写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2016.11.15

02二〇一三年の八つ墓村

 柔らかな春光を浴びた昼下がりの瀬戸内海は、微かに波だっていた。車の窓を開けると、海から陸へと微かに吹きつける海風が心地よい。山口宇部空港から車を走らせ、穏やかな景色を眺めていると、これから向かおうとしている山口県の周南市金峰で起きた殺人事件のことを、一瞬ではあるが忘れてしまう。
 山口市内を抜けると、中国自動車道は小高い山が連なる中国山地の間を縫うように延びていく。一時間ほど走って鹿野(かの)インターチェンジで下りた。中国山地は、山陰と山陽を分ける日本列島の脊梁をなしている。中国山地の南部に位置する盆地の町、周南市鹿野に入った。鹿野は金峰の隣町にあたり、事件現場の周南市金峰とともにかつては山代地方と呼ばれていた。
 江戸時代、鹿野には、長州藩の本拠地萩と瀬戸内海の岩国を結ぶ山代街道が通っていて、行き交う旅人や藩士たち、物資の集積地として賑わいをみせたという。長州藩は現在の山口県と同じ地域を支配していたが、地図を眺めてみると、山代街道は萩から鹿野、金峰を経て岩国へと、領土を斜めに横切り、その中心に鹿野や金峰のある山代地方がある。
 山代地方は、紙の産地としても知られている。江戸時代、塩、紙、米が長州藩の三白政策によって生産を奨励され、この地方で作られる紙は高品質で知られていたこともあり、長州藩の紙は全国生産量の三割を占めていた。広く知られているように長州藩は関ヶ原の戦いで西軍に属し、一二〇万石から四〇万石弱に領土を削られ深刻な財政危機に陥ったが、新田開発を進め、北前船による交易や三白政策などで財政を安定させ、幕末には実質的な経済力は一〇〇万石を超えていた。長州藩が明治維新を成し遂げることができたのも、経済力の大きさがものを言ったことは言うまでもない。
 幹線道路を走っていくと、シャッターが下りたままの商店など荒れた景色ばかりに目がいってしまうが、歴史を振り返ってみると、また違った景色が心の中に浮かび上がってくる。

ゴーストビレッジ
 鹿野の町から一路東へ、道は町を囲むように連なる小高い山々に分け入っていく。山襞の中を走る道は、車一台が通れるほどの細い山道となった。車窓から谷に目をやると、雑草の生えるにまかせたままの廃田、誰も住まなくなり、年月の重さに茅葺きの屋根が崩れてしまった家など、無残という言葉でしか形容できない荒れ果てた集落の姿が目に飛び込んできた。
 過疎化が進み、六五歳以上の年齢の住民が半分以上を占め、冠婚葬祭や年中行事などを行うことが困難になった集落を限界集落と呼ぶが、私が目にした集落の姿は、限界集落という言葉も最早当てはまらない、ゴーストビレッジとでもいうような雰囲気を漂わせていた。
 目の前に広がる山村風景が生み出されるきっかけとなったのは、戦後の高度経済成長期にある。都市へと仕事を求めて農村地帯から人々が流れ、また都市の工業地帯も人を必要とした。農村の人口は減り続け、住民たちの年齢は上がり、消滅した村も少なくない。
 日本列島を人間の体に喩えたら、東京や大阪などの大都市は、人体の中枢である心臓などの臓物であろう。一方で、過疎化が進む農村地帯は、農業などで日本を支える手足の部分である。経済が優先される中で農村は捨て置かれ、手足の中のさらに小さな毛細血管ともいうべき眼前にある集落は、この土地ばかりではなく、日本の至るところで壊死している。農村の末期的な状況が、今もじわりじわりと続いている日本社会全体の地盤沈下の要因であることは、明らかだ。限界集落という言葉は集落だけを指すのではなく、この日本という国の限界を指す言葉でもあるのだなと、目の前の風景は教えてくれる。

