弱き者たちの叡知 若松英輔

2020.4.18

05弱い自分


 もっと時間があれば本を読むこともできるのに。そう感じることは幾度もあった。もっと時間があれば、やりたい仕事もできるのに。そんなことを心のなかで何度つぶやいたか分からない。
 この数週間は、これまでと比べることができないくらいに時間がある。だが、これまでのようには本を読むことも、文章を書くこともできない。
 理由は、はっきりしている。落ち着かないのだ。これまで経験したことがない自然の脅威にさらされ、どうなるのか明日が分からない不安におびえている自分がいる。
 緊急事態宣言は発せられ、家にこもることが強く促されるようになると、途端に人との交わりも減る。
 今、ひとりで暮らしているから、誰とも話さない日も少なくない。それでも時間は刻刻と過ぎていく。気が付けば日が傾き、心のどこかでその日の終わりを感じ始める。
 居室は特別寒くもなく、暑くもないので、快適といえば快適だが、その快適さを十分に感じる心の余裕がないのである。そんな日を幾日か過ごした。
 ある日の晩、突然、耳鳴りがした。昔から疲労がある地点を超えると、身体が警鐘を鳴らすように左耳から高い異音がする。
 今回はいつもよりも深刻で耳が聞こえにくくなり、一気に心臓の鼓動が高くなった。
 小さなパニックになったのである。
 弱い。自分が感じているよりもずっと弱い。そう思った。どんなに否定してもそう思わざるを得なかった。無理がどこから来たのかは明らかで、こうしたときは強くあらねばならないとどこかで思い込んでいた自分に気が付いた。
 孤独が孤立に変化するのが恐ろしく、身体の変調に一人で対処する自信も万全ではなかった。友や大切な人と会うこともできず、考えたくもない想念がうずまく。
 どんなに自分の身を守っても、大切な人たちを直接守ることはできない。むしろ、できるだけ会わないことだけが、その人たちの無事に寄与する、というのが現実なのだ。
「ソーシャルディスタンス」の必要性も、もちろん理解している。だが、その一方で、自分がどれほど多くの他者の助けによって生きているのかという自覚が十分ではなかった。また、そうした人たちから強制的に分離されたという事実を十分受け入れられていなかった。
 不思議なことに、今回、私はもっと自分が強くあらねばならない、とは思わなかった。かつてなら、全身の力を振り絞って、弱さを克服しようとしたかもしれない。だが、今の私はまったく違う道を歩いている。むしろ、自分の弱さを凝視しなくてはならないと思っている。

いま いちばん
たいせつなのは
弱い自分から
逃げないで ちゃんと
向き合うこと

むやみに
強がったりしないで
いろんなことに
傷つき
おびえている自分から
目をそらさずに
見届けるのが 仕事

とっても
忙しいから
いつも通りに
していることなんか
できない

 

 自分は弱い、そのことを認めるとさまざまな不調は次第に癒えていった。今も完全ではない。だが、その状態を「生のゆれ」として感じ得るようにはなってきた。
 わが身を守る。これは誰にとって大切な務めだ。今は、自身を守ることが、他者を守ることにもなる。ただ、私たちは、もう一つ、おのれの弱さを認めるという仕事にも従事しているようなのだ。