片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.10.24

06分別と無分別の間で ~動物解放への違和感から考える~

 

往って還ってこい、鯨類よ

 生きもの供養碑は、生きものをあの世に送り込むことによって、逆に、この世に生きる私たちにも物質的な救いをもたらすという往還のループに支えられたアニミズムであった。それは、「往って還ってこい、生きものたちよ」という人々の思いの一つのかたちである。イルカや鯨などの鯨類に対してもまた、日本の各地の沿岸地域で、捕鯨を生業とする人々によって、たくさんの供養碑が建てられてきた。  
 伊豆半島の安良里では、戦中から戦後にかけてが、イルカ漁の最盛期だったという。1950年代の経済復興期に、漁業者が大型船に乗るようになると、イルカ漁は次第に廃れ、1973年にイルカ漁は幕を閉じる。安良里には1882年、1935年、1949年建造の3基のイルカ(海豚)供養碑が建っている(関 2012: 59)。
 房総半島の捕鯨の発祥地である安房勝山では、醍醐家が16世紀後半から明治時代まで捕鯨の元締めを務め、捕鯨業で栄えた。1838年に醍醐家が加知山神社に寄進した祠があり、その周囲に幾つもの鯨の供養碑が並ぶ。かつては120基もの鯨塚があったとの記録もあるという。漁村社会学者の関いずみは、「同じ哺乳類でありながら、人間よりもはるかに大きな身体を持ち、海という異界に暮らすクジラに、人々は敬意を抱いて対峙してきたのではないだろうか」(関 2012: 49)と述べている。
 人々は鯨類に頼って暮らす中で、それら(の霊)を供養することによって、自らの暮らしの安寧をも祈り続けてきたのである。そうしたアニミズムを生み出す、鯨類を捕獲して食べるという日本人の食の文化は今日、国際社会の一部で大きな批難に晒されている。鯨類は人間に近い高い知能を持つため、捕鯨は酷いというのが批難の主な理由である。
 そうした批判と懐疑が強く前面化されたドキュメンタリー映画がある。2009年にアカデミー賞を受賞した『ザ・コーヴ』である。それは、紀伊半島南端近くの太地町の入江(コーヴ)で行われているイルカ漁の残酷さを告発するために制作された映画である。
 以下では、こうした批判の動きの背後にある「動物解放思想・運動」に見られる動物への態度と、アニミズムを成立させている動物への態度を比較検討してみようと思う。そのことをつうじて、アニミズムがいかなる思想なのかを、前回までで論じてきたことを踏まえて、より立体的に考える手がかりを手に入れてみたい。

 

反『ザ・コーヴ』から見る動物愛護

 ところで、捕鯨食文化に対する『ザ・コーヴ』の批判に対する反批判の映画がある。『ザ・コーヴ』を観て、映画監督・佐々木芽生は、制作者の独善性と、漁師たちに一方的に向けられた暴力性に不快と違和を感じたという。彼女は「日本側から『ザ・コーヴ』制作者へのきちんとした反論が聞こえてこないこと、そして太地という町がピンポイントで国際社会からやり玉にあげられてしまった不運に、驚きと大きな憤りを感じ」(佐々木 2017: 15-16)て、2016年にドキュメンタリー映画『オクジラさま、ふたつの正義の物語』を完成させている。
 佐々木は映画と同名の著書の中で、イルカやクジラやゾウなどの動物たち、チンパンジーやゴリラなどの類人猿は、「知能の高さ」ゆえに動物愛護や環境保護の手厚い保護を受けてきたことに注目している(佐々木 2017: 127)。

活動家たちが何をもって動物の知能が高いと考えているかというと、どうも人間のように感じ、振る舞うことらしい。人間のように仲間を思いやり、社会生活を営んでいる生き物に「賢さ」を感じる。つまり人間中心の考え方だ。(佐々木 2017: 127

