写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2016.12.1

03北海道へ渡ったネパール人

 私の手元に、カップルが携帯電話のカメラでお互いを写した数葉の写真がある。
 薄暗い異国のレストランで撮られたものだ。うち一枚には、浅黒い顔をした男が写っている。彫りの深いその顔立ちから、日本人でないことがすぐにわかる。男は、まるで証明写真を撮るときのように無表情でカメラを見つめている。一方、その男にカメラを向けられた日本人女性は、別の一枚で屈託の無い笑顔を浮かべている。
 その表情があまりに対照的なのに驚く。撮られた写真の場所は同じなのだが、二人で同じ時間と空間を共有しているようには見えない。向かい合って座ってはいるものの、お互いが別のことを考え、別の世界を見ているかのようである。
 果たして、男はたまたまシラケたような表情をしただけなのか。他にも彼女によって撮られた写真を見てみたが、時と場所が変わっても男に笑顔は無い。無表情に彼女のカメラを見つめている。まるで赤の他人にカメラを向けられたかのように、どこか迷惑そうな印象すら受ける。二人はこの後、結婚にまで至るカップルなのだが、湧き出てくるような幸せな雰囲気といったものは、男からはまるで感じられない。とにかく心の底から冷め切っているように見えるのだ。

妻子を殺したネパール人
 男の名前はバハドー・カミ・シュアム、ネパール人である。女の名前は赤松智子。二人はネパールで知り合った外国人同士のカップルだった。智子がネパールで男のことを好きになり、結婚。その後シュアムの来日により、日本に生活の場を移した。しかし、日本での結婚生活は一年と数週間で終わりを告げる。
 シュアムが智子を撲殺したからだ。
 そして二人の間にできたひとり娘のジュヌも、シュアムは川に流した。
 日本での生活をすべて破壊したシュアムに果たして何があったのか。二人の結婚生活はどうして最悪の形で幕を閉じなければならなかったのか。
 悲劇的な結末を迎える二人の関係。私には、出会った頃に撮られた写真の中に、すでに結末が暗示されていたように思えてならなかった。写真の中の表情は、互いの心中を写し出していたのではないか。この二人の間に横たわる溝の正体は、いったい何なのだろう。この溝の存在こそが悲劇を生み出した原因に違いない。いくつかの事柄が脳裏に浮かんでくる。しかし、それも今は単なる推論でしかない。ここで並べてみても独断と偏見の域を出ないだろう。
 事件の舞台となった北海道、彼の故郷であるネパールを巡り、二人の歩んできた道を辿りつつ、事件の核心に迫りたい。

一通のメール
 事件が起きたのは、二〇〇六年五月六日、午前二時二〇分頃のことだった。ネパール人の夫バハドゥール・カミ・シュアムは妻である智子から離婚話を切り出されたことに逆上し、胸や顔を素手や鈍器で殴打し、首を絞めて殺害。さらに一緒に暮らしていた生後六カ月の娘ジュヌも家の近くを流れる川に流すなどして殺害したのだった。
 事件の一報を私は夕方のニュース映像で知った。ネパール人の男に少なからぬストレスがあったのだろうということは容易に察しがついた。ただ、それで妻と子を殺してしまうというのは、当然だが尋常ではない。
 ニュースを見て一週間が過ぎた頃、一通のメールを受け取った。ネパールで服飾関係のビジネスをしている友人、下田からだった。彼女と知り合ったのは今から二十年以上前、タイの首都バンコクにある、バックパッカーには有名なカオサンロードの安宿だった。当時、私は毎年ネパールに半年ほど滞在して、児童労働に身をやつした子どもたちなどの写真を撮り続けていた。そのため、中継地点となるバンコクにはよく投宿していた。彼女はインド旅行の帰りにカオサンロードへ足を踏み入れていたところだった。
 その後も、お互いネパールをフィールドに仕事を続けていたこともあり、時折メールではやりとりをしていた。亡くなった智子とはカトマンズで面識があり、彼女を殺害したシュアムとも会ったことがある、と下田のメールには書かれていた。
 この一週間、事件のことは気にかかりつつも、自ら動いてみようとは思っていなかったが、被害者と加害者のことを知る人物が身近に現れたことで、俄然、取材をしてみたいという気になった。

