写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2017.2.24

06東京ノースエンドと結界の悲しみ

 鈍い銀色をした東武線が北千住の駅を出る。窓から景色に目をやると、河川敷に広がる少年野球場の向こうに茶色い水をたたえた荒川が見えてくる。普段は流れているのかどうかすらわからないほど緩慢な荒川が、数日前の大雨の影響で、この日ばかりはその名の通り暴れ川になっていた。荒川の向こうに、東武電車と同じような色をしたいかつい建物が見えてきた。東京小菅拘置所だ。
 電車に揺られながら、この川は精神的な意味での“国境”だなと思う。小菅拘置所がある場所は北千住と同じく足立区なのだが、その存在感は「東京の川向こうと」いう空気を否が応にも感じさせる。私は、その小菅拘置所のある川向こうへと向かっていた。
 私が暮らしている足立区は埼玉県と隣接する東京の北の外れ、文字通りノースエンドである。高架の上を走る電車で吊革につかまりながら窓の外に目をやると、関東平野がはじまる平たい土地にべったりとへばりついた一軒家やマンション、木造アパート群が、奔流のように視界へ流れ込んでくる。
 今では住宅密集地となったこの土地も、つい数十年前は人家もまばらな田園地帯であり、さらにさかのぼれば水田すらない葦の原で、何の生産性もない不毛な土地だった。さらに縄文時代まで時代を巻き戻せば、海の中だった。この土地の様相は常に目まぐるしく変化し続けているわけだ。いま目の前に広がっている光景も、時の流れのなかでは幻のようなものにすぎない。それを眺めている私なんぞは、とてつもなくちっぽけな存在で、いわばミジンコのようなものだ。いや、それ以下かもしれない。

足立区竹ノ塚という町

 人生とは儚いものにもかかわらず、人の世というのはややこしいもので、何かにつけて序列がある。足立区は同じ東京の中でも、やれ生活レベルが低いだの、犯罪が多いだの、さまざまな悪口を耳にする。確かに家の近所の公園でレイプ事件が発生したりと、お世辞にも治安が良いとは言えない。絶えず、どこからか人が流れこんでくることが理由の一端だろう。そうした人間のうちの一人が私であり、フィリピン人や中国人といったアジア圏の人々である。ひと昔前には、日本の地方から人が流れてきた。
 ここで事件が起きるのは、土地が積み重ねてきた歴史と東京の郊外にあるということが、引き金になっている。その理由をこれから説きほぐしていきたい。
 自宅の最寄り駅は東武伊勢崎線の竹ノ塚駅で、電車を下りてから五分も歩かないところにフィリピン人の女たちが働くナイトクラブが軒を連ねている。
 もともと横浜に暮らしていたのが、一身上の都合により、ここ竹ノ塚へと引っ越してきた。要は離婚し、再婚したのだ。それについては、また後に触れることもあるだろう。 
 ここに住む前に初めて竹ノ塚を訪れたのは、二〇〇三年のことだ。写真週刊誌のカメラマンをしていた私は、草加市内の神社でおこなわれていた夏祭りで女子高生が連れ去られ、その数日後に茨城県五霞町(ごかまち)で遺体となって発見された事件の取材にきていた。殺害された女子高生は、竹ノ塚に暮らしていた。今もそのマンションを通り過ぎるたびに、心のなかにもやもやとした思いがたちこめる。いまだ犯人は捕まらず、迷宮入りのままなのだ。彼女の父親はヨルダン人で、母親は日本人だった。