こう述べて、人間に近い知能を持ち、人間のように振る舞う動物たちだけを選りすぐって優遇する、人間中心主義的な動物愛護の考え方に疑義を呈している。
 佐々木によれば、感情が豊かで権謀術数に長けたタコ、GPSなしで世界の空を毎年同じルートで何千マイルも旅する渡り鳥などは、保護されるべき動物とはされない。人間のような知能を持つイルカやクジラなどに人間は親近感を覚え、それらを寵愛してきたのである(佐々木 2017: 130)。つまり、動物の間に差異があり、序列が存在する。佐々木の見立てでは、人間に近い知能とは、イルカが母系の群れで移動し、雌のイルカが共同で子育てをする、社会的な動物であることが、その一つである(佐々木 2017: 132)。
 反『ザ・コーヴ』の観点に立てば、『ザ・コーヴ』がベースとする動物愛護の思想は、保護される対象に序列を組み込んでいる点で、こじれてしまっているように見える。人間のように仲間を思いやり、社会生活を営んでいる知能の高い動物だけを選んで保護対象としているからである。
 はたして、動物愛護や動物福祉とは、動物に対するどのような態度なのだろうか? 以下ではまず、その歴史をごく手短に振り返ってみたい。

 

動物支配から動物解放へ

 動物の福祉や倫理を考える出発点となるのは、古代ギリシアのアリストテレスである。アリストテレスは、動物には感覚があるが、理性を欠き、自然界では人間よりも下位に位置づけられ、それゆえに人間のために供することができる資源であるとみなした。アリストテレスのこの動物観は、自らに似せて神が人間を創り、人間が動物を含めた自然資源を自由にしてよいとしたキリスト教によって強められることになった。こうした考えはまた、17世紀のデカルト以降19世紀に至る西洋近代哲学の中にも広く深く入りこんできた。
 19世紀になると、動物を人間の劣位に置くこれらの考えとは相容れない科学思考が登場する。人間が他の動物から進化したと見るダーウィンの生物進化論である。動物は人間とは別の存在ではなく、進化という連続性の軸で捉えられるべき存在とされたのである。時をほぼ同じくして、動物の権利をめぐる最初の運動がイングランドで誕生している。
 20世紀の後半、1975年のシンガー『動物の解放』の出版は、今日の動物の権利をめぐる運動に大きな影響を及ぼすことになった。功利主義の流れを汲むシンガーは、脊椎動物が一般に、脳や神経の仕組みや行動が似ていて、人間と同じような感情を備えており、その意味で、人間だけが幸福になったり不幸になったりすればいいと考えるだけでは不十分であると唱える。西洋では今日、多くの人々が、動物の権利をめぐる運動に好意的で、動物の適切な取り扱いに関する諸課題と向き合っている(ドゥグラツィア 2003: 4-12;伊勢田 2015: 129)。

 

人間に近い動物から人間に遠い動物へ

 では、こうした今日の動物の権利をめぐる理念は、どのように実現されようとしているのだろうか? シンガーはカヴァリエリとともに、『大型類人猿の権利宣言』を共同編集している。その本の中で、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンは、道徳的に人間と平等に扱われる共同体の中に入れなければならないし、そのために国際的な連携を強めなければならないと主張している。
 しかし、なぜ大型類人猿だけが対象とされるのだろうか? 彼らもどうやらその点に気づいていて、自問して以下のように述べている。

私たちは平等な共同体に受け入れるための基準を高くしすぎている。また、そうすることによって、能力の点で私たちに劣る動物のほうの扱いを一歩も改善できないようにしているのではないか、あるいはより困難なものにしているのではないか、と。しかし、どんな基準も固定されたものではありえない(カヴァリエリ+シンガー 2001: 288)。