日本人女性ふたりの出会い
 私は茨城県で暮らす下田を訪ねることにした。彼女が住む町へは、東京駅から直行のバスが出ていた。二時間ほどでその町へと着くと、旦那さんと一緒に車で迎えにきてくれていた。
「こんなことになるとはねぇー、驚いちゃったよ」
 開口一番、彼女は悲しみを振りほどくためか、どこか元気よく振る舞った。やはり、たまたま見ていたテレビのニュースで事件のことを知ったのだという。
「まさかと思ったけど、北海道って出てきたから、間違いないと思ったの」
 車で三〇分ほど走って、家へと案内された。
 年に数回、仕事の関係でネパールに数カ月滞在している下田は、二〇〇六年の冬に智子と出会った。きっかけは、カトマンズにあるいきつけの日本食レストランだった。
「夕食の時間だったかな、窓側の席に日本人の女の子が座っていたの。目が合ったので、『こんにちは』って挨拶をして、私も一人だったから、どちらから声を掛けるってわけでもなくて、一緒のテーブルに座ったの。彼女はもう食べ終わりそうだったけど、お互いのことを話したわ」
 智子は、シルバーの細工と彫金をネパール人のところで勉強していると言った。アクセサリーや石のことを熱心に語ったという。
 カトマンズへ来た理由を尋ねると、智子は言った。
「彼氏が二年間だけネパールでカフェをやるための準備で、すでにカトマンズにいて、『来たら』って言われたの」
 当時、付き合っていた日本人のボーイフレンドがカトマンズにいたこと、彫金に興味があったことが、彼女をネパールへと向かわせた。彫金の勉強をする工房も、彼氏が紹介してくれた。
 智子がネパールに初めて降り立ったのは、二〇〇五年一二月のことだった。オープン予定のカフェの手伝いと、彫金の勉強をしながら、翌年の三月まで滞在した。このとき下田と知り合い、また工房で働いていたスタッフの一人であるシュァムとも出会ったのだ。
「工房には毎日銀細工の勉強に行ってたみたいだけど、シュアムとは付き合ってはいなかったと思うよ。私の滞在していたホテルにも訪ねてきてくれて、よく一緒にごはんを食べにいっていろんなことを話したけど、シュアムの話題は出なかったから」
 一回目のネパール滞在がよほど印象深いものだったのだろう。翌年の一二月、彼女は再びネパールへ足を運ぶ。彫金の勉強はもちろん、ネパールとの繋がりの中で彼女自身も何かビジネスをしたいという気持ちが芽生えていた。そして、人間関係においても彼女の人生にとって大きな分水嶺となることが起きていた。
 カトマンズでカフェを経営していた日本人男性と別れ、シュアムと付き合いだしたのだ。

