第3回 夜明け

 

頂上で写真を撮ろうと待ち構える夜明け。
手がかじかみ、手袋のなかで何度も指を曲げたり、伸ばしたりした。
垂れてきた鼻水は袖口で拭いた。
山の端から昇ってくる太陽の姿を夢中で写真に収めた。

暗いうちから歩きだす日。
点けていたヘッドランプの光が薄くなり、夜明けに気づく。
下ばかり見ていた頭をあげた。

どしゃぶりの朝5時。
顔を見せない太陽を、あてもなく空の中に探した。

山小屋の朝。働く人の音で夜明けが近いことに気づかされる。
その音の心地よさにまた目を閉じて、じっと耳をすました。
朝寝坊の日曜日の朝を思い出した。

天幕の中での夜明け。
うっすら目を開けると、ぼんやり、しかし確実にテントの天井が明るくなっていき、光に包まれた。
吐く息は白く、自分の周りのすべてのものが霜で覆われていた。
朝を迎えたことに安堵した。

「光に包まれる」という言葉の意味が実感できたのは、山に行き、いくつかの朝を迎えるようになってからだ。「包まれる」というのは、自分の上も下も左も右も後も前も光に触れているような感覚だ。

光自体は姿も形もないのだから、光に包まれるというのはすこしおかしいかもしれない。でも、そう感じるのは、夜明けのときの光が、そこにあるすべてのものをゆっくりと闇から連れ出し、照らし出す様を眺めることができるからかもしれない。
体のすべてが「光に包まれる」と感じられるのは、ほんのつかの間のことだ。太陽が山の端から顔を出し、自分の目線と同じ高さになるまでの時間。それ以上日が昇ってしまうと、この感覚はすこし薄れてしまうように私は思う。

太陽が昇るとき、人はそれをずっと待っていたかのように憧れの視線で見ているように思える。私もまた、皆と同じように、夜明けに感じるその感触を逃すまいとじっと見つめているのだ。

山に登りはじめてからは、街にいてもその瞬間に気づくようになった。
街でも光に包まれる瞬間を味わえること、それはとても嬉しい発見だった。

先日、羽田空港へと向かうモノレールの中の夜明けがそうだった。天空橋の駅にさしかかったあたりで夜が明けはじめた。薄暗かった景色が太陽の昇る一点から徐々に明るくなっていった。その光がモノレールの中まで届くと、眠そうにぼんやりしていた乗客の人たちは顔をあげ、窓の外に視線を移した。私も含めた全員が夜明けのその数分間を味わっていた。

気づくことで見える新しい感覚や世界は、どこまでも愛おしく、深く感じることができるもの。
それは、近頃気づいたことのひとつ。