片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.11.24

07宮沢賢治を真剣に受け取る(前編)

 

アニミズムを真剣に受け取る

 人類学者のレーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ:シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(ウィラースレフ 2018)は、シベリアの狩猟民・ユカギールの狩猟者スピリドン爺さんが「エルク=人間」になるシーンから始まる。スピリドン爺さんは、毛を外にひっくり返したエルク(ヘラジカ)の革の外套、特徴的な突き出たエルクの耳のついた頭飾り、エルクが雪の中を歩く音に似せるためにエルクの脚のなめらかな毛皮で覆ったスキー板を着けて、身体を前後に揺らしながら、エルクのように動いていた。他方、手には装填済みのライフル銃が握られていたし、帽子の下からは人間の目、鼻、口を備えた顔の下半分が出ていて、人間の男でもあった。「彼はエルクではなかったが、エルクではないというわけでもなかった」(ウィラースレフ 2018: 11)。
 ヤナギの茂みから雌エルクが現れると、スピリドン爺さんはそれに近づいた。エルクは、エルクを模倣する彼のパフォーマンスに囚われ、彼のほうに近づいてきた。雌エルクの背後から子どものエルクが近づいてきた時、スピリドン爺さんは銃を持ちあげて、二匹を撃ち殺した。スピリドン爺さんは後に、その出来事を以下のように説明した。引用中の[  ]はルビである。

「私はふたりの人物[パーソンズ]が踊りながら近づいて来るのを見た。母親は美しく若い女で、歌いながらこう言ったんだ。『誉れある友よ、いらっしゃい。あなたの手を取り、私たちの住まいにご案内しましょう 』。そのとき、私はふたりを殺したんだ。もし彼女と一緒に行ってしまっていたら、私のほうが死んでいただろう。彼女が私を殺していただろう」(ウィラースレフ 2018: 12

ウィラースレフによれば、「人間ではない([ノンヒューマン]動物に対して(また、無生物や精霊といった動物ではないものに対してさえ)、人間の人格と同等の知的、情動的、霊的な性質を与える、こうした一組の信念は、アニミズムと伝統的に呼ばれている」(ウィラースレフ 2018: 12-3)。その上で、アニミズムがふつう文字通りに受け取られるのではなく、象徴的な言明だと捉えられてきた点を斥け、土着の人々の理解に対する西洋の形而上学的説明の優位性をひっくり返し、ユカギール人の言うことに関して彼らの導きに従う、と宣言している。つまり、「人が真剣に語っていることを私もまた真剣に受け取る」(ウィラースレフ 2018: 298)ことを、ウィラースレフは彼の民族誌の主題に据えたのだった。「アニミズムを真剣に受け取る」とは、『ソウル・ハンターズ』の終章のタイトルであり、ウィラースレフのテーマである。
 私たちもまたウィラースレフとともに、ユカギールのアニミズムを真剣に受け取ることにしよう。ユカギールの狩猟は、猟の前日から始まる。狩猟の前日の夕方に、ウォッカやタバコなどの舶来の交易品を火に捧げる。それらは、エルクの支配霊(=精霊)をみだらな気分にさせる手助けとなる。その後、夢の中で狩猟者の霊魂が動物に扮して支配霊の家を訪ねるのだが、酔っ払い、性的欲望に囚われた支配霊は、侵入者を無害な恋人だと思い込んで、二人はベッドに飛び込む。夜の逢瀬で狩猟者の霊魂が支配霊の中に喚起したみだらな感情は、「どういうわけか、物質界の精霊の対応物である獲物の動物にまで拡張される。かくして、翌朝、狩猟者がエルクを見つけて、それを模倣し始めると、性的興奮の絶頂を期待した動物が走り寄ってくる」(ウィラースレフ 20181723)。そしてその時、

狩猟者は、彼に向かって歩み寄るエルクを見ているだけではなく、あたかも自分がエルクであるかのように「外部」から自分自身を見ている。つまり彼は、(主体としての)他者が(客体としての)彼について持つようなパースペクティヴを自分自身に引き受ける。(ウィラースレフ 2018168