草加で消え、茨城に遺棄された女子高生

 彼女が連れ去られたのは草加市にある瀬崎浅間神社付近だ。
 神社の目の前を走るのは、江戸と奥州を結んだ奥州街道。周囲は住宅街となっているが、江戸時代初期に街道が整備されるまでは低湿地にすぎず、人の営みは稀薄であった。このあたりの地図を眺めてみると、南に毛長川が、東に綾瀬川が流れている。今では護岸工事が施され、お行儀のいい水面の綾瀬川だが、かつては流路が頻繁に変わったことから「あやしの川」と呼ばれ、それが綾瀬川の語源となった。瀬崎神社周辺に集落が築かれるのも、江戸時代の街道整備と新田開発を待たなければならなかった。
 瀬崎浅間神社がいつ祀られたのかは、神社の由緒書きにも定かではないと記されているが、江戸初期の明暦年間に、ほかの地にあったものが移されたのだという。浅間神社は、富士信仰と密接な繋がりがあり、瀬崎浅間神社の境内にも溶岩で築かれたミニチュアの富士山、富士塚がある。江戸以前の戦乱が落ち着き、諸街道の整備が進むと、富士信仰は庶民の間で盛んになった。信仰の歴史と、江戸時代以降に開発が進んだ土地の歴史を考えれば、明暦年間にこの地に社が鎮座したことにも納得がいく。
 この瀬崎神社では毎年七月、第一週の日曜日に祭りがおこなわれる。土曜日から多くの屋台が出て、神社の周辺はたいそうな賑わいを見せるのだ。
 二〇〇三年七月六日もまた、翌日の本祭を控え、夜祭りを楽しむ多くの人々の姿があった。
 その日、高校一年生の佐藤麻衣さんは、昼過ぎに竹ノ塚にある自宅を出た。家族には、午後八時には帰ると告げた。草加市内でバイト先の同僚と昼食を取ったあと、東武伊勢崎線で草加駅から新越谷駅に出かけ洋服などを購入。新越谷に六時頃まで滞在し、夕食を済ませてから、上り電車に乗って瀬崎浅間神社の最寄り駅、谷塚駅で下りた。夏祭りの会場で中学校時代の同級生と待ち合わせをしていたが、相手の都合がつかなくなり、ひとり祭りの会場にいた。その後、かき氷の屋台でアルバイトをしていた一七歳の女性と意気投合し、佐藤さんは客の呼び込みなどをして、屋台を手伝った。午後九時過ぎに一本の電話が掛かってきて、会話を終えた彼女は屋台を後にする。
 最後にその姿が目撃されたのは、谷塚駅前のコンビニだった。入り口近くに腰掛け、飲み物を片手に誰かを待っているような風情だった。
 その三日後、彼女は変わり果てた姿となり、茨城県五霞町を流れる用水路で発見された。服装は、行方不明となった日に越谷市内の洋服店で購入した上下とも黒いスポーツウエアタイプのもので、靴は履いていなかった。携帯電話や財布、腕時計など所持品はひとつも見つかっていない。白い靴下が汚れていないことから、室内など別の場所で殺され、車で運ばれ、捨てられたとみられている。司法解剖の結果、死因は、首を紐のようなもので絞められたことによる窒息死。のど元付近に強い打撃あるいは圧迫を受けたあざ、胸を素手で殴られたような痕もあった。手の爪に抵抗を試みて何かをひっかいた痕跡もなかったことから、のど元付近を不意打ちで絞められた可能性が高いとされた。
 気に掛かるのは、抵抗した痕跡がないという事実だ。通りすがりの男に目をつけられ、衝動的に車へ連れ込まれたのか、それとも以前から面識のあった男の車に乗ったのか、二つの可能性が考えられる。必然的に、捜査の対象は広くならざるを得なかった。

