片づけの谷のナウシカ 奥野克巳

2019.12.24

09まどろむカミの夢 ――ユングからアニミズムへの試論――

 

ユング、石をめぐって

 1875年にスイスで生まれ、後年深層心理学の基礎を打ち立てることになるカール・グスタフ・ユングは、79歳の頃、家の庭にある石片で建てられた古い壁の前に突き出た石の埋まった坂で、一人の時、しばしばその石の上に坐って、想像上の遊びをしていた。

「私はこの石の上にすわっている。そして石は私の下にある。」けれども石もまた「私」だといい得、次のように考えることもできた。「私はここでこの坂に横たわり、彼は私の上にすわっている」と。そこで問いが生じてくる。「私はいったい、石の上にすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか。」この問いは私を悩ませた(ユング 1972: 39-40)。

 ユングは幼少の頃、石も「私」であると思えたし、石もまた私の上に坐っているという考えに取りつかれることがあったと回想している。その時、ユングにとっては私が主体であると同時に石もまた主体だったということになるだろう。
 このユングの幼少期の経験を分析心理学者・河合俊雄は、以下のように見ている。

ユングの言う「私」は石をはじめとする多くの物の間で同じ権利を持って存在しているものである。言うならば全てのものは主体、魂でありうるし、人間主体もその中の一つに過ぎないのである。ここではまだ抽象的な私は登場していない。石も「私」という言葉を用いることができることからもわかるように、石も「私」も両方とも同じレベルで存在しているのである(河合俊雄 1998: 34)。

 河合俊雄は、その時、ユングと石は一体となって一つの世界、すなわちアニミズム世界にいたのだと評している。抽象的な点としての「私」が成立していないのが、アニミズム世界である。他方、河合俊雄によれば、近代的な「私」とは、石でも虫でもユングでもない、全ての具体的なものを否定することによって成立するただ一つの抽象的な点である。
「よっちゃん」という固有名詞を持つ者が「私」と言った時に、具体的な何者でもない抽象的な一点ができ上がる。それに対して、自閉的な子どもはしばしば「私」という言葉を持たないと言われることがある。ユングは幼少期に、一つの抽象的な点である「私」が成立していないアニミズム世界を数時間にわたって楽しんでいたのである(河合俊雄 1998: 37-8)。ユングにとって、私も石もともに「私」であったのだ。
 これらのことだけを以って、ユングをアニミズムの議論に召喚するのは乱暴かもしれない。ただ、ユング心理学には、河合俊雄の見方のように、「私」の成立をめぐってアニミズムを考えるユニークなアプローチが潜んでいるし、後に見るように、未開のアニミズムを積極的に評価する心構えがあるし、アニマ・アニムスというアニミズムと語根を同じくするキーワードがある。
 今回は、ユング心理学のアニマ・アニムスを取り上げて、より広がりのある地平の中にアニミズム論を置いてみたい。ユング理論の網羅的な把握と微細な検討は、私自身の専門からは大きくかけ離れており、その仕事はすこぶる難儀でもあるため、ここでは、ユングの所論の見かけから類推される随想のようなものの提示に留まるが、後日のより包括的なユングのアニミズムの検討のための準備作業として考えてみたい。いささか前書きが長くなってしまった。本題に移ろう。

 

カルメン、ホセのアニマとして

 周知のように、ユングは、夢分析をつうじて、男性にとっての女性の「元型(アーキタイプ)」としてのアニマ、女性にとっての男性の元型としてのアニムスを、彼のいう「個性化ないしは個体化」もしくは「自己実現」に至る過程で心の深い部分に生じる動きとして取り出している。アニマ・アニムスとは何か? まずは、19世紀半ばのフランス人作家・メリメの短編『カルメン』を取り上げて(メリメ2018[1929])、アニマを理解するための糸口を探ってみたい。
『カルメン』は、バスク出身で出世を夢見る騎兵のドン・ホセが、ボヘミア人女性のカルメンに出会って魅かれ、彼女にのめり込んだ挙句、カルメンの密輸団に加わって人殺しをし、カルメンに新しい恋人ができたのを機に、アメリカに自分とともに逃げてくれと哀願するも断られ、ついにカルメンを刺し殺してしまうという、女によって身を持ち崩した哀れな男の話である。歩哨として勤務していたホセがカルメンに会って、カンディレホ通りで飲んだり食ったりして楽しく過ごした後、兵士に帰営を促す太鼓の音が聞こえてきた時のシーンを取り上げてみよう。