保見光成の暮らした家
 日本社会の現実ともいうべき姿を目にしながら、三〇分ほど走っただろうか、途中一台の車とすれ違っただけで、金峰の郷という名の集落へと入った。
 ここまで見てきた荒れた景色の延長線上に、やはりこの郷集落もある。山が迫り、その間を流れる川に沿ったわずかな土地に、民家が軒を寄せ合っている。車を下りると、せせらぎの音が耳に響く。視界には、民家や寺、公民館などが入ってくるが、どこにも人の気配を感じない。春の斜光に照らされ、白く浮かび上がったアスファルトと虹色に輝く沢の水面を眺めていると、なんだか白昼夢を見ているような気分になってくる。
 谷間に延びる集落の中間地点には、かつて徳山と集落を結んでいたバスが止まる停留所があった。バスが転回できるよう、獲物を呑み込んだ蛇の腹のように山道の幅が広くなっている。そこは、村社である金峰神社へつながる参道の起点にもなっていた。
 金峰神社への入り口の向かいには、土地の歴史を感じさせる古い日本家屋が多い集落の中で、集落の匂いとは相容れない、どこか異彩を放つ一軒の家が建っている。家のまわりには警察によって非常線が張られているが、異質さはそれだけが醸し出しているものではなかった。家自体がはらむアンバランスさが、その匂いを発しているのだった。
 家は時をまたいで増築されていて、道路沿いの細長い敷地の中にライトグレーのタイルで覆われた家屋とトタンの外壁の家屋が、壁に手の込んだ塗装が施された駐車場を挟んで並んで建っている。無理やりふたつの時代を繋ぎ合わせたような、ぎこちなさがあった。
 タイル壁の家の入り口は、トルソーと呼ばれる首と手の無い女のマネキンが置かれていて、両方の胸の前にはCDが二つ、乳房を隠すように首からかけられていた。トルソーはここに置かれて長く経つのだろうか、全体的にうっすらと苔のようなものがこびりついている。不完全な人体であるトルソーは、この家の主が、この場所で成し遂げたかったのに、成し得なかった何かを顕すものなのだろうか。私はしばし、もの言わぬトルソーと向かい合った。
 この家の主の名前は、保見光成(ほみ・こうせい)という。かつてこの集落には、八世帯一四人が暮らしていた。「暮らしていた」と過去形になるのは、殺人事件によって五人が殺され、今では六世帯八人のみが住んでいるからだ。五人を殺した犯人が保見である。

撲殺と放火
 事件が起きたのは、二〇一三年七月二一日、午後九時頃のことだった。電灯の無い集落は闇に包まれていた。保見の家の目の前を走るかつての山代街道を西の方角へ五〇メートルほど行くと、道の右側に一軒の家がある。そこには、貞森誠さん(七一歳)と喜代子さん(七二歳)が暮らしていた。貞森さん宅へ侵入した保見は二人を撲殺し、火を放った。道を自宅のほうへ引き返し、隣に住んでいた山本ミヤ子さん宅に侵入、撲殺後、同じように火を放った。
 保見による殺人は続く。日をまたいで二二日の早朝、自宅前を流れる川を挟んで対岸にある石村さん、河村さん宅へ向かった。石村文人さん(八〇歳)、河村聡子さん(七三歳)を続けて殺害。両名の家には火を放つことなく、保見は山の中へと姿を消した。
 五人の被害者は木の棒で頭を殴られ、殺害されたのだった。
 事件発生から五日後の七月二六日に、保見は郷集落の人里離れた山中で上半身裸、下着姿でいるところを警察に拘束された。

左官職人として東京へ
 犯人の保見光成は一九四九年、五人兄弟の末っ子としてこの地で生まれた。兄と三人の姉がいるが、兄はすでに亡くなっている。
 保見は中学卒業後に故郷を離れ、山口県の岩国で就職した。山深い土地に暮らしていた彼にとって、身近な都会は岩国であった。家の前を走る岩国街道が辿り着く土地であり、江戸から昭和へと時代は変われど、ここ金峰に暮らす人々にとって、岩国は地域経済の中心であった。時は六〇年代、農村の若者たちは金の卵として貴重な労働力となり、この国の経済を支えた。一方で、若者たちが流出したため、この国の農村が危機的な状況となったのは先に述べたとおりだ。
 岩国で保見は、左官職人となった。そこで数年修業すると、職人として食っていける自信を得たのか、今度は東京へ出た。品川区内で住み込みで働き、後に川崎市内に居を移している。職人としての腕は確かだったようで、仕事ぶりはよく、問題を起こすことはなかった。ただ金の支払いにはうるさく、給料を上げろと言うのは日常茶飯事で、給料の支払日をずらしただけで激昂し、社長の体にタバコの火を押しつけることもあったという。
 すぐにカッとなる暴力的な側面もあったが、麻雀が好きで、ひと付き合いも悪くなく、気さくな一面もあったそうだ。  
 唯一の趣味は車で、愛車はランドクルーザー。車内の装飾に金をかけ、時間があれば車を磨いていた。
 職人時代の保見の姿は、金への執着心など一風変わった点は見受けられるが、一匹狼の職人ということもあり、まわりから許容されていたようで、仕事に困ることなく、生活していくには困らなかった。