「すぐ結婚しちゃ駄目だよ」
 智子の二度目のネパール滞在中、下田も遅れること一カ月ほどして、カトマンズに入った。
「来てくれてよかった。タメルにも居づらくて、毎日工房へ行ってるの」
 久しぶりに再会した智子は、下田にそう言った。タメルとは、カトマンズにある世界各地からの旅行者が集う町のことである。別れたボーイフレンドもその町を拠点としていた。狭い通りに安宿が密集していることもあり、会いたくなくても顔を合わせてしまう。
 さらには、もともとボーイフレンドの紹介でネパールに来ていただけに、彼の知り合いたちと会うのも気まずかった。タメルの日本人と付き合いもなく、タメルで足を向けるのは日本食レストランぐらいだったから、下田の存在は、彼女にとって有り難かっただろう。
 下田がカトマンズ入りして何度目かに智子と会ったとき、いつもの日本食レストランで、ネパール人と付き合っていると告白された。それを聞いて下田は間髪いれず忠告した。
「すぐ結婚しちゃ駄目だよ」
 付き合っているという言葉を聞いて、反射的にその言葉が出たという。下田は十年以上にわたりネパールでビジネスをしてきた。その年月の中で、耳にタコができるほど、日本人女性とネパール人男性の結婚にまつわるトラブルを数多く見聞きしてきた。
「日本に着いて数日で、出かけたと思ったら、それっきり家から逃げ出してしまったり、日本の空港に着いた途端、姿をくらました男だっているのよ」
 そうしたネパール人男性の逃走理由は、単刀直入にいってしまえば、日本で稼げる現金である。
 単純にGDPで比較しても、日本とネパールには数十倍の開きがある。日本で数年働くことができれば、ネパールでは大きな家が建つ。大家となり部屋を貸して生活すれば、一生安穏として生活ができる。ネパールでは一生かかっても稼ぐことのできない大金が、日本で無理して働けば、数年で稼げてしまうのだ。
 それゆえにネパールの男たちは日本へ行くことを夢見る。下田も、ネパール人の男から執拗に結婚を迫られることが度々あった。
「道を歩いているだけなのに、しつこくつきまとってきて、日本に行きたいだとか、結婚したいとか言ってくるの。中にはホテルの入り口までついてくるのもいたわ。レストランに入っても、ウエイターが私の顔を見るなり、結婚しているのかと聞いてきて、独身だったら結婚してくれ、だとかね。とにかくありとあらゆる場所で、なんとか結婚して日本に行こうと話しかけてくるから、その気の無い女の子には大変なのよ」
 男にはわからない苦労話である。彼女は自身の体験から、そのような、道で結婚を迫ってくるタイプの輩である可能性も考えられるから、「すぐに結婚するな」と彼女に伝えたのだった。
 その忠告は正鵠を得ていた。

シュアムをめぐる第一印象
 しかし、下田の言葉は智子には届いていなかった。シュアムと付き合いだすと、下田と会う回数もめっきり減っていった。以前は、ほぼ毎日のように下田の部屋を訪ねてきたが、ほとんどやってこなくなった。
 二〇〇七年二月、下田は久しぶりに智子に会った。その場で彼女から、シュアムを紹介したいという申し出があった。後日三人で夕食を取ろうと智子は言った。
 その日、待ち合わせ場所だったタメルにあるシュアムの工房の前へ行くと、智子の横に小柄で内気な感じのネパール人の男がいた。それがシュアムだった。
「ネパール人は向こうから話しかけてくる陽気な人が多いのだけど、彼はあんまり喋らない感じの男性だったわね」
 シュアムの印象より下田の心に残っているのは、その後、足を踏み入れた工房の中での出来事だった。
「工房といっても、一六〇センチ以上の人だったら背を屈めないと立っていられないくらい天井が低くてね。四畳ほどのスペースに、四人ぐらいがぎゅうぎゅう詰めになって働いているような狭い場所だったわ」
 その狭い工房の中で、シュアムの友人が智子に金の無心をしていたのだという。明日の昼までに返すから、一万五〇〇〇ルピー(約二万四〇〇〇円)を貸してくれ、と。ボーイフレンドの仲間ということもあり無下にもできず困った表情を浮かべる智子を見て、下田は黙っていられなかった。ネパール語で、
「なんで、智子があなたにお金を貸さなければいけないの。貸せるわけないでしょう」
 男はその一言で黙った。下田はこの男が、シュアムが日本に行ったら俺も呼んでもらうんだと言うのも聞いていた。日本人である智子を利用しようとする思惑が、何の遠慮もなくあけすけに語られていた。
「どうしてシュアムは、智子ちゃんが困っているのに黙って見てたんだろう。彼の態度を見て、正直、(二人の関係は)大丈夫かな……と思ったよ」