――点呼があるから隊へ帰らなくっちゃならない。私は女に向かってこう言いました。
――隊にだって? 女はさげずむようにこう言いました。(メリメ 2018[1929]: 67

このやり取りの後、ホセはカルメンに今度いつ会えるかと尋ねている。兵舎に帰ろうとするホセに対して、カルメンは「私は何だか少しお前さんにほれているような気がするんだよ。しかしつづきっこはなしさ」(メリメ 2018[1929]: 68)と言い放って、戸口の閂を外し、背を向けて立ち去っていく。このことでかえって、ホセのカルメンへの思いが昂まり、「おもうほかのことを考えることはできませんでした。女にあおうという望みを抱いて、一日中うろつき廻りました」(メリメ 2018[1929]: 69)。そして、歩哨として勤務している時に偶然出会った恋焦がれるカルメンの密輸の手助けをしたホセは、カルメンにますます溺れていったのである。
 ユングによれば、アニマの対概念に「ペルソナ」がある。ペルソナとは、人間が社会の中で演じ、社会に対して見せている役割のことである。家庭では「父親」、会社では「部長」という地位や職位に相応しい振る舞いが期待されている。日常でそうしたペルソナを生きる上では心の深い部分の動きは現れない。しかしふとしたことから、心の奥底に沈んでいた「魂」すなわちアニマが現れ、大きくなることがある。カルメンとは、兵卒であるホセのペルソナによって無意識のうちに沈んでいたアニマ像なのである。
 カルメンと出会ったホセは、彼の「ペルソナからみれば不可能に思えるようなことであるが、その抗しがたい魅力や、圧倒的な力強さに押されて、それに従うことになり」(河合隼雄 2011[1967]: 197)、やがて転落の一途を辿ったのである。「規則を守ること機械のような堅い兵卒に、『少しくらい、帰営がおくれたってかまわないじゃないの』とアニマはささや」(河合隼雄 2011[1967]: 197)いたのだった。

 

夢、瀕死の少女たるアニマ

 アニマは、意識的には把握できないが、それが心像(イメージ)として現れた場合、私たちはそれを把握することができる(河合隼雄 2011[1967]: 196)。アニマはしばしば夢の中に現れると、ユングは言う。ここではユング派心理学のわが国における第一人者である河合隼雄がよく持ち出す、若い独身男性の夢とその分析を取り上げてみよう(河合隼雄 2011[1967]: 201-2; 2018[1977]: 122-4)。

私は誰かと海水浴にゆくところであった。行きたくはなかったが、私はどうしても行かなければならないことを知っていた。海岸では、中学時代の先生が水泳を教えてくれた。ほかのひとたちが皆泳いでいるとき、私は一人離れて海岸にいた。すると突然、海底から裸の少女が浮き上がってきた。私はあわてて人工呼吸をする。私は彼女のかすかな息を感じてほっとする。彼女のために暖かい着物を探すために帰宅するが、たくさんの衣類はどれも小さすぎてだめ、衣類を探しまわっているうちに目が覚める(河合隼雄 2018[1977]: 122-3)。