ヨルダン人の父親の憤り

 事件発生から数日後、被害者の佐藤麻衣さん(当時一五歳)が暮らしていたマンションを訪ねると、マンションの入り口でばったりと彼女の父親と遭遇した。ヨルダン人である麻衣さんの父親は、涙をためた真っ赤な目で、私に訴えた。
「何しにきた、帰れ。日本人に娘を殺された気持ちなどわからない。日本で俺たち外国人が暮らすのがどんなに大変かわかるか?」
 娘を失ってまだ日の浅い父親は興奮気味にまくし立てた。彼の言葉には、愛する娘が消えた悲しみと、日本社会に対する怒りが込められていた。長い日本暮らしで溜まった鬱憤が、娘の死で一気に吹き出しているようにも思えた。彼がどのような人生を日本で歩んできたのか知る由もなかったが、私自身外国で世帯をもち、しばらく暮らした経験があるので、母国で暮らすのとは違った精神的な圧迫感があろうことは十分に理解できる。
 中東出身の父親の血を受け継いだ麻衣さんは目鼻立ちのくっきりとしたハーフの美人で、友達からも好かれていたという。異国の地で苦労しながら育てあげた、そんな最愛の娘を複雑な感情を抱いている日本に暮らす何者かによって屠られた。
 ヨルダンは言わずと知れたイスラム教徒の国である。かつて二度ほど彼の地を訪ね、一ヶ月ほど首都アンマンに滞在したことがある。アラブ人ばかりの街を日本人の私が歩いていると、スーパーで物を買うにも、食堂で飯を食らうにも、日本では経験することのない他者からの強い視線を日々感じたものだ。旅行者であれば、そんな異空間もひとときの刺激に過ぎないだろうが、その土地で暮らし、日々無遠慮な視線に晒され続けていると、心の中に澱のように疲れが溜まってくる。麻衣さんの父親も、逆に日本ではそうだったのではないか。単身で生活していれば、日本社会との接点も少なかろうが、娘をもち、社会との接点が増えれば増えるほど、ストレスは大きくなっていったにちがいない。 
 人生とはわからないものだ。あのときの父親との出会いから十年以上が過ぎ、私は竹ノ塚に暮らすようになった。自宅から開かずの踏み切りを渡ると、麻衣さんが暮らし、父親が私に心情を吐露したマンションが見えてくる。彼女の家族はもうこの土地には暮らしていないようだが、通りかかるたびに彼らが日常を送っていたこの建物をしばし眺めている自分がいた。もし彼女が生きていたら、すでに子どもを産み、家庭を築いていてもおかしくない年齢だ。

奥州街道を北上し、死体遺棄現場へ

 あの夜、麻衣さんを連れ去り殺害した者の行方はいまだ杳として知れない。浅間神社の目の前を通る旧国道四号線(県道四九号線)は、元をたどれば松尾芭蕉が歩いた奥州街道である。犯人はこの道を北上し、利根川を横断する手前の茨城県五霞町で彼女の遺体を遺棄した。
 犯人の足跡をたどって、浅間神社から旧国道四号線を車で北へと走った。越谷のせんげん台で現在の国道四号線と合流するのだが、道の両脇にはホームセンターやチェーンの飲食店が建ち並び、郊外の幹線道路によく見られる既視感のある光景が続く。どこまでも起伏のないまったりとした道を走っていると、気分までのっぺりとしたものになってくる。今から四百年近く前、この辺りを歩いた松尾芭蕉は『おくのほそ道』にこう記している。

 その日漸草加と云宿にたどり着けり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。

 荷物が重たいつらさを記しただけで、景色に関する記述は何もない。単調な風景は、彼の心を揺さぶることはなかったようだ。
 遺棄現場が近づくにつれて飲食チェーンやホームセンターもなくなっていき、道の両側には水田が広がりはじめた。
 浅間神社を出てから一時間半ほど走っただろうか、茨城県五霞町にたどり着いた。町は利根川、権現堂川、中川に東西南北を囲まれていて、地図で見るとよくわかるのだが、巨大な中州になっている。この町の北を流れる利根川沿いの用水路に、麻衣さんの死体は遺棄された。