Uターンと村八分
 二十年以上東京で職人生活を送った保見は、四四歳のとき鹿野へ帰ってきた。岩国での生活を合わせれば、人生の大半は、ここ鹿野ではなく都会で送ってきたことになる。田舎暮らしやUターンが注目を集める昨今の、いわば先駈けともいうべき存在でもあった。
 Uターンの理由は、実父の介護だった。体調を崩していた父親のため、病院への送り迎えから日常の介護まで労を厭わなかった。保見の姿は孝行息子そのものだった。両親ばかりでなく、村の集まりにも顔を出し、高齢者ばかりの村の中で、手が空いていれば農作業を手伝い、限界集落を何とかしようと、村おこしも企画し、積極的に村人たちと関わっていった。
 ところが、人間の心理とはひと筋縄ではいかないもので、Uターンをして村に溶け込もうと努力していた保見のことを快く思わない者がいたのも事実である。事件が起きる十年ほど前には、酒席で保見が被害者として斬りつけられるというトラブルが発生していた。狭い地区ゆえに、すぐに誰の耳にも入ったが、保見は事を荒げることなく、詳しい経緯については黙して語らなかった。
「この村で生まれ、育ったとはいえ、長い間都会にいた人間でしょう。やっぱり村の人からみたら、よそ者なんですよ。そんな人が、突然帰ってきて、村のことに口出しても、気分よく思わない人もおったでしょう」
 酒席のトラブルについて、金峰に暮らす八〇代の男性が言う。保見としては、良かれと思っていたことが、村人からしてみれば、余計なお世話だったのだろう。
 二〇〇二年に母親が亡くなり、その数年後に父親も逝くと、保見と村人たちの軋轢は深まるばかりだった。集落の中で孤立し、村八分の状態となってしまった。
 村の中で孤立していった時期、家の周囲にトルソーなどのオブジェを置いたり、「つけ火して煙よろこぶ田舎者」などのメッセージを窓に貼ったりするようになる。誰も理解者のいない村の中で、これらは保見の心の叫び以外の何物でもなかった。
 暴発への序曲が山間の村に響きはじめていた。

