片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.6.24

02風の谷のアニミズム


ときめかないモノたち、それはゴミとなる

 所有者にとって「ときめき」が感じられなかったモノ、つまり、こんまりが感謝の気持ちを念じて捨てよ、と唱える衣類や本などは、その直後、ゴミに転じる。より一般化して述べれば、気に入ったため、必要のため、あるいはその他何らかの理由で個人のもとに集まってきたモノは、その場に滞って不用あるいは用済みとなり、やがてゴミに変化(へんげ)する。
 現代日本では、ゴミを気の向くままに、勝手に捨てることはできない。ゴミを片づけることは、たいそう骨が折れる。ときめきが感じられなかったモノの処理もまた、今日では重大事なのである。燃やせたり燃やせなかったり、再資源化したりという処理のしかたの違いと、大きさや量などに応じて分別し、決まった曜日と時間に、決まった場所に、決まったやり方で、ゴミは出さなければならない。ゴミとなったモノが、私たちの暮らしの舞台である周囲の自然環境を汚したり、使えなくしたりする負荷を軽減するためである。
 翻って、ときめきを感じ、取っておくモノと捨てるモノを選別し、捨てるモノを人間から切断することによって片づける「こんまりメソッド」は、その裏で、ゴミの大量出現と、その結果としての自然環境の悪化という、ゴミ問題への自覚に乏しい、とは言えないだろうか。それは、人間の暮らしの快適性と精神の安定性のためだけにモノと向き合っているとは言えないだろうか。その意味で、こんまりメソッドは、人間中心主義の磁場に囚われているのかもしれない。
 アニミズムとは、この惑星や宇宙におけるあらゆる存在者のうち、人間だけが必ずしも主人なのではないとする思想である。
 こんまりは、ときめかないモノ、ゴミになったモノたちの気持ちや感情を気にすることはない。ゴミとなった瞬間に、モノの気持ちや感情は人間から切り離され、人間とのつながりを失ってしまう。捨てる行為をつうじて、人間がモノに対して主人たる位置を占めるようになる。その意味で、こんまりは「半分、アニミスト」なのかもしれない。ときめくモノに対してだけの。モノとの間で心を通わせる、全幅のアニミストだとは言えないように思われる。
 では、モノを捨てなければアニミストなのか? 「ホーディング」。それは、モノを捨てられなかったり、片づけられなかったりすることである。人口の2~5パーセントが「ホーダー」という試算があり、アメリカでは600万~1500万人がホーディングに苦しみ、ストレスを抱えたり、生きる力を損なわれたりしているという(フロスト+スティケティー 2012: 16-7)。ホーダーまで含めて、捨てない者たちがアニミストなのかというと、そうは言えないのかもしれない。問題はそう簡単ではない。
 それでは、アニミズムはいったいどこにあるのだろうか?
 以下では、現代日本人がイメージしやすい一つの例として、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(映画版を指す。以下、『ナウシカ』と略称)を取り上げてみようと思う。『ナウシカ』は、高度な文明が「火の七日間」戦争によって滅んでから千年後の地球が舞台である。風の谷の住人たちは、有毒の瘴気を発する菌類の森である「腐海」に覆われ、巨大な虫たちに怯えながら暮らしている。



ナウシカと王蟲、生命の持つ魂の同質性

『ナウシカ』は「宗教的に感じられる」(小野 2016: 36)。それは、『ナウシカ』が侵略してくる異星人を撃退するSFではなく、腐海に呑み込まれて滅びず、逆に生き延びるにはどうするかという問いを投げかけているからである(小野 2016: 35-6)。敵が自然や地球であるため、その姿ははっきりとは見えない(小野 2016: 36)。戦う相手である自然や地球と、人間との目に見えない次元でのつながりが、『ナウシカ』を宗教的あるいはアニミズム的にしているのだ。
『ナウシカ』で描かれるのは、人間と、王蟲を頂点とする多様な虫や菌類などとの間の「衝突」や「交感」である。人と人以外の存在とのそうした関係が描かれる時、そこにアニミズムが現れるのは、何ら不思議なことではない。宮崎自身も、アニミズムに対するシンパシーを表明しているし(スタジオジブリ編 2013: 21; 杉田 2014: 75)、ナウシカは、アニミズム的なものをその肉体で信じる娘であると評されることもある(杉田 2014: 90)マンガ研究者の小山昌宏は、ナウシカに関して、以下のように言う。

ナウシカの能力のひとつは人間以外の生命、自然との一体感(絆)を喚起、保持する力である。…(中略)…おそらくナウシカが、はやくから生命の持つ魂の同質性に気づき、目に見えないもの、耳に聞こえないもの、身体に感じられないものを支配する「精霊」の存在を感じ取ることができたからに違いない(小山 2009: 137)。