利根川という名の結界を越えて

 利根川は幕府の東遷事業によって流路が変えられるまで、東京湾に注いでいた。江戸の町は、隅田川、荒川、渡良瀬川、利根川と複数の河川が流れ込むため、常に洪水の危機に晒されていた。そこで江戸を洪水被害から守るために、利根川が流路を変えられることになった。五霞町の北側に赤堀川が一六二一年開削され、三〇年にわたる土木事業の後、利根川と結ばれたのだ。それにより利根川は五霞町の北を流れるようになった。現在の利根川は関東平野の真ん中を突き抜けるようにして流れ、千葉県銚子の太平洋へと注いでいるが、そうなったのは、江戸時代初期のことなのだ。利根川の治水事業は洪水対策と同時に、江戸を仙台藩の伊達政宗など外様大名からの攻撃に備える防壁の役割もあった。利根川が流れる五霞町は江戸、東京の巨大な外堀であり、がゆえに、名実ともに東京最北の地、ノースエンドの位置を占めることになったのだった。
 一方で、利根川の東遷は、江戸を洪水から守るためでなく、経済には好影響を及ぼした。江戸と東北を結ぶ水運の大動脈として機能した一面もあった。利根川には河岸と呼ばれる湊がつくられ、物資を運ぶ流通拠点として機能、繁栄したのだった。利根川は厄災をもたらす一方で、江戸の経済を支える命綱でもあった。

 しかし。利根川が流れを変えられてから、記録に残っているだけで五霞町は一三〇年の間に三〇回も洪水に襲われている。江戸や東京を守るために犠牲となったのが五霞町の人々だったのだ。五霞町と隣接する埼玉県幸手市の権現堂には、権現堂堤と呼ばれる堤防がある。氾濫した利根川の水が江戸を襲わないよう築かれたものだ。幕府は折に触れ補強工事を施したり、水防見廻役を任命するなどして、洪水への警戒を怠らなかったが、それでも実際に権現堂堤が決壊した記録が残っている。
 一八〇二年の大洪水で堤は決壊し、江戸まで大水が押し寄せた。その大洪水の際、巡礼の母と娘が人身御供となったという。洪水を起こしている龍神の怒りを鎮めるには、人柱を立てるしかないと考えた村人たちは、たまたまこの地を通りかかった巡礼の母と娘を強引に連れ出し、川に投げ込んだ。その後洪水はおさまり、彼女たちを弔うために、堤には桜が植えられたのだという。そして、今でも権現堤は桜の名所だ。巡礼の母と娘は、身をもって村を救っただけでなく、江戸を守ったともいえる。

 そんな哀しい伝承が残るほどの暴れ川であり、関東平野を南北に分ける境界線でもある利根川。足立区竹ノ塚という二三区のノースエンドに暮らし、その目と鼻の先で連れ去られた少女は、この川の防波堤脇にある用水路に、何者かによって遺棄された。
 堤防がどこまでも続いているため、人々の視界に川の姿は入らないが、堤防の上にあがると河川敷の向こうに利根川の流れが見える。川の流れまでは少しばかり距離がある。一見すると、堤防を越えた、雑草などが生い茂る河川敷に遺体を遺棄したほうが、発見までは時間を要すると思うが、犯人は堤防を越えることなく、堤防手前の用水路に遺体を遺棄した。
 その行動から伺えるのは、堤防と川というものが心理的にも視覚的にも結界の役割を果たしているということである。おそらく犯人は、利根川の向こうに暮らす人間なのではないか、とその風景を見ながら私は思った。この堤防と利根川は、たしかに大都市東京を囲む大きな塀だ。だが同時に、ノースエンドの対岸に暮らす者からすれば、彼らにとっての塀でもある。不法に粗大ゴミなどを投棄をする者は決まって、己の目につかない場所に遺棄するものだ。利根川の向こうに暮らす犯人は、己の日常世界ではなく、非日常である利根川の向こう、東京側に遺体を棄てたのではないか。
 被害者の麻衣さんが暮らした足立区の景色を思い出す。北千住から荒川を渡った右手には、ネズミ色の東京拘置所がそびえている。東京の中心部からすれば、罪を犯して捕われ、償う者たちが暮らす楼閣は川の向こうにある。犯罪者は、平和な日常を送る者の目には穢れた存在だ。穢れた者たちは、結界の外へ追い出さなくてはならない。北千住の町外れを流れる荒川は、五霞町における利根川と同じように、東京の中心部と外縁部を分け隔てる結界の役割をなしているといえよう。
 茨城県の市町村は、五霞町を除いて、みな利根川の北岸に位置している。五霞町だけが南岸にあるのだ。立ち消えになったが、かつて埼玉県の幸手市に合併するという話もあったほどで、茨城県の中でも地理的にもっとも東京圏に近いイメージが強い、一風変わった土地柄なのだ。
 時代をさかのぼれば、五霞町は江戸時代、利根川と江戸川の分岐点関宿を治めていた関宿藩の所領内にあった。関宿藩は明治維新の際、幕府と新政府のどちらを支持するかで藩論が割れた。結果からいえば、彰義隊に参加する者が現れて佐幕派とみなされた関宿藩は、明治維新後五〇〇〇石を減封され、その後の廃藩置県によって消滅した。このため、関宿藩領だった村々は、あらたに誕生した埼玉、茨城、千葉県にまたがって位置する格好となった。
 行政区分にこのような複雑な影が落ちる土地、それが五霞町なのである。

