弱き者たちの叡知 若松英輔

2020.3.28

01言葉の護符

 

 今、世界は未知なるウィルスの脅威におびえています。素朴なことですが、とても重要な体を守る方法のいくつかを私たちはもう知っています。
 しかし、人は体だけで生きているのではありません。体が危険にさらされるとき、それを引き受けるのは心です。
 身心一如という言葉があるように、体と心は一つです。だからこそ、こうしたとき、私たちは体を守るのと同じように心を守らねばなりません。
 体を守ることだけに懸命になると、心が消耗してしまいます。体を守るために私たちは食物を摂り入れ、休息の時間を持ちます。
 同質のことを心にもほどこさなくてはならないのです。心の糧、それは言葉です。清浄な水と栄養豊富な食べ物を摂取するように、たしかなはたらきをもった言葉を心に注ぎ込み、やはり、十分な憩いのときを持たねばならないのです。
 どこからかやってくる不安や恐怖から私たちを守ってくれるのは言葉であることは、私の経験でもありますが、このことには昔の人も気が付いていました。
 哲学者の井筒俊彦は、『コーランを読む』という本のなかで中世のユダヤ人は『旧約聖書の『詩篇』にある多くの言葉を書きしるし、それを「お守りとして使ってきた」と述べています。
 ある人は部屋に貼り、ある人は小さな紙を身に着けていたのでしょう。言葉は、思いを伝達する道具ではありません。私たちを苦難から守る見えない盾でもある、というのです。
 このことを私たちは今行ってもよいのではないでしょうか。自分を慰めてくれる言葉、力をくれる言葉、そして支えてくれる言葉を自分の手で書き、見えるところに貼ったり、手帳や携帯電話といったものを通じて日々目にするようにしてもよいかもしれません。

『詩篇』は、文字通り詩の姿をしたユダヤの人たちの聖典です。(『旧約聖書』はキリスト教の聖典でもありますが、この話は別なところで。)
『詩篇』には、嘆きと悲しみの言葉が多く記されています。それを読んでいると、かつてのユダヤ人はどうしてこれほどの苦しみを背負わなくてはならなかったのと目を覆いたくなることもあります。
 しかし、もう少し注意深く読んでみると、その嘆きの声の奥には、民衆の嘆きをしっかりと受け止める神が感じられているのが分かります。ユダヤの人々は、大きく嘆く。そこには神に見放された絶望があるのではないのです。どんなに大きな悲嘆であってもけっして受け流すことのない大いなる存在への絶対的な信頼があるのです。『詩篇』にはこんな一節があります。

 

 主は仰せになる、
「哀れな者のすすり泣きと、
 貧しい者のうめきゆえに、
 今こそ、わたしは立ち上がり、
 おびやかされた者を安全なところに置こう」
  (『詩篇』12・6フランシスコ会聖書研究所訳注)

 

 人の目に映らないところでひとりすすり泣き、でうめく者たちの声にならない「声」も、神の耳に届かないことはない。神は、強き者たちに力を注ぐだけではない。弱い者にも寄り添い、その者たちが真に安堵できる場所へと導いてくれる、というのです。涙し、嘆き、誰もいないところでうめくことこそ、もっとも真摯な神への呼びかけ、この上なく純粋な祈りだというのでしょう。
 世界には「弱い者」になってみなくては、けっして見えてこない場所があります。そこで人は、朽ちることない希望を見出し、人間を超えた何者かと出会うのです。