片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.8.24

04壁と連絡通路 ――アニミズムをめぐる二つの態度――

 

アニミズムに築かれた壁

「暗黒の壁」は、アーサー・C・クラークの短編SF小説である(クラーク 2007)。主人公シャーヴェインが住む惑星には、巨大な太陽である「トリローン」がつねに地平線上に上がっていて、惑星の人々に夜は来ない。だがその惑星には、太陽光が届かない「影の国」と呼ばれる場所があった。その先に「暗黒の壁」があって、シャーヴェインは、その向こう側に行くことを企てる。
 彼が壁を越えて旅を続けている間に、シャーヴェイン家3代の教師を務めるグレイルは、シャーヴェインの祖父であるブレイルドンに対して、私たちの世界は「壁の線に沿って終わっておるのだ――しかも終わりではない」(クラーク 2007: 119)という謎めいた言葉を吐く。同時に、手に持っていた紙テープの両端をひねってくっつけ、それをブレイルドンに差し出しながら、指でそのテープをたどってみるように命じる。指示に従ったブレイルドンは呟く。

ただひとつの連続した面、つまり片側だけの面になっています(クラーク 2007:121)

それは、一つながりの面からできた図形だった。
 教師グレイルは、紙テープの端をひねって作った図形が、惑星の祖先たちの古代宗教において広く使われていたのだと述べる。小説の中では言及されないが、その図形とは〈メビウスの帯〉である。
 シャーヴェインはその後、「暗黒の壁」の向こうから惑星に還ってくる。直前、長い石造りの階段が首を垂れ、崩れ落ちる光景を幻視する。壁を越えたところに広がる世界を一周して還ってくれば、内臓の位置や利き手が反転してしまう危険があることを惑星の人々に秘密のままにしておくために、祖先が巨大な階段を破壊したという解釈がある(ピックオーバー 2007: 240)。
「壁には向こう側がないことを彼ほどよく知るものはなかった」(クラーク 2007: 123)という言葉でその物語は締めくくられている。シャーヴェインは「暗黒の壁」の向こう側から帰還し、身をもってその秘密を知ったのである。
 壁の向こう側は一つながりの面で、歩いているうちに裏側に往って、そのまま表側に還ってくることになる。つまり、〈メビウスの帯〉のような世界が広がっている。壁の向こう側の世界とは、こちらとあちら、生と死、人間と動物などという二項の瞭然たる切り分けから成る、惑星のこちら側に住む私たちの現実世界の実在と秩序を無効にしかねない世界であり、その危険性ゆえに祖先たちの叡智により、「暗黒の壁」によって隔絶されたのである。壁によって封じられたのは、一方から他方へ、他方から一方への自由な往還を可能にする高次元の世界だった。
 ところで、「暗黒の壁」によって閉ざされたのは、アニミズム的な世界との連絡だったのだと言えないだろうか。壁の設置は、〈メビウスの帯〉から筒ないしはリングへと形状変化し、表と裏の区別を生じさせ、生者の世界と死者の世界、こっちとあっちという二面がくっきりと隔てる〈メビウスの帯の切り裂き〉と論理的に等価であろう(第3回参照)。
 歩いているうちに死の世界を通り抜けて、そのままふたたび生の世界へと帰還するアニミズム的な世界は、現実世界にけっして流れ込んだり、こちら側に出没したりしてはならない。それらを締め出してしまわないと、世界の秩序は根底から崩壊してしまうのだ。
 だが、〈メビウスの帯〉状の世界を知った人たちの中に、「暗黒の壁」を築いて、惑星へのアニミズムの侵入を喰い止めようとした人たちがいたのとは逆に、あちらの世界やそこに住まう存在者たちと交わって、それらとの連絡を洗練させることによって、アニミズムを一つの完成された様式にまで高めた人たちがいたように思われる。〈メビウスの帯〉、すなわちアニミズム世界との連絡通路を残しておくことで、現実世界をより豊かにしようと努めた人たちもいたのである。〈メビウスの帯〉状の世界に対する人類の肯定的な思考の典型を、アイヌの儀礼「クマ送り(イヨマンテ)」に見ることができる。

 

