片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.9.24

05往って還ってこい、生きものたちよ

 

異次元に往って還ってきた地下鉄

 幻想数学短編小説と銘打たれた「メビウスという名の地下鉄」(ドイッチュ 1994)という小説がある。そこで描かれるのは、アメリカ・ボストン市のうんざりするような複雑な地下鉄のネットワークが生み出した〈メビウスの帯〉的な世界である。 
 地下鉄の86号電車が350人の乗客を乗せたまま、ある日忽然と消えてしまう。3日後まで誰もそのことには気づかない。地下鉄の総支配人は、地下鉄が高次元的に連結され、一つの面から成る〈メビウスの帯〉的なものになったため、電車が消えてしまったのではないかと推測する。代数学者はその推論に同意し、電車は路線上にいるはずだと指摘する。
 その通り、消えてしまってから10週の後、86号電車は突然その姿を現し、警察が全乗客を保護する。しかしその直前に、今度は143号電車が消えてしまう…。
 その小説では、「地下鉄網はいつしかとてつもなく複雑になって、大きな弧を描くようになって、異次元空間にまで入り込んでしまう」(ピックオーバー 2007: 241)ことによって、電車が〈メビウスの帯〉のあちら側に往ってしまったのだ。〈メビウスの帯〉にはひとつの面しかなく、消えた電車はそのうちにこちら側に還ってくる。電車は、三次元の世界を超えて知らない間に四次元世界に入り込み、再び三次元世界に還ってくるのだと言い換えてもよい。
 こちら側があちら側であり、あちら側がこちら側でもある、ひとつの面しかない連絡通路を通って往って還ってくるという意味で、それはまた、一種のアニミズムでもある(第3回、第4回参照)。
 今回は、アニミズムが、目に見えるかたちで形象化された、日本国内の「生きもの供養碑」(石碑)を取り上げる。生きもの供養碑というアニミズムをつうじて、路線上を異次元にまで往って還ってきたボストンの地下鉄の電車のように、生きものの霊や魂がこちら側とあちら側を往還する動きを探ってみたい。

 

生きもの供養碑とは

 話を進める前に、生きもの供養碑に関してかいつまんで述べておきたい。 
 民俗学者の田中宣一は、日本の各地で営まれている生きものに対する供養行事は、アニミズムの流れを背景にしつつ、長い間にわたって仏教思想で培われた精神の結果生まれたものであると述べている(田中 2006)。これに対し、歴史学者の中村生雄は逆のことを言う。宝塔供養や鐘供養のように仏事としての供養が行われ、針供養や人形供養などとして年中行事化したが、その後供養対象がモノから死者の霊に拡張され、死者の追善供養が行われるだけでなく、その形式が動物などにも適用され、草木塔のように植物にまで広がっていったという(中村 2001)。生きものに対する供養は、アニミズムから発し、仏教の影響を受けて広がったのか、あるいは仏教的な行事から始まったのか。供養の対象とその思想的な背景の先後関係に関しては研究者の間で見解の一致は見られていない。
 それはともかく、人類学者の中牧弘允が指摘するように、花や魚から迷子郵便に至るまでアニミズムが、日本各地で供養碑などに結晶化している(中牧 1990)。民俗学者の木村博によれば、動植物に対する供養とは、「広義の『鎮魂の民俗』」(木村 1988: 389)である。供養の対象を多方面に拡張してきた日本人の態度の背景に見ることができるのは、人間が食べるために生命を奪った生きもの、死んでしまった存在者、愛着を感じていた生きものなどに対して弔いや慰霊などを行ってきた(いる)という事実である。日本人には――日本人に限ったことではないが――、様々な対象やモノに対して、アニミズムを行う精神性が深く広く浸透してきたと見ることもできる。
 仮に、こうした見方がこれまでのアニミズムの一般的なイメージなのだとすれば、以下では、特定の地域のアニミズムの形象に焦点をあてて、その本質をもう一歩先にまで行って探ってみたいと思う。日本の全国各地に、「生きものに対する供養や鎮魂の念を形象化した」石碑が点在する。石碑の表面には獣魂碑、鳥獣供養碑などの文字が刻まれている。決まった呼び名はないが、それらをここでは、「生きもの供養碑」と呼んでおきたい。神奈川県相模原市を歩いて、いくつかの生きもの供養碑を見に出かけよう。

 