 海岸で瀕死の少女に出会い、命を救い、服を着せようとするがサイズがどれも小さすぎて合わないという、ギョッとする内容の若い男性の夢である。河合隼雄は、こうした「アニマ救済のテーマ」は、ペルソナ作りに忙しくて、アニマを抑圧している男性の夢に現れやすいと言う。
 夢の中で男性が孤独になった時、水死体に近い姿をしたアニマたる少女が出現する。彼はその少女を救うために人工呼吸を施す。息を吹き返した少女に衣服が合わないことは、夢を見た男性にとってのアニマとペルソナの葛藤なのである。
 アニマは、男性にとって、感情やムード、非合理的なものへの感受性、人や事物に対する愛や関係性、無意識に対する開かれた関係をもたらす。「アニマは規律を嫌う。皆がルールに従って行動しているとき、それに従わずに怠けていたムードや、それに反抗してルールを破る強い感情などをアニマは起こさせる」(河合隼雄 2018[1977]: 124
 ホセにとって、カルメンはまさにそうした存在であったことが思い出されよう。アニマが肯定的に働く時には、生命力や創造性の根源となるが、逆に否定的に働くと、それはペルソナを破壊してしまう。「多くの人がアニマの魅力のため、社会的地位のみか、命さえ失うこともある」(河合隼雄 2018[1977]: 124)。カルメンは、ホセを破滅に追いやったのである。
 ユングは、夢の分析からこうしたアニマ像を析出したのだが、彼の思索はもちろん、アニマやアニムスの検討に留まっていただけではなかった。ユングは後に、統合性・安定性を持つ意識から成る「自我」の外側に拡がる、意識も無意識も含めた心の統合体としての「自己」という概念を定立する。彼は、人がその人なりの人となる、つまり個性を形成していく個性化の過程で、自我によってコントロールできない内的世界を見つめることにより、自己実現を図っていくための深層心理学を打ち立てたのである。そこでは、アニマはたんにペルソナを補償する心像というだけではなく、自己を変容させながら自己実現するための、困難かつ危険をはらんだ(夢および現実における心的)体験だということができよう。
『カルメン』では、兵士というペルソナを日常的な役割として持つホセにとって、不可解で捉えがたく、同時に抗しがたい魅力を湛えた女性であるアニマとしてのカルメンが心の中で大きく膨れ上がって、ホセを破滅に導いた。逆にホセが、ペルソナによって支えられている自我を出発点としながら、内的世界の奥深くで、アニマであるカルメンとの深い葛藤を経て、あらゆる困難を乗り越えて自己実現を図っていれば、兵士として出世するという彼のペルソナとしての夢は叶えられたかもしれない。そんな話ならもちろん、メリメの小説の題材にはならなかったのであるが。

 

ユングに漂うアニミズム

 ところで河合隼雄は、宗教上の霊や魂などと混同されることを避けるために、アニマを「こころ」と平仮名で表記すると述べている。しかし、ユングの言うアニマは、私には直観的に、宗教上の霊や魂と同じようなものに見える。というのは、ユングが以下のように述べているからである。

われわれのほとんどの者は、あらゆる事物や観念がもっている空想的な心理的連想のすべてを、無意識にゆだねてしまっている。それに対して未開人は、それらの心理的な特性をまだ認めており、動物や植物や石に、われわれが奇妙に感じ、受け入れがたいと思うような力を賦与している(ユング 1975: 56)。

 ユングにとって前者、すなわち私たちの無意識の次元のアニマとは、後者すなわち「未開人」の思考のうちに見られるアニマ(霊、魂)と同型のものなのである。
 アフリカのジャングルの住民たちが日中に夜行性の動物を見るとそれを草原の魂であるとか祖霊であると思うかもしれない。南米の先住民の中には自分たちをアララ・インコだという者もいる。ユングは、そのような未開社会の現象を「融即」ないしは「分有の原理」と呼んだ、19世紀の哲学者ルシアン・レヴィ=ブリュルを肯定的に評価している。融即ないしは分有の原理とは、一と多、同と異などの対立は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まないとする、原初の人間が持っていた心性のことである(レヴィ・ブリュル 1991)。ユングは、「個人が他の人物や動物にたいして、そのような無意識の同一性をもつこと」(ユング 1975: 24)を心理学的事実であるとも考えている。
 ユングによれば、「未開人の世界においては、物事は、われわれの“合理的”な社会のようにはっきりとした境界をもっていない」(ユング 1975: 57)。加えてユングは、無意識を意識のたんなる付属物とみなす精神分析学者ジグムンド・フロイトに抗して、上述した、アフリカや南米の人たちの連想やイメージこそが無意識の主要な部分であるとも述べている(ユング 1975: 61)。ユングの知性は、十分に哲学や人類学のアニミズムにまで届いていたのではなかったか。
 こうしたユング心理学とアニミズムの不即不離の関係を踏まえて、いくぶん唐突であるが、以下では逆方向から、すなわち東南アジアの熱帯雨林で雷雨や嵐をめぐるアニミズムを取り上げて、それにユング心理学的な解釈を施してみようと思う。