津山事件との相似
 事件の背景には人間関係において逃げ場の無い村社会の閉鎖性がある。まさにそれは、今から約八十年前に発生した津山事件を彷彿とさせる。
 犯人の都井睦夫(とい・むつお)は、岡山県の北端、鳥取県の県境にある倉見という土地で生まれた。私は今から十年ほど前、都井の生家や事件の起きた貝尾集落を訪ねたことがある。
 鳥取市内からレンタカーで、生家のあった倉見へと向かった。村へと続く山道は、杉林に覆われ、過疎化で手が入っておらず、か細くなった杉の幹が山村の衰退を物語っていた。
 中国山地の脊梁部にある村だけに、集落の両端に山は迫っていたが、谷は広々としていた。今でも水田は維持され、ここ倉見は米どころとしても知られている。
 集落には、都井睦夫の墓があった。墓には、近くを流れる倉見川から拾ってきたと思われる漬け物石のような石がひとつ置かれているだけで、名も戒名も記されていない。墓には、誰が手向けたのか花が置かれていた。睦夫の墓の隣には、睦夫が幼いときに相次いで亡くなった両親の墓があった。この土地では、墓は村の一ヶ所に集められるのではなく、家ごとに持つのが習慣だという。
 墓からほど近い場所には、都井睦夫の生家がある。今でも立派な藁葺き屋根が残っているが、住む人はいない。家の裏側に回ってみると、藁葺き屋根が崩れかけ、ビニールシートがかけてあった。
 かつては、茅葺き屋根の葺き替えや田植えなどの作業は、集落に暮らす人々が、共同で助け合っていたというが、村人たちはここでも都市へと吸収されていき、葺き替える者はすでに誰もいない。家の周囲に生えている、茅に利用されたススキが、斜光を浴びてガラスのように光っていた。
 家の脇には樹齢二百年になるという大きな檜の樹が立っていた。おそらく都井睦夫もこの木のまわりで遊んだことだろう。限界集落となった村では、この檜で遊ぶ子はおろか、子どもの声も聞こえない。聞こえてくるのは、村の中を吹き抜ける風の音だけだ。
 墓を参ってから生家の正面に出ると、家の前にある畑に、頬かむりをした老婆の姿があった。腰を曲げ、鍬を使って土を耕している。
「こんにちは」
 声を掛けると、老婆は作業の手を休めて、振り返った。私は、事件の取材で来たことを告げた。彼女はそうした者たちの訪問には馴れているのだろう。特に拒絶する素振りを見せることなく、話に応じてくれた。彼女は睦夫の従兄弟に嫁いだ親族だった。
「私ゃあ、睦ちゃんとは会ったことはのうて、話を聞いただけじゃけど、尋常小学校のときには、ずーっと級長をやって、優秀だったって聞いておるよ。ここには小学校五年までおったんじゃ」
 老婆は、都井のことを親しげに睦ちゃんと呼んだ。都井は、二歳のときに父親、三歳のときに母親を相次いで亡くす。両親の死因は、当時不治の病であった結核だった。後に結核は都井自身を蝕むのだが、おそらく彼には両親から移ったのだろう。
 都井家は、ここ倉見で代々続く名家だった。江戸時代には庄屋を務めるなど、経済的にも豊かであった。しかし、両親を失い、肉親は姉だけになってしまった都井は、祖母に引き取られることになった。その理由は、町の学校でしっかりとした教育を受けさせたいという祖母の意向ともいわれているが、本家筋であった睦夫の父親が亡くなり、家は父親の弟が継いだことから、相続を巡って何らかの問題があった可能性も否定はできない。
「そこまでは、私ゃあ知らんなぁ。睦ちゃんが出ていったのは、私が来る前のことだけぇ」
 睦夫が出ていった理由に関しては、嫁ぐ前のことなので何も聞かされていないという。もし知っていたとしても、自身の親族が関わっていることだけに、一見の私に話すことはないだろう。