小山は、ナウシカの「生命の持つ魂の同質性に気づく能力」を、アニミズムを土台としたシャーマニックな能力であると見ている。小山はまた、ナウシカが「自然界と人間界、人間の生命と自然界の魂の同質性を感じ取っていた」(小山 2009: 138)のだと述べて、『ナウシカ』の中に、アニミズムが深く流れ込んでいることを示唆している。
「生命の持つ魂の同質性」、すなわち人と人以外の存在や現象の間に、同質的に魂が宿っていると感じられることが、アニミズムの正体である。ナウシカは、人以外の存在との関係を自ら断ち切ってしまうことなどない。
 王蟲とは、「芋虫とワラジムシが合わさったようなプロポーションに硬い外殻を持ち、戦車のように重量感のあるダークグレーの虫」(切通 2001: 20)である。「実際に居たら感情移入する人は少いであろうこの巨大虫を美少女が愛でる」(切通 2001: 20)。つまり、少女と巨大な虫の心がつうじ合うことが、『ナウシカ』のストーリーの軸になっている。
 ナウシカと、脱皮して巨大化するけれども変態せず、幼虫の形態を保ったままの王蟲は、美少女と醜怪な巨大虫という点で、形こそいちじるしく異なるとはいえ、同じ本質を有する、いわば仲間同士である(正木 2011: 80)。宗教学者・正木晃は、ナウシカと王蟲は、処女性と幼虫性において似ていると指摘しているが、両者の間には、小山の言う「生命の持つ魂の同質性」があると理解したほうがいいだろう。ナウシカと王蟲は、身体を比べてみると、すなわち見かけの点では、大きな断絶があるが、心を通い合わせる点では、互いにつながり合っている。
『ナウシカ』では、生命の持つ魂の同質性、言い換えれば「人間と非人間の内面的な連続性」が、ナウシカと王蟲に留まらず、ナウシカとテト(キツネリス)、風の谷の住人と風などの、人間以外の存在者や自然現象にまで広がっている。そのうち「風」に焦点をあてて、以下では、風のアニミズムについて考えてみよう。風は、「生命の持つ魂の同質性」はもちろんのこと、モノや世界を動かす力としての「アニマ」の源である。



アルファベット、自然の脱神聖化

 村瀬学が指摘するように、宮崎映画では、『ナウシカ』から『風立ちぬ』まで、風というモチーフが多用されている(村瀬 2015: 230)。正木もまた、『ナウシカ』の風に着目して、以下のように述べている。


…息=呼吸と風がよく似ている。したがって、あらゆる動物に風が体内に入り、風は体外に出ることによって、生命を保っている。その風が止まるとき、あらゆる動物は死ぬ。そういっていいのだ。…(中略)…風は、遥か古い時代から呼吸にたとえられ、生命をつかさどるもの、もっと端的にいうなら「生命エネルギー」と考えられてきた(正木 2011: 28)。


人間を含め、全ての生命は、呼吸すなわち風によって生きている。風が体外から体内へと送り込まれ、体外へと再び出ていく過程を繰り返すことによって、生命はある。生命の方から見れば、それは風を吸い、風を吐くということの絶えざる往還運動によって生きている。だとすれば、風とは生命を生かすもの、「生命エネルギー」に他ならない。
『ナウシカ』の風を考える上で、エコ・クリティシズム研究者デイヴィッド・エイブラムの議論が示唆的である。エイブラムは、アルファベットによる文字文化を手に入れる以前、人間は風すなわち空気を、生命の源であり聖なるものであると捉えるアニミズムを生きていたのだとする異色のアニミズム論で知られる(エイブラム 2017)。
 風は、目で見ることができない。見ることができるのは、空気や風が引き起こしている、絶え間ない動きのほうである。ヒロハハコヤナギの枝を曲げる様子や、小川の水面にさざ波を立てる様子を引き起こす力が、空気や風にはある(エイブラム 2017: 292)。森羅万象の活動を可能にする源として、かつて空気、風、息などには神聖性が付与されていた。
 そうした古代の風のアニミズムは、アルファベットを用いる文字文化の発達とともに、次第に失われていった。アルファベットは、人類最古のスクリプトである楔形文字が用いられるようになった地で、その2000年後に、セム諸族によって紀元前1500年頃に作られた。ヘブライ語やアラビア語のようなセム系諸語は、今日に至るまで母音の体系を持たない(オング 1991: 186-7)。
 古代ヘブライ語は、22語の「子音」のアルファベットだけから構成されていた。ヘブライ語には、「母音」のアルファベットはなかったのである。母音とは息そのものであり、子音を動かして言葉を生み出す風という力でもあり、それゆえに神秘でもあった。ヘブライ語で「神」を表す文字は、子音から成る”YHWH”である。ヘブライ人は、子音に空気あるいは風を送り込み、土の塊に生命を吹き込むようにして、言葉を紡ぎ出していたのである(エイブラム 2017: 318)。
 その後、子音文字体系の中に母音を導入し、母音の文字化を進めたのは、古代ギリシア人たちであった(オング 1991: 188; エイブラム 2017: 323)。そのことにより、発話を紙の上にそのまま書き写すことができるようになるのと同時に、息や風は神秘ではなくなった。風が脱神聖化されたのである(エイブラム 2017: 324-25)。
「樹木は何も教えてくれない」という哲人ソクラテスの言葉は、古代ギリシア人の感覚が、自然の風景への直接的な参与から遠のき始めていたことを示している(エイブラム 2017: 160)。息や空気の、あるいは風の根源的な力は、子音と母音をともに含む、ギリシア語のアルファベット成立後に、消滅への道を辿ることになった(エイブラム 2017: 325)。