受け入れる動物の基準が高く設定されてしまっていると、彼らは考えている。またこの記述から、動物解放運動を進める過程で、「能力の点で私たちに劣る動物」たちは放っておかれているというのが、シンガーを含めた運動家たちの認識であることもうかがえる。だが、現状でのそのような基準は固定したままではなく、将来的にはその基準は撤廃されるべきだと、考えているようである。
「新しい型の種差別」を生みだす危険もあることを、彼らは承知しているのだが、そのことは、人間以外の動物を人間と平等に扱われる共同体の中に受け入れるために通過しなければならない方便であると割り切って考えているようである(カヴァリエリ+シンガー 2001: 289)。いずれにしても、理念から実践の局面に入り、「動物の解放」をめぐる運動は、現段階では奇妙な種差別、捻じれた種差別を抱えこんでいるように思われるのだが、いかがであろうか?
 この点に関して、小説から一つのエピソードを引いてみたい。上田岳弘の小説『私の恋人』の中で、反捕鯨団体の東京支部に定期的に参加する恋人のキャロライン・ホプキンスが、主人公の井上由祐に問いかけるシーンである。

「逆に聞きたいですけど、どうして、わざわざ鯨を食べる必要あります?」
「よくわからないな。牛とか豚はいいの?」
「ほんとうは駄目よね。でもひとつひとつすっきりとさせないと、もっと駄目ですね? かわいそう、思うのは自分に近い存在だから。そうですね? ロブスターより鶏かわいそう、鶏より豚かわいそう、豚より鯨かわいそう。鯨よりイノウエかわいそう、ちかいところからゆっくり広げていって、かわいそう、広げていくの」(上田 2018: 35

なぜわざわざ鯨を食べる必要があるのかと問う、反捕鯨集会に参加するキャロライン・ホプキンスに対して井上由佑は、牛や豚ならいいのかと問い返している。キャロライン・ホプキンスは、「かわいそう」の対象を、人間に近いところから始めて、遠いところへとゆっくりと広げていけばいいのだと応答している。
 この「かわいそう」の中心をどんどん広げていくという発想がどうもしっくりと来ないのは私だけだろうか? いつになったら、虫や微生物が全て含まれるようになるのだろうか? 動物なのか植物なのかはっきりしない変形菌(粘菌)は含まれるのだろうか、含まれないのだろうか?
 少し言い過ぎてしまったかもしれない。動物の権利をめぐる思想や運動を批判することが、ここでの目的ではない。ここでは、動物解放の思想と運動の背後にある、生きものに対する一般的な態度を確認したかっただけである。人間と動物の間の平等性が「理念」としては唱えられているが、「実践」のレベルでは必ずしもその通りになっていないということが分かっただけで十分である。

 

朕兆未分已前のほうへ

 動物を人間による支配の軛から解き放つという理念には、動物を人間の劣位に置く、アリストテレス以来の西洋の動物観の余光が残っている。それはまた、その動物観を乗り越えようとする実践(運動)へと一直線でつながってきている。こうした西洋的な価値と行動の揺らぎを踏まえ、それとは異なる理念と実践としてのアニミズムに接近するための手がかりを、仏教学者の鈴木大拙に求めてみたい。鈴木は、「西洋的なもの」と「東洋的なもの」という思索の枠組みを提起している。それぞれの区分は地理的な区分でなく理念的なものであり、対立区分ではなく相補的なものである。1960年、鈴木が90歳の折の鎌倉・円覚寺の夏期講座で、鈴木はその枠組みを用いて考えることの効用について語っている(鈴木 2007)。
 鈴木によれば、分けること、分析することの先に、一つのものに統合することが、西洋の科学のやり方である。そのやり方はつねに、こちら側とあちら側を生みだす。こちらがあちらを押さえる、あちらがこちらを押さえるというやり方が、自然というあちらをこちらの人間が征服するという考え方につながっていく。「自然を征服する」という考えは、鈴木によれば、もともと日本にはなかった西洋的なものである。その言い回しは、鈴木が若かりし頃(おそらく20世紀初頭)、西洋から日本に輸入され、使われるようになったと回想する。
 西洋では、違うものは違うという点から出発し、向こうの人の心の中に入って考える。つまり、こちらに自分を置いて、あちらに草土や動物を置いて「同情」する。鈴木の言う、この動物への同情は、これまで見てきた動物解放思想の考えに近い。それは、人間と動物を分けて、人間が動物を支配するという理念の誤りを乗り越えるために、動物への同情を打ち出し、平等の共同体を実践的に構想するからである。
 鈴木によれば、これに対し、東洋は、天地草木も人間も同じ気持ちを持つところから出発する。著書『東洋的な見方』の冒頭で、以下のように述べている。