夜這いの風習
 倉見を出た睦夫は、ひとまず祖母の郷里である津山市内で過ごす。その後事件を起こした貝尾へと移り、姉と祖母の三人で暮らした。祖母は睦夫のことを溺愛し、雨の日には学校を休ませるなど、目をかけて育てた。
 小学校を成績優秀で卒業し、学校の先生も睦夫も津山市中心部にある中学校に通うことを望んだが、祖母はそれを拒んだ。可愛い孫を常に自分の目の見えるところに置いておきたかったのだった。祖母の一方的な愛情が睦夫の自立心を奪い、人格形成にも影響を及ぼしたことは想像に難くない。過保護に育てられたことによって自尊心が強くなり、他者に対する配慮は欠如し、攻撃的な精神状態を生み出すことになった。
 親の遺産を相続し、経済的にも恵まれていた睦夫は、戦前まで全国の農村で普通に見られた夜這いに精を出すようになった。日本の農村ではかつて、性に対しては開放的で、夜這いが盛んであったことから、夫と血の繋がりのない子を妻が産み、それを家族の一員として育てることもタブーではなかった。
 万葉集にもこのような歌がある。
 他国によばひに行きて大刀が緒も
   いまだ解かねばさ夜そ明けにける
 遠くの土地に夜這いに行ったが、太刀の緒を解かないうちに夜が明けてしまったという意味になる。夜這いは、近郊の村を訪ねるのが普通のことであったが、馴れぬ土地まで足を延ばしてしまったことから、疲れて寝てしまい、事を為さずに夜が明けてしまった――。庶民の笑いを誘う歌でもあり、この歌からも、千年以上にわたって夜這いが人々の生活の一部であったことがうかがえる。
 夜這いは、古代において世界各地にみられた母系社会の名残でもある。結婚しても妻のもとに通う「妻問い婚」が、平安時代くらいまでは一般的であった。生まれた子どもは妻が育て、女が独自に財産を持つことも許されていた。そうした社会と対極にあったのは、家と血筋を重んじる武家社会である。
 娯楽の無い農村地帯では、夜這いは農民たちにとって、辛い日々の労働を忘れさせる唯一の娯楽といってもよかったが、明治時代に入ると状況が変わってきた。近代化しなければならないという旗印の下、西洋諸国にならって富国強兵の道を突き進んだことに一因がある。
 江戸時代までの農村では、家という意識は薄かった。農村という共同体が、村の子どもたちに教育を施し、田畑の管理をした。血縁に重きを置いていたのは、家を守らなければならない武士であった。人口比率で武士は一〇パーセントに満たず、家を中心とした今日のような考え方は、むしろ一般的ではなかった。
 武家文化である家の意識が庶民の間に広まるのは、明治になってからである。明治政府は父権を強化し、姓を持たせることにより一つの家族を意識させ、その集合体が集落となり、その延長線上に天皇があるという国家像を描いた。戸籍制度を充実させ、税金を徴収し、兵役の義務を課した。そのためには、誰が親だかわからないような状態を生み出す農村の乱れた性風俗は改める必要があったのだ。
 しかし、睦夫が生まれ育った戦前の農村では、明治政府が因習だと改めさせようとしても、一朝一夕に夜這いの風習は消えていなかった。

三二人を殺害
 睦夫は色白であり、また親の遺産を相続し金にも困っていなかったことから、村の女たちにはたいそうもてたという。何人もの女たちと関係を持ち、毎日のように夫がいる女性のもとへ通い詰めた。夫が激怒し、村の人間が仲裁に入って間を取り持つこともあった。
 睦夫の人生に暗い影が差しはじめるのは、一九三七年、徴兵検査で丙種合格とされたことがきっかけだった。当時、丙種合格とは、一応兵士ではあるが戦場に送り込まれることはなかった。不合格と同義であり、男としての価値を下げるものだったのだ。
 丙種合格を境にして、村の女たちから避けられるようになっていく。さらに、睦夫の両親が結核で亡くなったことも村人たちの知るところとなり、睦夫も結核を患っていたことから、ますます村での立場は弱くなった。
 今では結核は不治の病ではないが、当時は薬もなく、転地療養するか栄養をつけるしかなかった。結核に感染した患者の九割は、為す術もなく死んでいった。結核が空気感染することも知られておらず、遺伝するものと誤解されていたため、親子で結核を患った家は労咳(ろうがい)筋と呼ばれ、結婚を避けられることも珍しくなかった。
 丙種合格のため戦時下にもかかわらず国の役に立てず、さらには結核を患っていたことで村の中でも睦夫は、追いつめられていったのだった。
 一九三八年五月二一日未明、睦夫はかねてから準備していた猟銃と日本刀で、恨みを持っていた夜這い相手の女の家など、村の家々を襲い、三二人を殺害した。
 庄屋の跡取りであった睦夫は、倉見を離れると、転げ落ちるように破滅への道を突き進んでいった。
 人生に、もしという仮定をしても虚しさが募るばかりだが、睦夫の両親が早く死ぬことなく健在であったなら、津山事件は起ることはなく、ここ倉見で墓標もない墓に葬られることもなかっただろう。そして、私もこの土地を訪ねることはなかった。
 目の前にいる老婆がふっと洩らした。
「睦ちゃんはかわいそうじゃったな」
 今も生きている、殺された村人たちの遺族からしてみれば、睦夫は鬼畜以外の何者でもないだろう。ふらりとこの土地を訪ねた私のような者も、睦夫の犯罪には、おぞましさしか感じない。しかし、その人生を一歩引いて眺めてみると、彼ばかりに罪をなすりつけることはできないと心から思う。
「そうですね。かわいそうですね」
 老婆の言に同意しながら、私もそう呟いていた。