ナバホ、人間の頭蓋に収まる前のアニマ

 その後、ヨーロッパ、さらには南北アメリカにまでアルファベットが広がったことに関して、エイブラムは以下のように述べている。

アルファベットが進出する場所では、空気から幻影や見えない力が追い払われ、空気からそのアニマが、その霊魂的奥行が取り除かれたのであった(エイブラム 2017: 327)。

子音と母音の両方から成るアルファベットが世界中で定着するに従って、空気や風からアニマが奪われていった。アニマとは、魂や力のことである。

書かれたテクストが話すようになってはじめて、森や川の声が消え失せていった。この時にはじめて言語は見えない息との昔からの結びつきを緩め、魂は風から自らを切り離し、霊魂は周りの空気から自らを引き離したのだった(エイブラム 2017: 328)。

自然の中の音や声から完全に独立した言語テクストが立ち上がって、空気や風からできていたはずのアニマが自然の中に存在しなくなった。
 では、それらはどこに行ってしまったのか? かつて自然の中にあったアニマは、人間の頭蓋の中に徐々に監禁されていったのである(エイブラム 2017: 329)。アルファベットによって、自然の「霊魂的奥行き」が消失し、人間の中に魂や力が移し替えられ、人間中心主義が飛躍的に進んだ、と言い換えてもいい。
 エイブラムはまた、アルファベット以前の空気や風の位置づけを、アメリカ先住民の中に探っている。ナバホ社会では、地上のあらゆる存在者が造られるのに先立って、風があった。ナバホの古老によれば、地下世界には最初に風があった。風が「男」や「女」、「話す神」や「呼ぶ神」に対して、息つまり生命を授け、導きを与えていた(エイブラム 2017: 300)。歌い手は、歌うことをとおして空気を変化させ、逆に歌は、大いなる自然のアニマの活動に作用を及ぼした(エイブラム 2017: 305)。
 ナバホにとって、風は世界の所有物であり、その世界に人間が「融即してい」た(エイブラム 2017: 306)。融即とは、19世紀の哲学者・レヴィ=ブリュルによって示された、形態と程度には差異がある、生物と事物の間を一つに結び合わせる心性のことである。「この心性にとっては一と多、同と異等の対立は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まない」(レヴィ=ブリュル 1953: 95)。ナバホ社会では、人間と風は、どちらがどちらであるというのが難しいほど一体化していた。