アニミズムの様式としてのクマ送り

 アイヌの人たちは、人間が使ったお椀や道具、狩猟したクマやキツネなどの動物の魂を神(カムイ)の世界へと送る儀礼を行ってきた。器や茣蓙などのモノは、長い間の苦労をねぎらわれ、ゆっくり休むように感謝の言葉を述べられた後に祭壇へと運ばれ、神の世界へと送られてきた(藤村 1995: 213-4)。そうした「送り」の儀礼の中でも特によく知られているのが、クマ送りである。
 アイヌにとって、クマは人間の世界に肉と毛皮という「みやげ」を持ってやって来る神の化身だと考えられてきた。神はクマの毛皮に肉を詰めて人間の世界を訪れ、人間によって殺される。それは、アイヌ語では「マラプト・ネ(賓客になる)」と表現される。神は毛皮や肉を人間に与える代わりに、歌や踊りで歓待され、たくさんのみやげをたずさえて、ふたたび神の世界に還っていく。そして神の世界でみやげをふるまいながら、歓迎を含め、素晴らしい人間の世界の様子を語って聞かせる。
 こうした存在論――人間にとってたいへん都合のよい考え方で、クマが聞いたらそんなばかな(笑)というにちがいない(梅原 1995: 38)――の土台の上に行われるのが、クマ送りだった。それは、クマの魂を送る儀礼である。子グマを手に入れ、飼育した後にクマを殺して祀り、饗宴を催すクマ送りは、アイヌ、ニヴフ、ウィルタ、ウリチ、オロチなど北海道、サハリン、アムール河口流域で行われてきた(池田 2013: 84)。
 実際には、アイヌの人々は子連れのクマを捕えると、母グマを食べてその魂を送った後、子グマは人間の子と同じように可愛がって、食事もよいところを先に与えて育てたという。子グマが1~2歳になると、クマ送りを行った。幾日も前から念入りに準備をした後、大勢の客を招いて祭宴を催した。
 儀礼の当日、檻の中から子グマに縄をつけて引き出し、花矢をあてて興奮させた後、本矢を放って締め木で首を絞めて息の根を止める。魂が身体を離れると、クマの体を祭壇の前に置き、肉をみなで食べた後、魂を神の世界に旅立たせる。その後、頭骨の皮を剥いで首飾りをつけて飾りつけ、鮭などのみやげとともに祭壇に供えて、神の世界に無事に還るよう祈る。文化人類学の教科書では、クマ送りは「自然現象やものを、人間同様の生きた存在とみなす考え方」であるアニミズムとして取り上げられている(松岡 1993: 154)。
 アイヌにとって神の世界とは、人間の世界から超越した他界ではない。両者の間には、つねに連絡と交換が行われている。そうした事態をアニミズムと呼ぶのは簡単ではあるが、大切なのは、アニミストたちの精神の中でどんなプロセスが起きているのかをできるだけ正確につかみ出すことだと、中沢新一は述べる。

この世界と同じところにあるのだけれども、実在の次元のちがう領域に、アイヌの「霊の世界」はあります。神々のすむその霊的な世界は、人間の世界を包み込み、そこにエネルギーを送りこもうとしています。しかもそのエネルギーは、聖なる力にみちあふれ、人間の生命と精神を養ってくれるような、ありがたいものなのです…(中略)…神々が人間に聖なるエネルギーを放射するときには、そのエネルギーは霊的な高次元体が人間の世界に触れる境界面上で、肉体をともなった動物の生命にかたちを変えるのです。つまり、その境界面上で、神々のエネルギーは「動物の仮面」を身にまとって、人間の世界に登場してくることになるのです(中沢 1991: 301)。

 中沢によれば、人間の世界と実在の次元が異なる領域に住む神は、境界上のどこかでクマに「変身」して、人間の世界にやって来る。神がまとうのがクマの「仮面」であり、また神は、生命と精神を養ってくれる聖なるエネルギーを人間にもたらしてくれる。
 しかしクマ(神)が、人間の世界と神の世界の間を往来するのは一度だけではない。クマ(神)は何度も何度も、人間と神の世界をつなぐ連絡通路を往還する。ここでは、位相幾何学のモデル(第3回参照)を用いて、クマ(神)が人間の世界と神の世界を往ったり来たりする、ループ状の往還過程を探ってみよう。
 クマ送りを題材にして書かれた池澤夏樹の創作神話『熊になった少年』(池澤 2009)が、打ってつけの素材である。その話の軸は、アイヌのクマ送りをひっくり返して、クマを人間に置き換えて、人間がクマの世界に往き、ふたたび人間の世界に還ってくるというストーリーである。「暗黒の壁」でシャーヴェインが壁の向こうに往って還ってきたように、人間がクマの世界に往って還ってくる。