蠶霊供養塔

 JR東日本相模原線の上溝駅近くの上溝JAの敷地内には、蠶影(こかげ)神社の社がある。蠶影神社の本社は茨城県つくば市にあり、その信仰圏は南関東甲信地方にまで広がっている(相模原市史編さん室 2004: 101)。その小さな本殿の脇には、〈蠶霊(さんれい)供養塔〉が建っている。高さが1メートルにも満たない、小さないしぶみである。裏面には「昭和六年十月十六日建立」と刻まれている。 


 上溝JAの職員によれば、その場所に蠶影神社がいつどういう経緯で勧請されたのかについてははっきりしないが、現在でも毎年一月にJA関係者によって豊蚕(ほうさん)祭が行われている。ご神体は盗難を恐れて、事務所の中に安置されているという。JAに来ていた女性は、この地に嫁いできた昭和39(1964)年には「おかいこ」と称する、蚕の霊(蠶霊)の供養行事が行われ、それは昭和40年代までは続けられていたと語った。
 その様子は『相模原市史 現代図録編』で確認することができる。キャプションには、「蚕影神社 上溝 1970年代 蚕神を祭った神社で、養蚕の豊蚕を願い、盛んに信仰された。蚕は『オカイコサマ』と呼ばれ、大事にされた」(相模原市史編さん室 2004: 101)とある。
 日米修好条約の翌年の1859(明治8)年に開港された横浜港には、輸出用の生糸が集積されるようになった。津久井や八王子方面で生産された生糸が、「絹の道」をつうじて横浜に運ばれた。
 水田に乏しく、米の収穫が少なかった相模原一帯で養蚕が行われるようになり、明治以降に農家の大きな収入源となった。農家には中二階が設けられ、養蚕専用の蚕室が建てられたりした。繭は農家で生糸にし、機織りも行われた。明治3(1870)年に生糸や繭などの商取引のために上溝市場が開設され、その後上溝は商家が立ち並ぶ商業地となる。
 昭和29(1954)年には、相模原市の桑園面積は600㌶、養蚕農家は2500戸で、神奈川県下の三の一の繭の生産量を誇ったが、その後養蚕業は、都市化とともに衰退の一途を辿った(相模原市史編さん室 2004: 100)。
 養蚕が盛んだった時代には、相模原市では様々な神仏が養蚕守護とされていた。特に、上鶴間の蚕守稲荷神社が人気を集めただけでなく、一帯で養蚕に関わる儀礼や信仰が広く見られたという(相模原市史編さん室 2010: 101)。

 

豚霊碑

 JR相模線の原当麻駅前のJAの敷地内には、〈豚霊碑〉が建っている。昭和42(1967)年に建てられたその碑の裏には、従来のように農家が米作りをしながら豚を飼い育てて売る形態では経済が立ち行かなくなり、畜舎を設けて専業としての家畜業に乗り出したことが記録されている。農業協同組合が中心となって高品質の豚を導入し、販売先を開拓して、豚の生産と販売を開始した。昭和37(1962)年に群馬県から導入された子豚が繁殖を繰り返して、その5年後に年間一万頭出荷を達成した。関係者はそのことを祝してこの豚霊碑を建てた。その碑から読み取れるのは、豚の霊に対する弔いだけではなく、経済的な成功に対する顕彰である。「一万頭年間出荷達成を祝と共に豚霊碑を建立する」とある。 


 相模原市内には、明治時代から豚を飼育する農家があったが、養豚経営が行われるのは大正時代になってからである。イギリスから「中ヨークシャー種」の豚が輸入され、広く飼育されるようになったのが「高座豚」である(相模原市史編さん室 2004: 106)。農業も養蚕も養豚もやるかつての多角経営から、昭和30年代から40年代にかけて、養豚専業へと経営を一本化する農家が現れたことが(相模原市史編さん室 2010: 107)、豚霊碑建立の背景にある。
 豚霊碑の向かって左には、それよりもひとまわり小さい〈畜霊塔〉が立っている。昭和18(1943)年3月に、麻溝搾乳組合によって建てられたとある。豚霊碑は、〈畜霊塔〉建立の24年後の建立である。

 

