」へと再び還ってきて、反転して衆生を救う。その往還過程は、評論家・吉本隆明によれば、穢土すなわちこちらの迷いの世界に、浄土すなわちあちらの世界における慈悲の視点を招き入れ、その両方を包括することによって、豊かな智慧を練り上げるための原基となる(吉本 1983; 2012)。
 還相論が、吉本隆明が述べるように、「われわれの思惟のなかに普遍的にある問題を提出している」(吉本1983: 354)のだとすれば、それは同時に、アニミズムの問題でもある。人が蛇の世界に往って蛇となり、蛇が人の世界に来て人になる。それは、種を切り分けて理解する仕方では到達し得ない、包括的な一つの智慧を示している。
 翻って川上文学は、アニミズムを見極めようとする私たちに深いインスピレーションを授けてくれる。〈メビウスの帯〉の面の上を歩むように、人は蛇の世界に誘われて蛇になったり、逆にいつの間にか蛇が人になったりという状態が連続的に立ち現れる。人が動物であり動物が人でもあり、自が他であり他が自でもある、往相と還相の途切れのない過程の内側にアニミズムが畳み込まれている。

 

 

引用文献

川上弘美 1999 『蛇を踏む』 文春文庫。
川上弘美 2001 『神様』 中公文庫。
川上弘美 2011 『神様2011』 講談社。 
川上弘美 2013 「ナウシカの偶然」 スタジオジブリ 文春文庫編 『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』pp.226-229、文春ジブリ文庫。
佐藤泉 2003 「古生物のかなしみ」『ユリイカ(川上弘美読本)』35(13): 120-129、青土社。
清水義典 2003 「〈異種〉への懸想」『ユリイカ(川上弘美読本)』35(13): 72-79、青土社。
瀬山士郎 2018 『読むトポロジー』角川ソフィア文庫。
中沢新一 2003 『神の発明』講談社新書メチエ。
ピックオーバー、クリフォード A. 2007 『メビウスの帯』吉田三知世訳、日経BP社。
松浦寿輝 1999 「解説――分類学の遊園地」、川上弘美 1999 『蛇を踏む』 文春文庫。
吉本隆明 1983 『〈信〉の構造:吉本隆明・全仏教論集成 1944.5~1983.9』春秋社。
吉本隆明 2012 『吉本隆明が語る親鸞』糸井重里事務所。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2019年8月24日(土)掲載