 

アニミズムの連絡通路での無限のループ

 イキリという名の少年は、クマを飼って暮らすトゥムンチの一族だった。トゥムンチは、自分たちが強いためクマが獲れると思っており、アイヌがやっているように、クマ送りをすることはなかった。子グマは飼い育てるが、残り物を与えていじめ、大きくなると殺して食べるだけだった。
 ある日、イキリが叔父についてクマ狩りに行くと、母グマに巣穴に案内される。そこには、二頭の子グマがいて、兄弟として一緒に暮らす。みなで遊んでいるうちに傷がもとで黒い毛が生え、イキリはクマになる。山から山を遊びまわっているうちに秋になり、冬になる前に冬眠し、春になるとイキリは母グマから追い出され、独り立ちする。
 ある日、イキリであるクマは人間に出くわす。弓矢で射抜かれて、本来の人間であるイキリに戻る。トゥムンチの村に戻り、イキリは母グマと兄弟たちのことをみなに話し聞かせ、狩りをしたらクマの魂が神の世界に行けるように、クマ送りをするように頼む。しかしトゥムンチの人々は口々に、そんなアイヌのようなことはできないと言い張って、これまでと同じようにクマを狩り続けるだけで、けっしてクマ送りをしようとはしない。悲しくなったイキリは高い崖の上から身を投げて、その魂は正しい国に生まれ変わった(池澤 2009)。
 池澤は、幕末期に北海道に入植した祖先のアイヌとの交流を文学作品にする過程(池澤 2003)で得た、アイヌのクマ送りに対する深い理解に基づいて、この創作神話を紡ぎ出している。傷をつけることは、アイヌにとって「死」を意味し、魂が器などのモノから離れることを促す作法だとされる(中川 2019: 145)。『熊になった少年』の中では、クマと遊んでいるうちに傷を負うことでイキリがクマになり、弓矢の傷によってクマがイキリに戻るという二度目の「変身」をつうじて、人→クマ(神)→人というループが完成しているように見える。
 しかし、最後にイキリが自ら己の魂を送ることで正しい者の国、すなわち神の世界に旅立ったのだとすれば、人はさらにループの次の局面に入ったことになる。人→クマ(神)→人→クマ(神)である。このことはおそらく、さらに次の局面への再入を予感させる。

人→クマ(神)→人→クマ(神)→人…

 人とクマ(神)の連絡通路は、歩いていくうちに、知らない間に他なる世界に入り込み、他なるものになっているという〈メビウスの帯〉に喩えることができよう。『熊になった少年』では、人とクマ(神)が、〈メビウスの帯〉の連絡通路の上で、無限の往還を繰り返す。人の皮を被った存在者はクマの皮を被ったり、また人の皮を被った存在者に戻ったりする。そのループに終わりはない。
 無限に往還するループは、アイヌの人たち自身によっても、研究者によっても、様々なヴァリアントで語られる。人類学者の山田孝子は、別の観点からそのことを述べている。

静内のある古老は次のように語っていた。「カムイは人であり、人はカムイである」。カムイはカムイ・モシリでは「人」の姿をして暮らし、アイヌ・モシリを訪れるときにのみ神格化されたカムイとなって登場するのである。逆に、人間はアイヌ・モシリにおいてのみ「人」であり、死後、すなわちカムイ・モシリを訪れることによってカムイに変態するのである(山田 1994: 107-108)。