 三人で工房を出ると、表通りに色黒のネパール人男性が立っていて、智子が「ナマステ」と挨拶をした。シュアムの父親だった。
「どうしてお父さんがいるの?」
「身分証を持ってきているの」
 下田の問いかけに、智子は何のためらいも見せずに言った。智子のいう身分証とは、ナグリタと呼ばれる戸籍謄本のようなものである。ネパール人同士の結婚の場合、役所に届け出ない夫婦も多いが、国際結婚となるとビザの申請のために、ネパール側の身分証が必要となる。下田は、二人は本当に結婚を考えているのだと、このとき初めて知った。
「ナマステ」と挨拶をすると、父親は同じ言葉を返すだけで特に何かを話そうともせず、すぐに目をそらした。そのときの素っ気ない態度に、下田は、愛想のよいネパール人にしては珍しいなと感じた。
 三人は食事を取るため夕暮れのカトマンズの街中を歩き、ネパールレストランへと向かった。鶏肉をトマトと唐辛子で炒めたチキンチリや日本のお好み焼きに似たネパールの郷土料理をつまみながら話をした。
 智子はシュアムについて言った。
「すごく真面目でいい子なの」
 二人の様子を見ていると、智子のほうがシュアムを気に入っているのは明らかだった。
 智子はネパール語の会話帳を片手に、片言のネパール語で話している。そこにはちゃんとした会話というものが成立しておらず、うまく意思の疎通ができているのか下田は心配になった。
 食事が一段落ついたところで、智子は結婚の決意を語った。結婚後は北海道でカフェを開き、そこで銀細工作りの体験教室も開きたいという。
 自分からはほとんど話さないシュァムだったが、銀細工や石の見分け方に関しては、積極的に口を開いた。ポケットから取り出した小さな石を見せて、この石がどのくらいするかわかるか、と聞いてきた。そして良い石と悪い石の違いを熱心に語った。そんな姿からは、職人としてこれだけは誰にも負けないという自負のようなものが感じられた。

結婚と日本移住
 ただ、二人の先行きに不安を感じた下田は翌日、智子へ次のようなメールを送った。

 “最初は幸せかもしれないけれど、金銭感覚や文化の違いは大きいから、すぐにシュアムを日本に連れていくのではなくて、まず語学学校に入れて、日本語の勉強をさせるべきだよ。人によっては婚姻届と離婚届を同時に書く人もいる。それぐらいの覚悟がいるよ。言葉ができないままじゃ、子育てをするようなものだから、無理だよ”

 彼女が気分を害すことは覚悟のうえだった。
「智子ちゃんは思いやりがあって、優しくて、人の悪口は言わないし、本当にいい子だった。普通の友達だったら私も何にも言わないけど、彼女に関しては黙っていられなかったの」
 メールを出してすぐに彼女から返事が来た。

 “心配してくれるのは、わかっています。ありがとう。誰にも迷惑をかけないでやります”

 三人で夕食を取ってから数日後、下田はタメルで智子とばったり会った。今まで泊まっていた宿がネパール人の立ち入りを禁じていたため、ネパール人も宿泊できる宿に替え、離れているのがつらいからと、帰国日までの一週間、一緒に滞在しているのだという。

 カトマンズで別れてから三カ月後の二〇〇七年五月、下田のもとに一通のメールが届いた。智子からだった。
 下田がデザインして販売しているシャツを注文したいと書いてあり、メールの最後には、カフェの準備をしていること、シュアムはすでに日本にいて、秋には子どもが産まれることが書き添えられていた。

智子の実家、北海道へ
 そして二〇〇八年五月、下田はふと目をやったテレビ画面に釘付けとなった。
「メールでしか連絡を取っていなかったから、詳しいことまではわからなかったけど、まさかこんなことになるなんて……。連絡がなかったから、うまくいっているのかなって思ってたの。今さら言っても仕方がないけど、もっときっちりと反対しておけばよかった。そうすれば、こんなことにならなかったのに」
 彼女は悔しさを滲ませながら語った。
 私は下田から智子の両親を紹介してもらい、彼らから取材を了承する返事を得たうえで北海道へと向かった。