懸賞金をかけた管轄の警察署

 事件の捜査を担当する茨城県境町にある境警察署は、利根川を渡った対岸にあった。
 もともと境は、今では千葉県に位置する関宿藩の領地だったが、明治時代に茨城県に組み込まれた歴史がある。江戸時代には、利根川を行き交う水運で賑わい、境河岸という川湊があった。この地で収穫された年貢米などが、水深が浅くても航行できる高瀬舟によって江戸へ運ばれた。江戸から戻る際には、江戸川の河口、行徳の塩田でつくられた塩などが運ばれ、ここで荷揚げされ、さらに馬子たちによって中山道を通って北関東周辺や越後の山間部、長野などへと運ばれていった。境から江戸には、今でいう夜行バスならぬ夜船が出ていて、夜半に境河岸を出ると朝には江戸に着けたため、江戸時代から明治初頭にかけて旅人たちに大いに利用された。おかげで江戸へと繋がる奥州街道を利用する旅人が減り、宿場町からは夜船を規制するように願いが出されるほどだったという。
 しかし、鉄道や道路網の発達によって、往事の面影は今やどこにもない。田園の中に郊外型のファミリーレストランが軒を連ねる、この地域では見慣れた景色が広がるばかりである。
 警察署の正面入り口、誰もが目にするであろう場所に、麻衣さん殺害事件の情報提供を求めるビラが貼られていた。
 窓口でしばらく待たされたあと部屋に通され、副署長が座る対面ソファに腰を下ろした。
「あなたは記者クラブの人間なの?」
 いきなり現れた私に怪訝そうな色を見せる副署長だったが、かまわず捜査状況について単刀直入に尋ねてみた。
「有力な情報は、これまでのところ集まってないんですよ。なんとか情報をつかもうと、三〇〇万円の懸賞金を出しているのですが、これという手掛かりがないのが現状です」
 訥々と渋い表情で語る。麻衣さんの事件の翌年には、同じく女子高生の平田恵理名さんが殺害される事件も境署管内で発生している。恵理名さんの死体は、麻衣さんの殺害現場から一五キロメートルほど離れた、やはり利根川沿いの用水路脇で発見された。この二つの事件は、同一犯によるものと考えられるのだろうか。
「二つの事件に関連性はないと思います」
 麻衣さんの事件には捜査員一〇人を投入して、いまも捜査が続けられているというが、副署長の話を聞くかぎり、事件解決の糸口は見えてこない。
「情報が命なんです」
 懸賞金を出しているにもかかわらず埒が明かない状況に苛立ちもあるのだろう、副署長は絞り出すようにそう呟いた。