鮎供養塔

 高田橋は、相模原市の水郷田名と愛甲郡愛川町の角田を結ぶ、相模川に架けられた橋である。高田橋の橋脚の脇に〈鮎供養塔〉が立っている。 
 相模川は、山梨県の富士五湖を水源として神奈川県に入り、相模湾に注いでいる。相模川は現在の相模原市付近では「鮎河」とも呼ばれ、鮎漁で知られていた。江戸時代には相模川の鮎は、江戸本丸御用として上納されていた。また、かつては鵜飼による鮎漁も行われていた。現在でも相模川では鮎釣りが盛んで、毎年6月1日の解禁日には多くの釣り人が訪れる(相模原市史編さん室 2004: 60)。
 鮎供養搭の裏面には 「相模川第一漁業協同組合 昭和三二年四月」という文字が刻まれている。それは、鮎の供養のために、地元水郷田名観光協会によって建てられたとされる(相模原市史編さん室 2004: 60)。



畜霊碑

 かつての屠畜場があったとされる場所の跡地に建てられた現在のJA全農ミートフーズの敷地内に、ひときわ大きな〈畜霊碑〉が立っている。表面には、「神奈川県知事 津田文吾書」とある。裏面には、以下の文字が刻まれていた。


相模原は畜産団地として全国に名を知られその生産数は五十億円を突破し本市農家の基盤となっている。とくに関係者一同先人の労苦を偲ぶとともに犠牲となった家畜の霊を慰めるため碑を建て今後の畜産の隆盛を祈念

相模原市酪農家一同
     養豚家一同
     養鶏家一同
     食鶏家一同
上溝肥育牛組合
相模原市農業協同組合
株式会社北相高崎ハム
昭和四十五年九月彼岸建立
相模原畜霊碑建設委員会 委員長 小泉保雄


「関係者一同先人の労苦を偲ぶ」ことと「犠牲となった家畜の霊を慰める」こと、さらには「今後の畜産の隆盛を祈念」が碑文にうたわれている。


 相模原の畜産業は、明治29(1896)年にまで遡る。その年、上溝に豚肉の処理・加工場が建設された。豚は横浜と畜場まで運んで処理しなければならなかったため、輸送費の軽減が図られたのである。昭和35(1960)年に、(株)相模原と畜場がその事業を引き継いでいる(相模原市史編さん室 2004: 107)。昭和50(1975)年には、(財)相模原食肉公社・相模原食肉センターに継承され、それは平成13(2000)年に閉鎖されている(相模原市史編さん室 2010: 108)。

 

相模原アニミズム・シティ

 相模原市を歩いて、いくつかの生きもの供養碑を見てきた。考える手がかりを得るために、人類学者の田口理恵の言葉を引きたい。

中世やそれ以前の出来事を伝える由来や伝承をもった碑もあるが、捕鯨や漁撈など、人が命を奪った生き物を想って建てた供養碑が登場するのは江戸時代になってからといえるだろう。殺生した生き物のための供養碑は、江戸時代以降も建て続けられ、21世紀建立の供養碑も少なくない。しかも碑の建立は、近代になってより盛んになり、明治以降の供養碑の増加は、供養主体や供養対象、建立動機の多様化とともに進んできたといえる。供養碑には、それを立てた人々の自然や生命への思いとともに、建立時の時代状況が刻み込まれている(田口 2010: vi)。

明治以降に盛んに建てられるようになった供養碑は、水域の生き物を祀った碑に限られるわけではない。あらゆる生きものの供養碑が、明治以降に盛んに建てられるようになった。相模原の事例からも、そのように言うことができるだろう。 
 相模原市内の生きもの供養碑の建立は、少なくとも一部が、明治以降の産業化の過程に対応している。上溝の蠶霊供養塔は昭和6(1931)年、麻溝の畜霊供養塔は昭和18(1943)年、高田橋の鮎供養塔は昭和32(1957)年、原当麻の豚霊碑は昭和42(1967)年、JAの畜霊碑は昭和45(1970)年にそれぞれ建てられている。蚕の霊、乳牛の霊、鮎の霊、豚の霊、家畜の霊が祀られている。それらは、養蚕業から畜産業という、相模原市内の産業の移り変わりになだらかに照応する。
民俗学者の松崎憲三は言う。

石碑は、地域社会の人びとの共同意志に基づいて建立されたものであり、そこには、その時々の人びとの心の在り処が刻み込まれている(松崎 2004: 103)。

蚕で生計を立てている時代には、人々は蚕の霊を慰めつつ、豊蚕や養蚕業の隆盛を祈った。養豚業が盛んになると、人々は豚の霊を慰めつつ、その養豚業の成功を祝った。畜産業が行われるようになると、人々は犠牲となった家畜の霊を慰めつつ、畜産のさらなる隆盛を祈念した。自らが生命を奪った生きものに対する供養だけでなく、各時代の生業の発展を祈ることによって、相模原市は明治以降の産業化の時代に「アニミズム・シティ」となったと見ることができるのかもしれない。
 最後に考えてみたいのは、生きもの供養碑が持つアニミズムの意味合いについてである。