西洋の人々は、物が二つに分かれてからの世界に腰をすえて、それから物事を考える。東洋は大体これに反して、物のまだ二分しないところから、考えはじめる…(中略)…西は二分性の考え方、感じ方のところに、立脚していることがわかる。そうして東は、そのまだ分かれぬところ、むずかしく言うと、朕兆未分已前に、無意識であろうか、そこに目をつけているということになるのである。(鈴木 2017: 7

西洋的な見方では、主客の対立のない世界を考えることはできないが、東洋的な見方では、その「考えられないところ」から出発するのだと、鈴木は言う。言い換えれば、西洋は「二分性」から、東洋は「不二性」から出発する。東洋の不二性を最も端的に伝えるのは、鈴木によれば、禅仏教である(鈴木 2017: 26)。
 人間と動物を分ける二分性から出発する西洋的な見方に対して、東洋には、物事が分かれて生じる兆しよりも以前の「朕兆未分已前」における不二性に着目する見方がある。不二性は、人間と動物、自己と他者、生と死などがはっきりと切り分けられないでつながり合っている、アニミズムの特性でもある(第2回、第3回、第4回参照)。アニミズムには、人間と動物がこれとあれに分けられる以前の朕兆未分已前の次元の知が組み入れられており、それは西洋的な見方とは大きく異なっている。
 不二性を伝えるのは禅仏教であるという鈴木の示唆に従って、以下では道元禅師に教えを乞い、東洋的な見方と根を同じくするアニミズムの正体に迫ってみたい。

 

道元に教わる

 曹洞宗の開祖である道元禅師のいう「分別の知」とは、ものを分け、隔てる知恵のことである。その知は「あれはいい」「これはいやだ」という執着心を生む。他方で、「無分別の知」とは、ものを切り分けない知恵のことである。無分別の智とは、これとあれの違いを違いとしてありうべきものとして認めつつも、その両方をともに肯定する知恵のことである(ひろ 2002: 109)。前者が二分性、後者が不二性に対応する。分別は「分節」、無分別は「無分節」とも言い表されるが、以下では、説明の煩雑化を避けるために、主に、分別と無分別という語を用いる。
 道元は、分別によってあらゆるものが切り分けられ固定され、意味づけられ序列化される世俗世界のあり方を覆すことで開かれる、俗世を超えた深層の次元である無分別の次元に分け入って、その真理と力をつかみとろうとした。道元の禅思想を研究する倫理学者の頼住光子は、人は分断され孤立した俗世にではなく、「力そのもの」として存在する深層の無分別の次元にリアリティを見いだすと述べている(頼住 2014: 40)。例えば、「苦」と「楽」は、俗世では二項に分けられるが、深層の次元ではけっして二項に分けられるものではない。苦しみの中に楽があり、楽の中にも苦しみがあるというほうが、より経験の実相に近い。無分別の次元には真理が現れ、そこに力が遍満している。
 人が日常的に向き合っているのは、「無分節のなにものかを諸類がその生の構図に応じて分節していく」(頼住 2014: 43)というプロセスを経てできあがった分別である。その意味で、分けてから考える西洋的なやり方は、道元にとっては必ずしも誤りではない。道元は分別を「人の生の構図の必然」だとも認めている。ものの輪郭を刻み出し、固定化・実体化する分別を一方では認めつつ、他方でそれだけに執着するのではなく、一つの固定的な見方を乗り越え相対化すること、すなわち、分別から無分別へ、さらに無分別から分別へと往還しながら絶えざる運動を続けることが、道元の禅思想である。
 無分別の知は、感覚や知能、理性や感情などの基準によって対象を分別することにより執着を生み出す、今日の西洋の動物解放思想の根源にあるアリストテレス的な知とは、根本的に異質な知の構えを持っている。無分別の知は、分別された動物たちと人間の両者をともに肯定するような無分別の次元へと立ち入るとともに、「いま=ここ」に立ち現れている現実として、動物たちが分別される眼前の現実を認める。
 分別と無分別の知をめぐる禅思想に照らして改めて考えみると、アニミズムの不二性とは、たんに「切り分けられない」ことだけではなかったことになる。アニミズムはもちろん、切り分けられない不二性(無分別)の次元へと踏み入ることではある。だが現実には、人の生の構図の必然として、二分性(分別)を認める。現実の側から述べれば、分別する二分性のみに頼るのではなく、そこから、力が遍満する、無分別から成る不二性の次元へと踏み込み、さらにはそれらの間で絶えざる往還を続けることが、アニミズムをより立体的に理解するための鍵になるのではないだろうか。