このことを、ウィラースレフは、狩猟者の「二重のパースペクティヴ」と呼び、それを「視覚上の揺れのようなものである」(ウィラースレフ 2018: 168)と表現している。そして、「その揺れの中では、『客体としてのエルクを見る主体としての狩猟者』と『主体としてのエルクによって見られている客体として自らを見る狩猟者」が、あまりの速さで交互に入れ替わるため、種間の境界が侵され、ある程度『一体化』が経験される」(ウィラースレフ 2018168)と主張する。
 この、エルクである自己と人間としての自己の間を高速で揺れ動く過程で、逆説的なことながら、狩猟者はエルクの人格性[パーソンフッド]を否定することができない。「なぜなら、このことが実質的に彼自身の人格性を否定することを意味するからである」(ウィラースレフ 2018169)。これに続けて、「狩猟者の心理的な安定、つまり人格としての自己意識は、人格としての動物にこそ依存している」(ウィラースレフ 2018168)のだと、ウィラースレフは述べている。ユカギールの狩猟者の経験を「真剣に受け取る」のならば、狩猟実践に没入することで、狩猟者は人間の人格を動物の人格性から与えられるのである。人間の持つ人格性とは所与のものではなく、狩猟実践の過程で動物から授けられるのだ。
 以上が、ウィラースレフによるシベリア・ユカギールのアニミズムの真髄である。それは次のようにも言い表される。

私たちが扱っているのは、「私」と「私=ではない」とが「私=ではない=のではない」になるような、奇妙な融合もしくは統合である。私はエルクではないが、エルクでないわけでもない。同じように、エルクは人間ではないが、人間ではないわけではない。他者と似ているが、同時に異なってもいるという、この根源的な曖昧さは、動物と人間が互いの身体をまといながら、なりすました種に似ているが、まったく同じというわけではないやり方でふるまうという、ユカギールの語りの中に私たちが見出すものに他ならない。(ウィラースレフ 2018170

つまり、ここでいうアニミズムとは、人間と、動物、無生物、精霊といった非人間の間で、「私」が「私=ではなく」「私=でもなくはない」という揺れ動きを経験する中で、存在者たちを隔てている境界がしだいに薄れ、人間の人格と同等の知的・情動的・霊的な性質を持つ存在者が立ち現れる信念と実践である。
 こうした北方先住民のアニミズムは、日本列島、とりわけ東北の各地で、比較的最近に至るまで広く見られたことは驚くにあたらないかもしれない。岩手で生まれ、大正から昭和初期に活躍した宮沢賢治が描いた詩や童話などの中に、私たちは、人間と他の生物種の種の境界が薄れ、両者が一体化するようなアニミズムを見ることができる。小林康夫は、それを賢治の生命への直観のようなものとして、「一種の法華経的アニミズム、あるいは仏教的アニミズム」(中沢 1999: 95)と呼んでいる。今回と次回は、賢治の作品から幾つかを取り上げて、そこに見られるアニミズムについて考えてみたい。

 

「鹿踊りのはじまり」

 賢治の「鹿踊りのはじまり」では、北上地方の伝統行事である「鹿踊り」の起源を、苔の野原に疲れて眠り込んだ語り手が風から聞いている。「ざあざあ吹いていた風が、だんだん人のことばにきこえ」(宮沢 1990a、以下、一部を除いてページ数省略)てきたという。風が語るには、嘉十は、この地に移って来て、小さな畑を開いていたが、左の膝を悪くして湯治のために山に出かけることがあった。
 嘉十はある夕方「芝草の上に、せなかの荷物をどっかりおろして、栃と栗のだんごを出して食べはじめ」たが、栃の団子を栃の実くらい残して、鹿が来て食えと呟いて、ウメバチソウの白い花の木の下に置いた。荷を負って歩き出して暫く行ったところで、手拭を忘れてきたのに気づいて引き返すと、6疋の鹿が栃の団子の周りをぐるぐるぐるぐる輪になって回っているのを見て、「すすきの隙間から息をこらしてのぞきました」。
 嘉十は喜んで片膝をついて見とれていたが、「よく見るとどの鹿も環のまんなかの方に気がとられているよう」で、「気にかけているのはけっして団子ではなくて、そのとなりの草の上にくの字になって落ちている嘉十の白い手拭らしいのでした」。

嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草穂のような気もちが、波になって伝わって来たのでした。(宮沢 1990a: 132-3

語り手が夢うつつで風の言葉を聞いたように、嘉十には鹿の言葉が聞こえてきた。6疋の鹿は順に手拭に近寄って、それが何であるのかを確かめようとしていた。そして最後の1疋が近づいて、「首をさげて手拭を嗅いでいましたが、もう心配はないもないという風で、いきなりそれをくわえて戻ってきました。そこで鹿はみなぴょんぴょん跳びあがりました」。1疋が歌い出し、「走りながら廻りながら踊りながら、鹿はたびたび風のように進んで、手拭を角でついたり足でふんだりしました。嘉十の手拭はかわいそうに泥がついてところどころ穴さえあきました」。鹿たちは団子を食べた後、環になって、ぐるぐるぐるぐるめぐり歩いたという。

嘉十はもうあんまりよく鹿を見ましたので、じぶんまでが鹿のような気がして、いまにもとび出そうとしましたが、じぶんの大きな手がすぐに眼にはいりましたので、やっぱりだめとおもいながらまた息をころしました。(宮沢 1990a: 141

嘉十は鹿の踊りに見とれて、自分までも鹿になったような気持がした。そしてその場に飛び出そうとする時に、自分の「大きな手」が目に入って、自分は鹿ではなく人間であると思い返して、鹿の踊りの輪の中に飛び出すことをかろうじて思いとどまったのである。ここは、嘉十の心はすでに鹿になっているが、身体の一部を見て、自らが鹿ではなく、人間であると意識するという、嘉十が人間と鹿の間を行き来する緊張を孕んだ場面である。このシーンは、ユカギールの狩猟者がエルクを模倣してそれになりきってしまう手前で、エルクであるかのような自分自身を外部から見ている状態によく似ている。
 いずれにせよ、ここでは、「主体としての鹿によって繰り広げられる歌と踊り」の環の中にいままさに入らんとしている嘉十自身と、「客体としての鹿を見る主体としての嘉十」が、嘉十の「大きな手」を見ることにより、高速で入れ替わるさまが描かれていると見ることができる。嘉十は鹿になり人間に戻りつつ、その間、二種の境界は薄れていっているという状況が描かれている。
 その後も嘉十は鹿の踊りを「夢のようにそれに見とれていた」が、やがて「北から冷たい風が来て」「すすきの穂までは鹿にまじって一しょにぐるぐるめぐっているように見え」、つまり森羅万象が鹿と一体化しているように見え、ついに、

 嘉十はもうまったくじぶんと鹿のちがいを忘れて、
「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。
 鹿はおどろいて一度に竿のように立ちあがり、それからはやてに吹かれた木の葉のように、からだを斜めにして逃げ出しました。(宮沢 1990a: 144

嘉十の「大きな手」がかろうじて押しとどめていた、異種である鹿との境界は一瞬亡失され、嘉十は「じぶんと鹿そのちがいを忘れて」「じぶんまでが鹿のような気がして」、すすきの陰から飛び出していったのである。『ソウル・ハンターズ』に倣って述べれば、それは、嘉十の「私」が「私=ではないもの」になってしまった瞬間であった。「嘉十はちょっとにが笑いをしながら、泥のついて穴のあいた手拭をひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです」。
 嘉十は、スピリドン爺さんのように、人間と動物の「二重のパースペクティヴ」をうまく制御することができなかったのだと言えるかもしれない。シベリアのユカギールでも、「狩猟者がエルクを観察していてある種の魅力的な特性や行動に惹き込まれ、差し迫った自分の仕事のことを忘れてしまって、気がつけばすでに手遅れで、動物が手の届かない場所に行ってしまうことが、ときどき起きると語る。こうした失敗を、彼らは狩猟者が獲物と恋に落ちたと表現する。この愛に夢中になると、他に何も考えられなくなり、食欲を失くして、しばらくすると死に至る」(ウィラースレフ 2018178)。嘉十は、鹿たちと一瞬ではあるが「恋に落ちた」のではなかったか。

 次回は、賢治の「なめとこ山の熊」を取り上げて、この続きを述べることにしよう。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2019年12月1日(日)掲載