綾瀬で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」

 東京足立区で起きた有名な事件といえば、まず一九八八年の女子高生コンクリート詰め殺人事件が思い浮かぶ。犯人の男たちは、自分たちの暮らす足立区から荒川を渡り、海っぺりの埋立地に遺体を遺棄した。男たちにとって“穢れた”死体を己のテリトリーから運び出し、川という結界を越えた場所に打ち捨てたのだ。
 事件のあらましはこうである。アルバイトを終え自転車で帰宅途中だった女子高生のFさんを少年らが拉致し強姦したうえ、溜まり場であった少年C宅の二階に監禁。その後四〇日間にわたって、集団で強姦および暴行。食事すら満足にあたえず、一階に暮らすCの両親に犯行を悟られないようトイレにも行かせず部屋で用を足させるなど、虐待の限りを尽くした。しまいには、たび重なる暴行と栄養失調で衰弱しきったFさんは死亡。少年らはドラム缶に遺体を入れ、コンクリートを流し込んで密閉し、遺棄した。史上最悪のひとつといってもいい少年犯罪だ。
 この事件で逮捕されたのは、少年A(当時一八歳)、少年B(同一七歳)、少年C(同一六歳)、少年D(同一七歳)の四名。すでに全員が刑期を終えて出所している。少年Bこと神作譲(かみさく・じょう)は出所後、逮捕監禁致傷で再び逮捕され、二〇〇五年に懲役四年の判決を受けたが、現在はすで出所している。神作受刑者はコンクリ殺人事件の刑期を終えた後、コンピューター会社に勤務したが長続きせず、暴力団事務所にも出入りし、周囲に自分はコンクリ殺人事件の犯人であると吹聴していたという。

住宅街のもとを作った没落武家の浪人たち

 事件の現場となった足立区綾瀬を歩いてみることにした。綾瀬駅で降り、現場となった家へと向かう。商店街を抜けて住宅街の中を進んでいくと、突然視界にラブホテルが現れた。その横には子どもたちが遊ぶ児童公園。さらに歩いていくと民家の壁に“〇〇殺す”と暴走族による落書きがあった。そんなザラついた風景の中を歩いていくと、Cの家があった住宅街の一角に出た。すぐ前には公園があり、小さな子どもたちの元気な声が聞こえる。彼らを見守る母親の年齢は二〇代だろうか。もしかしたら、事件のことは知らないのかもしれない、とふと考えた。
 Cの家は建て直されていたが、事件当時、少年たちが玄関を使わず直接二階から出入りするために使っていた電柱は、いまも家に寄り添うように残っていた。
「うちは昭和四七(一九七二)年にこのあたりの分譲住宅を買ったんです。四月に入居して、その一ヶ月か二ヶ月後にあの一家が移ってきました。あそこの家は当時の値段で一二〇〇万円ぐらいだったと思いますよ」
 言葉の端々に東北訛りが残る近所の住民が、C一家がこの土地へやってきた頃のことを覚えていた。
 昭和三〇年代に急速に宅地化が進むまで、事件の起きた綾瀬を含む足立区一帯は農村地帯だった。江戸時代以前は、葦や葭が生えるヤッカラと呼ばれる湿地であった。当然、住む者などいない荒れ地だったのだが、家康が江戸に入府すると、江戸の外れであったこの地に、戦に敗れた北条家や武田家、織田家などの浪人、さらには取り締まりから逃れた隠れキリシタンなどが住み着くようになった。
 江戸幕府が開かれた当初、北条家や豊臣家の滅亡、さらには徳川家康から三代目の家光までつづいた武断政治によって、世継ぎが夭折した藩や城を幕府に許可なく改修した藩は容赦なく取り潰しに遭い、江戸には多くの浪人たちが流れこんでいたのだ。北条家の隠密を務めていた風魔一族が江戸の町で盗賊稼業をはたらくなど、治安は安定しているとは言い難かった。幕府草創期の江戸のようすを今に伝える『慶長見聞集』を記した北条家の浪人三浦浄心は、江戸を中心とした関東には盗人が蔓延(はびこ)っていると記している。

“見しは昔、関東に盗人多く有て、諸國に横行し、人の財産をうばひとり、民をなやまし、旅人のいしやうをはぎとる、かれを在々所々にてとらへ、首をきり、はたもの火あぶりになし給へどつきず”