新たな「八つ墓村」を訪ねて
 その津山三二人殺しから七五年後、同じ中国山地に抱かれた山口県の山村で、村人たちに恨みを持った男が起こした事件が、山口県周南市金峰で起きた連続殺人事件だった。被害者の数には大きな違いがあるが、二つの事件がともに村落、人間関係の歪みから生じたことでは同様である。
 津山事件と相通ずる山口県の現場を歩いてみることにしよう。
 事件を起こした保見の家の隣は、殺害された山本さんの家だったのだが、今では更地となっている。道路標識のポールの根元に、誰が手向けたのか花が供えられていたが、年月の経過によって茶色く枯れていた。
 さらに歩いていくと、貞森さん宅のあった場所に着いた。焼け焦げた材木が今も家のあった場所にそのままになっていた。そこから保見の家の方角へ戻り、さらに五分ほど歩いただろうか、川沿いに建つ石村さんの家に着いた。当然だが人の姿は無い。集落に入ってから、人の姿を見ることはなく、変わらず川のせせらぎの音だけが響いてくる。次に、河村さんの家へと歩いていると、川沿いの畑にひとりの男の姿があった。集落に入って初めて見る人の姿だった。道路端にある幅三メートルほどの狭い畑には、赤い唐辛子が植えられていて、男はそれを収穫しているようだった。
「こんにちは、唐辛子を収穫しているんですか?」
 いきなり事件の話をするのも如何なものかと思い、まずは雑談から入った。そんな気遣いをしたところで、この集落で見慣れない人間はほぼ取材者しかいないだろうから、あまり意味をなさないかとも思ったが、あえて農作物について話を振った。
「最近は、イノシシや猿がようけ出てきて、食ってしまうから、まともな野菜は植えておけんのよ。やつらもさすがにこればかりは食わんのじゃ」
 男の声はか細く、沢の音に消え入りそうだった。人より獣が多いこの集落では、農作物を作ったところで、獣のためにあたえているようなもので、それならば、あまり用途は無いが唐辛子の栽培でも、畑を遊ばせておくよりはまし、ということなのだ。
 それこそ、何百人と私のような取材者が訪ねてきたはずだ。男は私が何者だかとっくに気がついていただろうが、私は取材に来たと告げ、保見についてどう思うのか尋ねてみた。
「もうええじゃろ、何も話すことはないんだよ」
 事件のことに触れると、ますます声は小さくなった。
「ご迷惑かと思いますが、ぜひとも話を聞きたいんです」
「あんたらに話しても、何にもならん」
 確かにその通りで返す言葉もないが、私は個人的な興味と、山村における事件の真相を知りたいがために、しばし食い下がった。
「村八分だとかいわれていますが、本当のところはどうなんでしょうか。村の人から話を聞きたいんです」
 男は、しばし間を置いてから、ぽつりと洩らした。
「嫁さんが殺されたんだよ」
 男は殺された河村聡子さんの夫だった。
「事件が起きて、加害者が村八分にされておって、事件を起こしただ、いろんなマスコミが来ては、みんな好き勝手なことを書いているだろう。事件を起こした人間の肩を持ちすぎなんだよぉ。村の仕事を人一倍手伝ったなんて書いてあるけど、誰ともそんな付き合いはしておらんよ。あそこの家は土地も持っておらんかったし、農作業なんてしとらん。そもそもあそこのオヤジというのが、ここから少し離れた水上というところから出てきて、まともに仕事をしない、のうてだった。子どもがようけおったから食うに困って、人んところの米を盗んだりして、ろくなもんじゃなかったんだよ」
 のうてとはこの地方の方言で、怠け者を意味する。保見の一家は、水上という集落から郷集落へとやってきたものの、一部の村人との間にトラブルが発生していたというのだ。一家は集落の新参者であった。ちなみに、亡くなった貞森さんや河村さんは代々この集落で暮らしてきた。
 同じ村の中とはいえ、家によって立場の違いは当然ある。さらに村での取材を続けていくと、私は、千年以上前から続く村の歴史と事件との繋がりを知ることになった。

 

 

(第2回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2016年11月30日(水)掲載