七十歳の自己流「方丈記」 太田和彦

2020.7.6

07住み家と居酒屋――東京めぐり

 

 

下北沢からはじまった

 

 大学に合格して上京し、下北沢に下宿した。南口から商店街を抜けた住宅地のはじまりの、化粧品店の脇を入った奥の古い物置を改造した一軒家だ。小さな戸を開けた目の前が水道と流し、左三畳間の一畳ぶんは下が物入れの寝台。水道の右は畳半分の便所。計三坪もないが、これぞ独立した自分の家とおおいに気に入り、実習用のケント紙を切って「太田和彦」と表札を出した。まさに方丈の住み家だ。
 すぐ近くに銭湯も豆腐屋も、仕送り書留を受けとる郵便局もあり、北口の戦後のままのマーケットは魚屋、おでん種、外国チョコレート、米軍放出衣料などが並び活気がある。駅前の小田急ストアでくずハム、八百屋でもやし一つかみ、豆腐屋で豆腐と納豆を買って計一一〇円。くずハムもやし炒め、豆腐の味噌汁、納豆に白いご飯が以降不動の自炊メニューになってゆく。当時の下北沢は新宿あたりから流れてきた売れないゲージツ家がたむろしているような自由なサブカルチャーの雰囲気があり、デザインを学ぶ身にはぴったりだった。三軒ある映画館も草履ばきでよく入った。あこがれの一人暮らしは自分を作ってゆく。
 子どもが三〇歳、四〇歳を過ぎても結婚せずに親と住み、あげくは八〇歳の両親を五〇歳の独身の子どもが介護するのを「八〇五〇問題」というそうだ。子どもを自立させなかったツケだ。家から追い出して一人暮らしさせ、あまり援助もしないでおけば、何でも自分で解決しなければならない「決断力」、自炊洗濯耐乏暮らしの「生活力」、目標を失わない「意思力」、他人と組む「協調力」をつけてゆく。さらに一人の淋しさを埋めてくれる恋人も。
 それがないままだらだらと親と同居するから、いつまでも一人前にならず、結婚もできず、あげくのはては引きこもり、何でも親のせいにした確執、と最悪になる。親が甘かったからだ。文句を言わせず家から放り出して自立させなかったからだ。
 人間関係や家族は、つねに一緒だと互いの欠点が目についてくる。逆に離れていれば相手の良さが見えてくる。たまに会えた時間を大切にするようになる。私は一七歳で親元を離れて以来、帰省の盆正月はいつも温かく迎えられ、母の手料理で父との酒、近況報告をなごやかに楽しんだ。感謝あるのみだ。

 

 

 

真っただ中に身を置く 

 

 大学を卒業して銀座の資生堂デザイン室に就職がきまると、下北沢の家を出る日が来た。これからは自活だ。苦労して仕送りを続けた親はどれだけほっとしたことだろう。越した先は総武線東中山にあった賄い付き独身寮だが、個室はただ寝るだけのスペース。その狭さもだが、仕事後に先輩たちと飲みに出て話が佳境に入った頃、終電で先に帰らねばならないのはいかにも惜しく、通勤に時間を費やすほどの損はないと気づき、半年で出て東横線学芸大学に越した。
 しかしそれでも銀座には遠く、一年ほどして越した千駄ケ谷の木賃アパート「千二荘」(千駄ケ谷二丁目の略)は風呂もなくしょぼいが、ここなら会社のある銀座からタクシーで帰ってもそうかからない。もはや飲み席に最後まで居るのは当たり前になる。以降の、帰りを心配しない飲み方の習性はここで定まったか(だめですぞ)。
 住みはじめるとすべてが徒歩圏内になった。神宮外苑や国立競技場は散歩に最適。青山に開店した日本最初の深夜スーパー「ユアーズ」は有名人が出入り。まだ静かだった原宿交差点の「セントラルアパート」は浅井愼平さんなど第一線クリエイターの事務所が軒並みで、一階の喫茶「レオン」はコーヒーお代わり無料のたまり場。高級マンション「ビラ・グロリア」地下の伝説のバー「ラジオ」は、学生時代からよく知る藝大を出たばかりの杉本貴志さんのデザインで、家が近い私は「毎晩来い」と言われ、そこで和田誠さんなど多くの一流人を見て、自分が毎日成長している自覚を育む。
 会社にこもっていては世界が広がらないと銀座を抜け出し、当時気鋭の人士が集まる青山や六本木に毎夜通い、最後の二時三時は歩いて帰った。家が近いのはなんとよいことか。「おう、太田」「あら~、太田ちゃん」の刺激的な夜が自分を鍛えてゆく。交遊こそ財産。酒はあれこれ言わずウイスキー水割り一点張り、金はなかったが何とかなっていたのは広告代理店あたりが払っていたのだろう。
 田舎から上京して強く思ったのは「好きなところに住める東京の自由さ」だった。これを実行しない手はない。環境第一、部屋は二の次。住む場所が自分をつくる。その真っただ中に居なくてどうする。誰にも相談しなくてよい一人暮らしの気楽さがそれを可能にした。

 

 

 

 

好きなところに住む 

 