 

マレーシア、天候激変をめぐるアニミズム

 マレー半島、ボルネオ島、東インドネシアの諸社会には、動物に対する人間の何らかの違反行為が嵐や洪水などの荒天をもたらすとする、アニミズム的な思考と実践が広がっている。言語学者ロバート・ブラストによれば、「雷複合」とは、「ある違反、とりわけ動物に対する違反行為が、天候の異変をもたらす」(Blust 1981: 294)という考えである。人類学者グレゴリー・フォースによれば、「雷複合は、禁止事項――とりわけ、動物、あるいは特定の動物を怒らせると考えられるふるまい、および特に動物の物まねを含む行動(例えば、動物に衣服を着せること)――が嵐を招くことになり、そのため、そうした粗野なふるまいをした者たちが、大水や稲妻、あるいは石化によって罰せられることになるだろうという考え方のことである」(Forth 1989:89)。
「雷複合」をめぐる研究関心は、マレー半島の狩猟民セマンとボルネオ島の狩猟民プナンの間で同じような信仰と実践があることを報告した、1967年の人類学者ロドニー・ニーダムの論文から始まる(Needham 1967)。その報告以降、マレーシアとインドネシア各地から、「雷複合」をめぐって、さまざまな事例の報告と考察が行われてきた。
 ここではまず、マレー半島の狩猟民チュウォンの「タライデン」を取り上げたい(Howell 1984)。タライデンとは、誰かが動物を、それが生きていようが死んでいようがあざ笑うことであり、同時にそのことを知った、地下の「第七大地」に住む蛇であり超自然的な女である「タロイデン・アサル」が引き起こす嵐のことである。
 その嵐は、蛇のカミであるタロイデン・アサルの「息」であり、それが動くと地下から水が湧き上がって洪水となり、やがて蛇のカミが人間を呑み込んでしまう。そのため、タライデンによる嵐が迫っていることをとても恐れて、人々は、タライデンを侵した人物のこめかみと腋の下の毛を毟って、燃えさしの木の上に置いて、唱え言を叫びながらそれを投げ捨て、タロイデン・アサルをなだめようとする。また、子どもたちが騒々しく動物をからかったり、料理の最中や食べられている動物の肉の傍でふざけたりすると、「タライデンだ! 蛇がお前たちを呑み込んでしまうよ」と、大人たちから厳しくしかられる。
 タライデンはまた、人々が正確には動物をあざ笑ってなどいない、以下のような場合にも起きるとされる。

ある男と許嫁がリスをつかまえた。二人はそれを家に持ち帰って、天井から吊るされた赤ん坊用のハンモックの中に入れて、前後に揺らして、やがて生まれてくる赤ん坊にするように、「ボウェイ、ボウェイ」と歌った。雨が降って嵐になり、水が地下から溢れ出した。家と人々は洪水で外に流され、蛇のカミに食べられてしまった。二人がやったことは、まさにタライデンだったのである。(Howell 1984: 181