 

往相即還相、還相即往相

 相模原市の事例から言えるのは、生きもの供養碑は、「生きものに対する供養や鎮魂の念を形象化した」というだけではない、ということである。生きもの供養碑の建立はまた、人間が生きることを確かなものにしたいという望みによって支えられてきた。生きものの霊や魂をあちらへと送り込むことによって、こちらへの見返りが願われる。そうした往還の構造が潜んでいる。
 それは、『メビウスという名の地下鉄』で描かれた、電車が線路を辿っているうちに知らない間に高次元の世界へと入って往き、そのうちに線路を通って再び還ってくるという往還のプロセスとほぼ同じものである。違いは、それが複雑な地下鉄網によって図らずもつくられてしまったのか、生きもの供養碑が人々の努力によってつくり出されるのか、である。
 こちらがあちらであり、あちらがこちらでもある、ひとつの面から成る〈メビウスの帯〉状の通路のあちらの方へと蚕や豚や鮎や家畜など(の魂)を送るために、人々は力を合わせて生きもの供養碑を建立する。そのことは、生きものたちの魂を鎮めたり、供養したりするためだけではなかった。同時に、人々は生きもの供養碑を介して、生きものがあちらからこちらへと還ってくること、つまり、多くの生きものたちが自分たちのもとにもたらされてきた僥倖を永続化することを祈念する。
 アニミズムにおける往相と還相のテーマは、アイヌのイヨマンテにおいて指摘したとおりである(第4回)。生きもの供養碑のアニミズムを考える場合、生きものたちをあの世へと送り込むという一回きりの動きとして捉えるだけでは十分ではない。生きもの供養碑は、あちら(あの世)に往くだけでなく、こちら(この世)に還ってくることの形象化だと捉えるべきである。
 吉本隆明は、親鸞は「死を生の延長線に、生を打ち切らせるものというようには考えなかった」(吉本 2002: 153)と捉えた上で、「人間は生きながら常に死からの眺望を生に繰入れていなければならない」(吉本 2002: 153)という思想を親鸞の核心に位置づけている。ことによると、そうした還相論的な浄土思想が、アニミズムに本来備わっていた〈メビウスの帯〉的な往還のテーマを強化するように働いたのかもしれない。いずれにせよ、還ってきたものは、次に往くものをさらに生み出す。


「往相即還相、還相即往相」(鈴木・金子 2003)。

生きもの供養碑に見られるアニミズムでは、生命を奪った生きものの魂が鎮められたり、供養されたりするだけではない。同時に、人間の救済も祈られる。生きものたちがこちらに還ってきたならば、「送り」がなされる。そのようにして、無限のループ構造を持ったアニミズムが働いている。

 調査にご協力いただいた、JA相模原市原当麻駅前支店、相模原市農協上溝支店、JA全農ミートフーズ株式会社首都圏西部支店に謝意を表します。

 

引用文献
木村博 1988 「動植物供養の習俗」『仏教民俗学体系4:祖先祭祀と葬墓』pp.375-390、名著出版。
相模原市史編さん室 2004 『相模原市史 現代図録編』。
相模原市史編さん室 2010 『相模原市史 民俗編』。
鈴木大拙・金子大栄(対談) 2003 「浄土信仰をめぐって」『禅者のことば:鈴木大拙講演選集』アートデイズ。
中牧弘允 1990 『宗教に何がおきているか』平凡社。
中村生雄 2001 『祭祀と供養:日本人の自然観・動物観』法蔵館。
田口理恵編 2012 『魚のとむらい:供養碑から読み解く人と魚のものがたり』東海大学出版会。
田中宣一 2006 『供養のこころと願掛けのかたち』小学館。
ドイッチュ、A.J. 1994 「メビウスという名の地下鉄」R.A.ハインライン他著、三浦朱門訳、『第四次元の小説:幻想数学短編集』pp.97-135、小学館。
ピックオーバー、クリフォード A.  2007 『メビウスの帯』吉田三知世訳、日経BP社。
松崎憲三 2004 『現代供養論考:ヒト・モノ・動植物の慰霊』慶友社。
吉本隆明 2002 『最後の親鸞』ちくま学芸文庫。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2019年10月24日(木)掲載