 三〇代も半ばになり、そろそろ身を固めねばと思いはじめた。千駄ケ谷の木賃アパートはなんとか風呂つきになったが、こんなところでは嫁さんなど来てくれないと決心して、会社の住宅ローンを申し込んだ。二〇年返済「二〇〇一年ローンの旅」だ。
 不動産屋から紹介された六本木は、当時バブル夜遊びの中心地で半信半疑だったが、見にいった鳥居坂のマンションは歓楽街の喧騒から離れ、名建築の東洋英和女学院や広大な日本庭園をもつ国際文化会館のある落ち着いた場所だった。ローンを組むには戸籍謄本が必要で信州松本の父に頼むと「この際本籍を移したらどうだ」と言われそうした。以降私の本籍は東京都港区六本木だ。
 たいした家財もないまま、初めて自分がもった住み家に越すと、毎週末は近所の散歩に出た。鳥居坂下の麻布十番から再び坂を上がった元麻布は、森閑とした古い東京の屋敷町で大使館が並び、「西町インターナショナルスクール」には外国人の子どもらが通い、スーパー「ナショナル麻布」は外国人ばかり。一方、麻布十番はまだ地下鉄も通らず、東京のエアポケットのような古い商店街で、豆腐屋も、銭湯「麻布十番温泉」もある。
 すっかりここが気に入ると、もう住む場所では遊ばないと六本木歓楽街も行かなくなり、人も誘わず、もっぱら一人でわがマンションの前を通り過ぎ、気に入った居酒屋で過ごした。東京暮らしで辿り着いたのは、古き良き山の手だった。その後、嫁さんにも来てもらえ、やがて会社を辞め、歩いて通える麻布台に仕事場をもつ。
 家をもち結婚して生活基盤は固まったが、家庭とは別にまた自分一人だけの居場所をもった。一七歳に下北沢ではじめた一人暮らしは基本の生き方になっていた。「方丈」が身に付いていた。ローン返済でばりばり働かねばならないが、その基地ができた。ようし、やるぞ。
 それから三〇年。妻の母と同居することになり六本木の狭いマンションは出て、今は目黒。やはり近くに一人の仕事場をもっている。下北沢→千駄ケ谷→六本木→目黒。あちこち移り住んだ場所はそのときの自分の課題に沿い、場所が自分を作っていった。
 人生は一回。貧乏でも狭くても「好きなところに住む」は今も続けている。

 

 

 

東京を味わう

 

 小さいながら六本木にマンションの一室を手に入れて結婚、会社を辞めて自分の仕事場をもった四三歳、いよいよ人生第二部の実感がわいてきた。頼りは自分だけだが、安定した気持ちは足を下町に向かわせてゆく。続けていた居酒屋歩きで東京のよい居酒屋は下町=古い東京にあるとわかってきていた。そこを丁寧に歩く。まあヒマなのだ。
 湯島、創業大正一四年の「シンスケ」は、白木仕上げの内装に、湯島天神祠が上がるほかは何もない潔癖な店内に長大なカウンターが一本。縞の袢纏、頭に手拭い豆絞りの三代目が秋田「両関」の薦(こも)被り樽を背に、駘蕩(たいとう)と燗をつける。大相撲東京場所の初日前は番付ふれ太鼓が訪れ、祝儀を渡す。近くの東大の先生から早じまいの職人まで客の話題は相撲と落語。にこやかに飲みながら、騒ぐ者や過度な酔っ払いを締め出す空気を作る。会社先輩に初めて連れられてこれぞ生粋の東京と感じ、いつかはこのカウンターに一人で座れるようになりたいと思っていた。今こそ実行しよう。
 根津の「鍵屋」は安政三年(一八五六)酒屋として創業し、昭和初期から店の隅で一杯飲ませはじめ、戦後居酒屋になった。江戸の建物で酒が飲めると文人芸人が通い、居酒屋らしからぬ白ワイシャツで通した主人は、永井荷風や谷崎潤一郎ら多くの作家に愛された。旧建物は小金井公園の江戸東京たてもの園に移築保存され、今のは大正時代に踊りの師匠が住んでいた家だ。昔とまったく変わらない品書きで昔の東京のように酒を飲めるのがうれしい。
 浅草観音通りの「志婦や」は気さくなお父さん、お母さん、二人の息子、手伝いのおばさんの家族経営が、実家に帰ったようにくつろげる温かさが魅力だ。三社祭は昼から営業し、息子の若奥さんはパッチ鉢巻で御輿かつぎに飛び出してゆく。大豆を茹でた〈みそ豆〉は鍵屋のお通しと同じで、すぐ出るのがせっかちな江戸っ子好み。
 湯島、根津、浅草、千住、門前仲町……。歩いた下町は、戦前の、さらに江戸を伝える東京だった。上京して二〇有余年、ようやく東京の奥に近づいた気持ちがしてきた。
 永井荷風は麻布の住まい「偏奇館」から浅草下町通いを続けた。私の仕事場は偏奇館のすぐ近く。同じようなことをしていたが、浅草の美人踊り子さんに縁がないのはざんねん。ともあれ、四〇過ぎ男の人生第二部は、日和下駄ではじまった。

 

 

(第7回・了)

 

 

本連載は基本的に週1回更新でお届けします。
次回:2020年7月13日(月)掲載予定