 北海道虻田郡(あぶたぐん)倶知安町(くっちゃんちょう)は、羊蹄山(ようていざん)の麓に広がる町である。人口一万五四八一人のこの町の歴史は古い。倶知安が歴史に登場するのは、今から約一四〇〇年前。西暦六五九年に阿部比羅夫が、後方羊蹄(しりべし)に郡領を置いたと日本書紀は伝えている。その後、明治の北海道開拓の時代まで、倶知安という名前は歴史の舞台から遠のくが、近年隣町にあるニセコスキー場はオーストラリア人の間で有名となり、尻別川(しりべつがわ)のラフティングも話題を集め、スキーだけでなく一年中スポーツを楽しむ人々で賑わっている。
 そして現在、ニセコは日本でいちばん地価の上昇率が高い土地でもある。倶知安町内から車を走らせニセコ町内を巡ると、町の至るところに英語で土地を売ることを意味する〝on sale〟と書かれた看板が建てられている。オーストラリアなどからの移住者も多いのだろう、英語でレストランと書かれた看板や、ランドセルを背負った白人の子どもたちの姿もあった。昼食を取るために入ったレストランでも、メニューには日本語の表記の他に英語でも書いてあった。
 オーストラリア人がニセコに魅せられた最大の理由は、パウダースノーにあるという。それまで彼らがスキーをしようと向かう先は北米やヨーロッパだったのだが、それよりもずっと近くてパウダースノーが広がるニセコの評判は、瞬く間に口コミで広がっていった。オーストラリア人の経営する不動産会社もでき、彼の地からの旅行者向けコンドミニアムの建設が続いている。
 純粋にスキーを楽しむだけに留まらず、オーストラリア人にとってニセコは、投資の対象となっているのだ。背景には、近年のオーストラリアの好景気も影響している。資源大国であるオーストラリアは、主に中国向けの鉄鉱石輸出などで経済が好調なのだ。

 そんな、どこか日本のリゾート地とは違った雰囲気を持つニセコを後にして、白樺の森の中を走っていくとログハウスが見えてきた。名前を確認すると智子の両親が経営しているコテージだった。二階建てのログハウスは見るからに立派だ。両親が暮らすその家の前には、テレビ映像で見た、事件の現場となった智子とシュアム、そして二人の子どもであるジュヌちゃんが暮らしたログハウスがあった。
 私が車を降りると、智子の両親が出迎えてくれた。父親は贅肉が無く颯爽とした雰囲気が漂っている。一歩後ろに、朗らかな笑顔を浮かべた母親が立っていた。その様はコテージに客を迎える夫婦の姿そのものだった。事件が起きてから一カ月が過ぎたにすぎず、さぞかし憔悴しきっているだろうと思っていたが、日頃からコテージ経営という接客業をしているせいだろうか、両親の心の中の悲しみまでは、一見しただけでは察することができなかった。しかし、それゆえに気丈な両親の姿は痛々しく映った。

遺影と手作りのホームページ
 週刊誌の専属カメラマン時代から十年近く事件の取材を続けているが、取材へ行って、被害者の遺族に出迎えてもらうのは初めての経験だった。遺族への取材は拒否されることがほとんどである。そこを無理やり自宅まで押しかけたり、葬儀会場へ行ったりと、いつも相手の傷口に塩を塗り込むようなことをしてきたわけだが、今回はネパールのことについて知りたいという彼らからの希望もあり、取材を快く了承してくれたのだった。
「遠いところをわざわざありがとうございます」
 両親は深々と頭を下げた。「お忙しいところありがとうございます」と私も頭を下げる。両親が暮らすログハウスの中に入ると、木の匂いが心地よかった。お線香を上げたいと両親に伝えると、祭壇のある部屋へと通された。祭壇には、浴衣を着て笑顔を浮かべている智子と、彼女に抱えられたジュヌちゃんの写真があった。その脇に、友人や知人たちが持ってきた香典袋が束になって置かれていた。
 遺影と向き合い、手を合わせ目をつぶる。彼女の無念さを思うと、熱いものが込み上げてきた。しばらく私は手を合わせ続けた。