 モシリとは、大地、世界、住む場所のことである。山田によれば、神の世界では神は人であるが、人の世界では神となって現れる。人も死後に神の世界で神となる。アイヌには、神が人であり、人が神であるような世界がある。そこでは、クマとは、神と人の無限のループにおける表れの一様態である。
 神のミアンゲ(みやげ)――もともと「身をあげる」の意(梅原 1995: 38)――であるクマの肉は人に食べられ、人の生を可能にする。人は老いて死に、屍が土にふたたび還るとともに、人の魂は神の世界に向かう。そこで人は神になる。神はまたクマとなって、ミアンゲを下げて人の世界に降りてくる。人とクマ(神)の無限のループ構造は、アイヌの人たちの生命現象への直観に支えられている。
 そのループには、ひねりが入っている。それは、筒やリングのような、裏と表が分かれている輪っか状のものではない。輪っかの上を歩むかぎり、表から裏に通り抜けることはできない。〈メビウスの帯〉には裏と表がないため、こちら側から出かけて往って、あちら側を知らない間に通過し、いつの間にかこちら側に還ってきている。
 表と裏の区別がなく、一つの連続した面からなる〈メビウスの帯〉の上でイキリがクマになり、クマがイキリになったように、入れ代わり立ち代わり、人は神になり、神は人になる。神は人の前にはクマとなって現れる。壁によって遮断されていないがゆえに、人間の世界と神の世界の間は、表裏の区別がない連絡通路でつながっていて、自由な往還が可能なまま残されてきたのである。

 

我々はアニミズムを閉ざしてしまっていないか

 ところで、クマを神であるとするベーリング海峡の東西を跨ぐ地域に住む先住民たちの集合的な記憶を扱った著書『熊から王へ』の中で中沢は、人間と動物の間の対称的な関係を想定する「対称性思考」の広がりの南限は、アイヌの世界にあると見ている。そこから南下していくと、人間が動物に対して優位に立つ「非対称性思考」が支配的になるという。

かわりに登場してくるのが、人間の生物圏における圧倒的な優位を少しも疑わない人々です。この人々は、自分だけは食物連鎖の環から超越した存在であると思い込み、動物たちを自由に囲い込んだり、スポーツとなった狩猟で動物たちを殺してもかまわないと思うようになります。少なくとも、そういうことに疑いを持たない人間になるのです(中沢 2002: 28)。

『熊になった少年』では、アイヌより南方に住んでいるのは、トゥムンチということになる。さらに言えば、それは大和民族でもあるのだろう。
 池澤が描くトゥムンチは、人間の力、自らの力のみを信じて疑うことがない民族だった。彼らはけっしてクマ送りをすることはない、アニミズムの連絡通路を壁で閉ざしている人たちとして描かれていた。それに対し、アイヌの人たちは、クラークのSF小説「暗黒の壁」で危険視され、封じ込められたアニミズム的な世界と、〈メビウスの帯〉という連絡通路をつうじて交流し交換することによって、アニミズムを一つの様式にまで高めていたのではなかったか。
 アニミズムは、「始めと終わりがつながっているのである。はじめが終わりで、終わりが始め。その間に無時という不思議な時が折り込まれている」(岩田 1993: 144)。その連絡と交換は無時ないしは「同時」に行われるのであるが、この「同時性」というアニミズムのもう一つの特性については、機会を改めて論じてみたい。

 

引用文献
池田貴夫 2013 「アイヌのクマ送り儀礼」『ユリイカ』(特集:クマ)45(12): 84-90、青土社。
池澤夏樹 2003 『静かな大地』朝日新聞社。
池澤夏樹 2009 『熊になった少年』スイッチ・パブリッシング。
岩田慶治 1993 『アニミズム時代』法藏館。
梅原猛 1995 『森の思想が人類を救う』小学館ライブラリー。
クラーク、アーサー・C 2007 「暗黒の壁」『天の向こう側』山高昭訳、ハヤカワ文庫。
中川裕 2019 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』集英社新書。
中沢新一 1991 『東方へ』せりか書房。
中沢新一 2002 『熊から王へ』講談社選書メチエ。
ピックオーバー、クリフォード A. 2007 『〈メビウスの帯〉』吉田三知世訳、日経BP社。
藤村久和 1995 『アイヌ、神々と生きる人々』小学館ライブラリー。
松岡悦子 1993 「第5章 宗教と世界観」波平恵美子編『文化人類学[カレッジ版]』pp.135-165、医学書院。
山田孝子 1994 『アイヌの世界観:「ことば」から読む自然と宇宙』講談社選書メチエ。

 

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2019年9月24日(火)掲載