風の谷、風を感じ風に従う

 以上が、エイブラムによる、風のアニマをめぐる仮説である。この大胆な説をそのまま、人間文明の崩壊後の物語である『ナウシカ』に当てはめることは乱暴かもしれない。だが、それを手がかりとしながら一考することは可能であろう。以下では、人間の頭蓋の奥深くに引っ込んでしまう以前の時代に吹いていた風を想像しながら、風の谷の風を読んでみよう。
『ナウシカ』では、風に対する何らかの儀礼が行われたり、風の信仰が描かれたりするわけではない。風は、凧や風車や飛行装置メーヴェなどのモノだけでなく、人間に対して大きな影響を与えるが、表立っては何であるのかが示されない、「行為主体性」(エージェンシー)を帯びたアニマや力の源泉として登場する。風の谷の住人は、その風を読み、風に従い、風に頼って暮らしている。
 風の谷は、谷を吹き抜ける風のために、腐海からの瘴気が届かない辺境として描かれる。そこを吹き抜ける風とは、人々の生存を脅かす邪悪な風である瘴気に対抗する「よき風」である。正木の言葉をふたたび援用すれば、風の谷の住人にとって、風は生命をつかさどるもの、生命エネルギーに他ならない(正木 2011: 28)。
 ナウシカは、風の潜勢力を自在に操ることができる存在、辺境一の剣士ユパが言うところの、よき「風の使い手」として登場する。『ナウシカ』の冒頭では、ユパの誤射のせいで怒り狂った王蟲をなだめて森に帰すために、ナウシカが虫笛を用いるシーンがある。虫笛とは、風を穴に通すことによって音を出す楽器である(正木 2011: 28)。虫の声に耳を傾け、それを、風の力を借りて再現したのが、虫笛である。ナウシカは王蟲の荒ぶる心を鎮めるために、自然のアニマの化現である「音色」を用いる。そこには、空気や風のアニマが世界をコントロールする、アルファベット文化以前のアニミズム世界が広がっている。
 ナウシカは風を自在に操ることができるとされるが、彼女は、必ずしも「主体的な」風の使い手ではない。彼女は、風の吹くままに、風の意に従い、風を読む勘所のようなものを深く知る「媒介的存在」だと見たほうがいいのかもしれない。その意味で、前述した小山が述べるように、ナウシカを、シャーマン的存在と見ることもできよう。ナウシカは、風の潜勢力――エイブラムの言葉では、アニマ、霊魂的奥行き、聖なる存在、神聖性――を飼い慣らしたり、コントロールしたりするのではなく、逆らわずに、それを受け入れて従いながら、ナバホのように、風の世界に融即し、風の意のままに動くことによって風の谷で暮らしている。



共感覚的、融即的なるものとしてのアニミズム

 最後に、エイブラムの言葉を引こう。

アニミズム的言説は、事実に基づいた世界との関係を歪曲しているどころか、自らが居住している土地との直接的で共感覚的な関与に必然的に対応している。…(中略)…直接的で前反省的な知覚はもともと共感覚的、融即的、アニミズム的であり、私たちを取り巻く物や要素を活気のない対象としてではなく、表情豊かな主体、存在物、力、潜在力として開示するのである(エイブラム 2017: 175)。

エイブラムにとって、アニミズムとは、歪曲された世界理解ではない。それは、土地との「共感覚」的、「融即」的な経験である。
 知覚されたものは、力を備えた、表情豊かな主体となって、私たちの前に現れ出る。土地や自然に投げ入れられた人間の知覚とは、「視覚的焦点と聴覚的焦点は区別がつかない」(エイブラム 2017: 174)、共感覚的なものでもある。感官全体をつうじて、その都度その都度、会得できる経験こそが、私たちが周囲の自然との間で交わす知覚に他ならない。『ナウシカ』では、風や虫たちは共感覚的に知覚される。
 また、自らが居住している土地との直接無媒介な経験が、「他者の感じるものを私が感じさせてもらえるという魔術的な融即」(エイブラム 2017: 172)をもたらす。人と土地、人間と自然の間には、こちらにあるだけであちらにはない、あちらにあるだけでこちらにはないというのではなく、こちらにありかつあちらにもあるという融即律、人間が主人でありかつ土地や自然もまた主人であるという融即律が働いている。
『ナウシカ』で描かれているのは、風や虫や動物や植物などの万象が感じることを、感覚を横断して人間もまた感じることができるという共感覚的で、人間が主人でありかつ土地や自然もまた主人であるという融即的なアニミズムである。風の谷の人々は、万象との関係を自ら断ち切ることはない。それらの心を読み、従い、頼りながら暮らしている。

 

引用文献

エイブラム、デイヴィッド 2017 『感応の呪文――〈人間以上の世界〉における知覚と言語――』結城正美訳、論創社・水声社。
小野俊太郎 2016 『「里山」を宮崎駿で読み直す――森と人は共生できるのか――』春秋社。
オング、W-J.  1991  『声の文化と文字の文化』桜井直史・林正寛・糟谷啓介訳、藤原書店。
切通理作 2001 『宮崎駿の〈世界〉』ちくま新書。
小山昌宏 2009 『宮崎駿マンガ論「風の谷のナウシカ」精読』現代書館。
杉田俊介 2014 『宮崎駿論:神々と子どもたちの物語』NHK出版。
スタジオジブリ 文春文庫編 2013 『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』文春文庫。
フロスト、ランディ・O+ゲイル・スティケティー 2012 『ホーダー:捨てられない・片づけられない病』春日井晶子訳、日経ナショナル・ジオグラフィック社。
正木晃 2011 『増補新装版 はじめての宗教学――『風の谷のナウシカ』を読み解く――』春秋社。
村瀬学 2015 『宮崎駿再考――「未来少年コナン」から「風立ちぬ」へ――』平凡社新書。
レヴィ=ブリュル 1953 『未開人の思惟(上)』山田吉彦訳、岩波文庫。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2019年7月24日(水)掲載