 北海道へ入る前、事件後も残されていた彼女とシュアムが経営していたカフェのホームページをのぞいてみた。ネパールカレーセット一一〇〇円、チャイ五〇〇円などのメニューと同時に、「シルバーアクセサリー&暖か小物」という文字の下には、シュアムが作ったであろう銀細工とネパールから仕入れたパシュミナや小物の写真がアップされていた。
 洗練されているとは言い難い、智子が作ったそのホームページからは、もう会うことは叶わない彼女の生真面目な人柄が伝わってきた。店の経営が厳しかったことも離婚の原因の一つだという報道もあったが、シュアムとの店をなんとか軌道に乗せたいという真剣な思いが感じられた。

 祭壇に飾られた智子の笑顔を見たとき、どうにかしてビジネスを成功させたいという彼女の一途な気持ち、信じていた夫に殺された無念さを思って、いたたまれなくなった。
 その後、祭壇の置かれた部屋から、天井の高い広々としたダイニングへと案内された。
 六人は座れる立派な木のテーブルの一角に私は腰かけた。テーブルから少し離れたソファーに父親が座る。母親はキッチンの中でお茶を湧かしてくれていた。
 今までどのメディアの取材に応じていない父親が私を家の中まで招き入れてくれたのは、私が十年以上にわたってネパールの取材を続け、ネパールに関する本も出版していたからだった。どうしてもネパールについて知りたいという気持ちが、そこにはあった。娘が気に入った土地であり、好きになった男もネパール人で、孫も授かった。父親にしてみれば、ネパールという国からひと時の幸せをもたらされ、後に最悪の形で裏切られたわけである。そんな国のことを知りたいと思うのは、当然の親心かもしれない。

騙されたという言葉
 事件のことやネパールのことを話す前に、父親が私の出身地を尋ねてきた。「横浜です」と答えると、「これは偶然ですね。私たちも横浜の出身なんですよ」と言った。
「横浜の人だったら、なんだか安心できるね。日本人といっても地域によっていろいろだから」
 父親は親近感を抱いてくれたようだ。
「ネパールについては、ほとんど何も知らなかったけれど、八木澤さんの本を読んでいろいろとわかりました」
 そして唐突にこう言った。
「智子は騙されたんじゃないかって思うんですよ」
 私は、返す言葉がなかった。彼が被害者の遺族であることは間違いない。最愛の娘を失ったことも事実である。ただ、結末は悲惨なものになったが、智子はシュアムのことを一時であれ愛したであろうし、だからこそ子どももできた。騙されたというひと言は、智子の人生そのものを否定してしまうような気がして、簡単には頷くことができなかった。
 取材を重ねていけば、いま父親が心に抱いている「騙された」という感情が正しいことも充分考えられる。ただ、この場ではまだ私はそう決めつけたくはなかった。
 それでも一瞬、頷くべきか、心の中で迷った。しかし、私がここで頷いてしまうと、これからおこなう取材が、すべて父親をはじめとする被害者家族の気持ちに流されてしまうような気がした。父親の心を救うといった意味で、「そうですね」という言葉をかけるべきだったのかもしれないが、だから、私はあえて聞き流した。