 北条家の風魔党、武田家の忍者集団である透波(すっぱ)あがりの高坂甚内など、江戸には多くの浪人たちが流れ込んでいた。幕府は彼らに対して特に救済政策を取ることもなく、浪人たちは不満を募らせていく。それが頂点にまで達したのが、駿河出身の軍学者由比正雪によって企てられた由比正雪の乱であろう。
 慶安の変とも呼ばれるこの乱は、三代将軍家光の死の直後に練られた。江戸城の火薬庫を爆破した後、市中に火を放って混乱させ、幕府幹部を襲撃する。同時に大坂や京都でも決起し、天皇から幕府討伐の勅命を得て、全国の浪人たちを結集し幕府を倒すという壮大な計画だった。ところが仲間の密告によって、由比正雪は決行直前に捕縛され、未遂に終わった。
 その後、幕府は浪人対策を講じるようになり、それまでの武断政治を改め、法と礼を統治の基盤とする文治政治へと舵を切った。そこで幕府の根幹を揺るがした浪人たちを救済(活用)する政策の一環としてとられたのが、足立区を含む関東平野での新田開発だった。
 女子高生の監禁事件の起きた現場周辺は、江戸時代初期に開発された五兵衛新田と呼ばれる土地だ。一五九七年にこの地へ着任、新田開発に当たった金子五兵衛から取られた名称である。金子五兵衛は、武蔵七党のひとつ村山党の武士だったと伝えられている。村山党は戦国時代には北条家に仕えており、金子家は主家没落後この地へ流れてきた。足立区では金子家のほかに八家の名前が知られているが、武田家に属していた大室家など、戦国乱世で主家を失い、新田開発によって生きる糧を得ようとした者たちが集ったのである。
 新たな田が手に入れられるとあって、近郊の村々からも我先にと人々がやってきたという。五兵衛新田を拓いた金子家は江戸時代を通じて富農として知られた存在で、幕末には江戸を出て奥州へ落ちていく途上だった新撰組の近藤勇や土方歳三などが、滞在している。
 綾瀬周辺は、戦国時代に主家を失った武士たちによって開発された。人煙まれな葦や葭の原を踏み固めて水田とし、彼らが生活の基盤を作ったことで土地の歴史がはじまったのだ。さらに戦後、職を求めて東京へとやってきた人々が集まり、あらたな町へと姿を変えていった。いわば、人々の抜き差しならない居場所探しと、生きるための経済活動が生み出した町なのだ。
 常に人が流れてくる土地ならではの地縁と血縁の薄さが、そこには絶えず時代を越えて幾度も繰り返されていたはずだ。そのおかげで、人は旧来の慣習に縛られる生き方から自由になれた一方、想像を超える恐ろしい犯罪を生み出す温床にもなっていったのだ。

東京ノースエンドからロンドン・イーストエンドへ

 ただ、そうした特異な土地はなにも日本にだけ存在するわけではない。世界史に目を転ずれば、産業革命期にアイルランドやヨーロッパ各地から多くの移民が流入したロンドンのイーストエンドなどは、まさにその好例のひとつだろう。一八八八年、イーストエンドでは世界的な猟奇犯罪の走り「切り裂きジャック」による連続娼婦殺害事件が発生。二ヶ月間のあいだに五人の売春婦が殺害された近代猟奇犯罪のはしりとなる未解決事件である。
 時代が生み出した経済活動の大きな変わり目に、地方から都市の外縁部へと集まってきた人々の新しい営み。そこには洋の東西を問わない根源的な共通点があるのではないか、私はそう感じずにいられない。伝統ある村落に染み付いた因習が生み出す犯罪とはまた違った、新たなに形成される価値観の中で、人間の欲望や思いがぶつかり交錯することによって、刹那的な犯罪を生み出す。それは、どの社会にも通底する我々人間の哀しい魂の縮図ではないか。
 この想念を踏み固めるため、私は東京ノースエンドからロンドン・イーストエンドへと向かうことにしたのだった。

 

 

(第6回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2017年3月13日(月)掲載