結婚前の恋人たちが何気なく行った、動物に対する振る舞いもまた、タライデンだったのである。
 ところで、チュウォンのタライデンとよく似た「雷複合」が、同じマレーシアの国内ながら、南シナ海を1000キロ以上隔てたボルネオ島にもある。私自身が長らく調査研究を行ってきた、マレーシア領のボルネオ島の熱帯雨林に住む狩猟民プナンの「マルイ」がチュウォンのタライデンにあたる。
 動物に対する人間の粗野な振る舞いを、プナンは「ポニャラ(間違った振る舞い)」と呼ぶ。ポニャラを知った天空の「バルイ・ガウ(雷のカミ)」や「バルイ・ルングドゥ(稲光のカミ)」が雷雨や雷光や嵐や洪水を引き起こす。それらのカミの性はチュウォンのタライデン・アサルのように、女であるとはっきり示されることはないが、時には荒れ狂うこともあるものの、人々の願いを聞き届けてくれるという点で、母性を持った存在であると捉えられる。
 プナンは、黒雲が垂れ込め、いきなり突風が吹いたり、雷鳴が轟いたりすると、髪の毛を引きちぎって、木の燃えさしで焼いて、カミに向かって、暴風雨や嵐を起こすのを止めるように唱える。森の狩りから持ち帰られたヒゲイノシシの死体の脚を石に叩きつけたり、鼻の形を見てあざ笑ったりして、パーツと戯れている子どもたちは、「そんなことしちゃいけないよ! 雷のカミが怒るよ」と大人たちから厳しくしかられる。
 私が調査した限りでは、プナンのマルイに特徴的なのは、動物をさいなんだり、粗野な振る舞いをしたりすることが、どのように天空のカミに届けられ、怒りに結びつくのかに関して彼らが詳細に語ることである。それはふつう、死んだ動物の魂が、人間の粗野な振る舞いを密かに見たり聞いたりしていて、天上へと駆け上がり、雷のカミや稲光のカミに告げ口をするというイメージで語られる。動物に対する人間の粗野な振る舞い(ポニャラ)について聞き知ったカミは怒りに打ち震え、禁忌(タブー)を侵した人間たちに厳罰を下すのである。
 プナンは、狩られて食べられる肉となった動物のことに言及しなければなければならないことが多々あるので、動物の本当の名前に加えて、死んだ動物の「別名」のリストを持っている。連れ帰られた動物や調理中の動物を前にして、サイチョウ(モトゥイ)は赤目(バロ・アテン)に、ジャコウネコ(パナン・アルット)は夜の動物(カアン・モレム)などに呼び替えねばならない。別名で呼ぶことによって、動物に対する粗野な振る舞いを避けるのである。

 

怒れるカミ、世界の秩序を取り戻す

 すでに述べたように、プナンは大抵の場合、動物の魂が天空へと駆け上がり、カミに告げ口をするという。動物(の魂)が、人間の粗野な振る舞いに腹を立てるからである。なぜ、動物は怒ったり、告げ口をしたりするのかという私の問いにプナンは、名前を不意に呼ばれて人間がいい気がしないように動物もいい心持がしないし、礼を尽くして解体しないなどの人間の粗野な振る舞いに腹を立てるからだと答えた。
 プナンのマルイに関して、私が直接聞いた中で長らく引っかかっていたのは、天空にいる雷のカミは眠っており、告げ口しに来た動物(の魂)にいきなり叩き起こされて、不機嫌のまま怒りを爆発させるのだという、何人かの年寄りたちの語りである。カミは眠りについて、まどろんでいるところを、驚天動地の人間の所業の知らせに愕然とし、怒りに打ち震えるというのだ。
 こうしたプナンの年寄りたちの語りは、一考に値するように思われる。というのは、そこでは、「カミの夢見」が語られているからである。まどろんでいる時に、突如もたらされた古今未曾有たる知らせにカミが憤怒でいきり立ち、天候の激変が引き起こされることがイメージされている。
 この点に関し、前述したチュウォンの結婚前の恋人たちのタライデンに対して比較詩学者・管啓次郎が与えた独自の解釈が、示唆に富んでいる。管は、以下のように述べている。

ふたりはやがて生まれてくる赤ん坊のことを想像しながらか、人間の乳児のために紐で編まれたハンモックにリスを入れ、やさしい言葉をかけたり、歌をうたったりしながら、それを揺らした。これがタライデンを犯した。地下で永遠にまどろんでいるタロデン・アサルはその全知の夢の中でただちにこれを知り、からだを怒りにしぼりあげると大嵐をひきおこし、風と雨と洪水によって村をずたずたにしたあげく、若い恋人たちにその強力な顎の中に飲み込んでしまったのだ。(管 1995:70

「第七大地と呼ばれる、暑く、湿気にみちて、陽光が絶えずさんさんとふりそそぐ地下界の水の中にまどろむ巨大な蛇にして超自然の女『タロイデン・アサル』」(管 1995:70)は、全知の夢を見ながらまどろんでいる。そのゆったりした時間の流れの中で、彼女はタライデンのことを知る。怒りに身体をしぼり上げて、激しく息をし、動き回るため、嵐と大水が人間の住む大地に襲いかかるというのだ。
 もし、その超自然的な女である蛇のカミが眠っている最中に夢の中でまどろんでいたのだとすれば、人間による動物虐めは、強烈な心像すなわちアニムス的なものであるとは言えないだろうか。
 アニムスに関しては、少し説明が必要かもしれない。アニムスとは、女性らしいペルソナに対して、無意識のうちに集積されている論理性や強さのことであり、差異を明確にし、正誤の判断を下す男性的な原理のことである(河合隼雄 2011[1967]: 212)。「女性がアニムスにつかれると、女らしさを失ったものとして非難される」(河合隼雄 2011[1967]: 217)ことがある。いずれにせよ、超自然的な女であるタロイデン・アサルは、夢の中でまたは夢から覚醒して、アニムス的なものに激しく揺さぶられ、禁忌の侵犯を取り返しのつかない悪と決めつけてしまう頑強な心的状態に入っていったのだ。
 興味深いことに管はさらに、チュウォンの結婚前の恋人たちの伝説を以下のように解釈する。