ネパールの不可蝕民
 私は両親が知りたがっているネパールのことに関して話をはじめた。
 彼らが私を招き入れてくれたのは、私がネパールで取材を続けていたからだけではなく、離婚してしまったが、私自身かつてネパール人の妻と暮らした経験があったからだ。
 ネパール人の妻と結婚してすぐ、言葉や生活や文化に関してある程度の知識もあった私は、妻の実家で暮らしはじめた。合計して一年ほど彼女の村に住んだことになる。結婚前から何度もネパールに通い、取材の過程で現地の村に滞在したこともあったが、彼女の親族と一緒に日々を送るとなると、また違った気遣いもあり、最後まで慣れることができなかった。私のまわりで村の人たちが笑いながら話をしていると、もしかすると自分のことを馬鹿にしているのではないか、という疑心暗鬼の気持ちまで芽生えてくるのだ。
 シュアムは日本という国に対する知識もなく、言葉もほとんどできないまま暮らしはじめたわけで、私がネパールで感じた以上の精神的な苦労はあっただろう。殺人事件を起こしたことに関しては許し難いことだ。ただ、異国で少なからぬストレスを感じていたことは間違いないはずだ。
 それともうひとつ、事件で報道された名前を見て、じつは気がついたことがあった。彼の出自に関することだ。
 ネパールでは、インドと同じようにカースト制度というものが人々の日常生活の規範となっている。カースト制度とは、簡単にいえば、民族や職業によって身分を分ける階級制度である。
 ネパールのカースト制度では、インド・アーリア系の民族が最上位のカーストでバウンと呼ばれ、その次にチェットリと呼ばれるアーリア系とモンゴロイド系の混血、三番目には我々日本人と似たような顔つきをしたモンゴロイド系の民族が位置づけられている。その下にいるのが、最下層のダリッドと呼ばれる不可触民だ。基本的には、カーストを超えて結婚することは稀で、ダリッドに対する差別は今も根強いものがある。
 ネパールでは、姓を見ればカーストは一目瞭然だ。シュアムの姓はカミで、これは鍛冶屋のカーストにあたり、死牛馬の処理をするサルキ、服の修理などをするダマイなどともに最下層のダリッドである。
 私が暮らしていたネパールの村にも、ダリッドに属するサルキ・カーストの家族が何軒かあった。彼らダリッドには、上のカーストが家の中に入ることはおろか、直接手渡しで物を渡すこともなかった。彼らは村の公共の水場も使うことができず、清潔とはいえない小川の水を飲料水として使っていた。取材のため、一度村の中のダリッドの家を訪ねると、家に戻った私に対して、妻が露骨に嫌な顔をしたことを覚えている。
 都市部ではさすがに差別は少なくなってきているといわれるが、農村部では露骨な差別が現在でも残っている。当然、シュアムもさまざまな差別を経験してきたはずであり、彼にしかわからない苦労があったろう。
 事件発生当時、警察が発表した名前からも、私には、カースト差別に対するシュアムの複雑な感情が読み取れた。彼の名前はバハドー・カミ・シュアムだという。日本の表記からいうと、バハドーが姓、シュアムが名前ということになる。しかしネパールにはこのような名前は存在しない。そもそもバハドーという表記からおかしい。バハドゥールというのが正しく、勇敢を意味するその言葉は、ネパールにおいてファミリーネームではなくミドルネームに使われる。カーストを表すカミこそがファミリーネームなのである。すなわち、正確に表記すればカミ・バハドゥール・シュアムとなる。
 彼が日本で姓をバハドー・カミと名乗っていたことは、結婚後姓が変わった智子を見ればわかる。バハドー・カミ・智子がそれだが、根本的におかしなところがある。ミドルネームは本来、姓に含まれない。さらにバハドゥールは男性に対して使われ、女性に勇敢を意味するバハドゥールを使うことは皆無といっていい。
 シュアムは自分の姓をバハドー・カミと表記することで、ダリッドである己の素性を隠そうとしていた。カースト差別の闇がシュアムの心に重くのしかかっていたことは想像に難くない。
 智子の父親にネパールのカースト制度について知っているかと尋ねると、ほとんど知らないという答えが返ってきた。そして率直に洩らすのだった。
「日本みたいにみんなが同じような顔つきをしている国にいると、なかなかわからない感覚ですね」
 この後、さらに両親と話を続けたのち、私は、ネパールにあるシュアムの故郷へ足を運ばなければいけないな、という思いを強くするのだった。

 

 

(第3回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2016年12月20日(火)掲載