 

動物を解き放つこと、動物とつながること

 これまでの議論の流れを手短に振り返ってみよう。
 人間と動物を分別することからスタートし、そのようなものとして世界を築き上げた後に、ようやく現代になってその誤謬に気づき、人間と動物の平等の共同体を再構築せんがために無分別を導入しようとしているのが、動物解放思想と運動の正体であった。西洋的な見方とその乗り越えの冒険と言い換えてもいい。しかし、「動物を解き放つこと」は現在、「動物とつながる」という理念を持つようになり、それが実践に移される時に、新たな分別を生むという矛盾を抱えこんでしまっている。
 それは、無分別から出発し、人の生の構図の必然として分別を働かせるような、東洋的な見方、すなわちアニミズムとは大きく異なる理念と実践である。「動物とつながる」アニミズムは、人間と動物の無分別の次元に深く入り込みながら、現実面では、「いま=ここ」で二者を切り分ける分別の作用を認めているのではないか。
 これまでのところ、動物解放思想と運動から出発し、禅仏教に照らしてアニミズムに関する思索を深めてきた。その中で、人間と動物、自と他、生と死などが「切り分けられない」朕兆未分已前の無分別からだけでなく、無分別と生の構図の必然に沿った分別、すなわち不二性と二分性の間の絶えざる往還から成る、アニミズムの構造に関する一つの新たな見通しを手に入れることができたのではないだろうか。

 

参考文献
伊勢田哲治 2015 『マンガで学ぶ動物倫理』化学同人。
上田岳弘 2018 『私の恋人』新潮文庫。
カヴァリエリ、パオラ+ピーター・シンガー 2001 『大型類人猿の権利宣言』山内友三郎・西田利貞訳、昭和堂。
佐々木芽生 2017 『おクジラさま ふたつの正義の物語』集英社。
関いずみ 2012 「いさな獲る浜のにぎわいの証言者」pp.48-9、「継承されるイルカたちの記憶」pp.58-9、田口理恵編著『魚のとむらい――供養碑から読み解く人と魚のものがたり』東海大学出版会。
鈴木大拙 2007 『講演 禅と科学』新潮社。
鈴木大拙 2017 『東洋的な見方』角川ソフィア文庫。
ドゥグラツィア、デヴィッド 2003 『動物の権利』戸田清訳、岩波書店。
ひろさちや 2002 『ひろさちやの「道元」を読む』佼成出版社。
ひろさちや 2018 『道元 正法眼蔵~わからないことがわかるということが悟り』NHK出版。
頼住光子 2014 『正法眼蔵入門』角川ソフィア文庫。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2019年11月24日(日)掲載