日常的には地下世界に眠っている「法」が、みずからに対する違反を知るとただちに目覚め、地上に夢の混乱をもたらし、しかるべき犠牲をとった上で、秩序の回復を図る。地上世界での自然界/人間界の水平的分割は、ここでは地上世界(=日常的現象)/地下世界(=法的権威の空間)という垂直的分割の上に立っており、その「法」に権威を与えるのは、まさに地下世界へと投射された夢の、あらゆる区別(大地/水、村/森)を攪乱する暴力(のイメージ)なのだ。(管 1995:70-1

超自然的な女である蛇のカミ(タロイデン・アサル)は、「法」の権威であり、最高審級たる地下世界の存在者である。彼女の心地よい眠りは、人間と動物の根源的平等を転覆するかのごとき人間の振る舞いによって粉々に打ち砕かれ、久遠の幸福感の夢心地からはたと呼び覚まされる。夢の中に彼女の見たものとは、絶対に侵すべきではない、人間と動物の対称性をめぐるタブーの侵犯の心像だったのではあるまいか。アニムスによってまどろみからペルソナを呼び覚まされた蛇のカミは、息を荒げてのたうちまわり、地上世界を混乱の極みに陥れたのだ。

 これまで見てきた、マレーシアの熱帯雨林の人々の抱く「まどろむカミ」のイメージを、ユング心理学に拠りながら、カミの「私」の問題――自我と自己をめぐる問題――として捉え返してみることができるかもしれない。チュウォンの地下世界の超自然の女であるタロイデン・アサルは、まどろみの中に現れたアニムス像としての、地上世界の人間による驚愕の振る舞いに忘我となり、はち切れんばかりの怒りを炸裂させ、それが地上世界で暴力となって吹き荒れることになった。そのことにより、窮極的に、地上世界の秩序の回復が図られたのではなかったか。
 タロイデン・アサルは、意識が抑制できる範囲を超えて自我を一気に拡張し、荒れ狂うという困難と危険のうちに、自己変容をつうじて、自己をつくり上げたようとしたのである。チュウォンのタロイデン・アサルにとって、あるいはプナンのバルイ・ガウ(雷のカミ)にとって、すなわちマレーシアの狩猟民の天候をつかさどるカミという自我にとって、自己とは「世界」のことに他ならない。

 

参考文献
河合俊雄 1998 『ユング:魂の現実性』講談社。
河合隼雄 2011[1967]  『ユング心理学入門』培風館。
河合隼雄  2018[1977]  『無意識の構造』(改版)中公新書。
管啓次郎 1995 「夢の鏡」『イマーゴ』(特集:夢の技法)pp.58-74、青土社
Needham, Rodney  1964   ‘Blood, Thunder, and Mockery of Animals’, Sociologus 14(2): 136-148.
Howell, Signe  1984  Society and Cosmos: Chewong of Peninsular Malaysia.  The University of Chicago Press.
Blust, Robert  1981 ‘Linguistic Evidence for Some Early Austronesian Taboos’, American Anthropologist 83: 285-319.
メリメ  2018[1929]  『カルメン』岩波文庫。
ヤッフェ、A.編  1972 『ユング自伝1』河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳、みすず書房。
ユング、カール・G  1975  『人間と象徴――無意識の世界――』(上巻)、河合隼雄訳者代表、河出書房新社。
レヴィ・ブリュル 1991 『未開人の思惟』(上)山田吉彦訳、岩波文庫。

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2020年1月24日(金)掲載