生きていく上で、かけがえのないこと 吉村萬壱・若松英輔

2017.3.1

36本/書物

 

吉村萬壱

  

 私は、W・B・イェイツという詩人の著した『ヴィジョン』(鈴木弘訳 北星堂書店)という本を持っている。持っているだけで、殆ど読んでいない。何度か読もうと試みたが、この詩人の思想は私には難解過ぎてさっぱり理解できない。それでも私はこの本が好きでたまらない。自分にとって重要な本であるかどうかも分からないが、組版のバランスや活字の大きさ、紙の厚さ、装丁、装画、分厚さ、重さなど、この本を構成する全ての要素が実に私好みなのである。内容など、はっきり言ってどうでもいいとすら言える。
 こういう本は、ただ持っているだけで嬉しい。時々取り出しては、表紙を撫で回したりパラパラと頁を捲るだけで、幸せである。この手の本が私の書架には結構ある。絶対に読まないと分かっていてもつい買ってしまう本。書架から取り出して愛でるのは、決まってこういう本である。
 私にとって、本とはどこまで行ってもモノである。
 即ち本とは、「文字や絵画などの何らかの内容物が紙に印刷または書き写され、それらを閉じ合わせて表紙を付けた紙の束」である。それ以外のものではない。
 私は子供の頃から何となく本というモノが好きで、自分の著書を持つことに憧れていた。絵を描くのが好きだった小学生時代には、落書きの紙を束ねて本に見立てて悦に入っていた。
 中学二年の時、オカルトブームの洗礼を受けた。浅野八郎の『オカルト秘法』(講談社 BIG BACKS)、中岡俊哉『密教念力入門』(祥伝社 NON BOOK)、亀田一弘『念力と奇蹟 神通力修行法』(新人物往来社)といった本を小遣い銭をはたいて買い、将来は自分も『○○式超能力開発法』のような本を出したいと心から思っていた。『密教念力入門』の中で中岡氏は、「密教」のアウトラインを百科事典の『ジャポニカ』から丸々引用していて、こんなことをしてもいいのなら自分でも書けそうじゃないかと大変勇気付けられたのを覚えている。これらの本を読んで少しは修行の真似事もしてみたが、超能力などかけらも身に付かなかった。しかし今でも私はこれらを大切に手元に置き、たまに撫で回しているのである。今思うと一種のトンデモ本ばかりだが、その独特のダメダメ感がしぼんだ心を程よく和ませてくれて大変重宝している。
 高校時代以降は少し大人になり、哲学と文学に興味を持った。哲学書は歯が立たないものが少なくなかったが、書物としては硬質で魅力的なものが多かった。大学時代に買ったカントの『純粋理性批判』やハイデッガーの『存在と時間』は、断続的に字面を追いながら今でも読み続けている。特に『存在と時間』は同じく意味不明であっても、イェイツの『ヴィジョン』と違って語り口に人を酔わせるものがあり、文体にかなり影響を受けたと思う。
 手に取る機会が多ければ多いほど、本は自分の手に馴染んでくる。本の紙と自分の手とが共鳴し合い、擦り合わさりでもするかのように。電子書籍では起こり得ない現象である。本とは、全ての頁、全ての活字の字面が人の手で直接撫で回せるものでなければならないと私は思っている。物質であることが肝要なのだ。我々人間もまた物質である。物質性を離れた人間が存在しないように、物質性を離れた本は存在しない。
 物質が「存在する」ということは、一種の奇跡ではなかろうか。宇宙は無に満ちているのに、我々は存在している。本もまた存在している。そして本という物質を後世に繋いでいくことで、我々の知も初めて繋がっていく。意味の分からない本であっても、バトンのように後の者へと手渡していくところに意味があるに違いない。
 私の蔵書は確実に私より長生きする。私は死ぬまで自分の蔵書を手放さないと決めているからだ。しかし私の死後、私の蔵書は捨てられるかも知れない。しかしあるいは古本屋に売られて生き延びる可能性もある。現に私は、もう死んでしまった人が過去に所有していた本を、古本として自分の書架に所有している。本がモノであればこそ、こういうことが可能なのである。
 従って私は、電子書籍も「断捨離」も大嫌いである。
 電子情報のデータは、サイバーテロや大規模なシステムダウンなどによって一挙に消滅してしまう危険性がある。しかし紙の本は決して一挙にはなくならない。世界中の書物を焼き尽くそうと思えば、気の遠くなるような膨大な炎と時間とを要するだろう。
 そして、「存在する」という驚くべき現象に一滴の敬意も払わない「断捨離」という奇怪な流儀は、一種の暴力思想ではないかと思う。読んでしまった本や読まない本、電子書籍化されている本を全て捨てろと言うなら、殆どの本は捨てなければならない。しかし本というモノは、恐らく自分のモノであって自分のモノではないのである。私はイェイツの『ヴィジョン』を恐らく一生読まないが、しかし私はこれを大切に保管して後世に残したいと願っている。この本は私が読まなくても、きっと別の誰かが読む。そういう一種の一時預かりのような、個人を離れた所有の仕方があってもよいのではなかろうか。
 本はすぐに破れてしまう。太陽光線や熱や湿気にも弱い。大切に扱われることが前提になっているのである。本という存在は、人間に大切にされることを当てにしている。その要求に応えて一定の書架を用意し、大切に保管することで、後世へと本を繋ぐ鎖の環の一つになること。そういうことが私には何となく、未来の人間と暗黙の契約を交わしたようで、大変愉快で面白いことに思われるのである。


  

 

 

書物

若松英輔


 「物」という言葉は、現代では無機質な物体を示す表現になりつつある。もともとの意味は違った。それは手にふれることはできないが、存在するものを指した。そこには、人間とは別な姿で生きている、という語感もある。一人前になることを「物になる」というのはそのためだ。
 動物、植物、鉱物という言葉にも同質の意味は生きている。石は生きていないではないかというかもしれないが、それは近代な生命観でしかない。古代はもとより、中世の歌人にとって岩は生命が宿る場所だった。同質の実感は宮沢賢治にもある。西洋にも地球は巨大な生命体だと語るガイア理論の提唱者、ジェームズ・ラブロックのような人物もいる。
 もう十年以上前になる。ラブロックと一度だけ話したことがある。ガイア理論をどうして唱えるようになったかと質問すると、「動く」という感覚を人間的感覚から少し広げてみると世界が違って見えてくるからだと語っていた。
 そう考えると「書物」という言葉も不思議なひびきを携えたものに見えてくるのではないだろうか。それは言葉を宿した、生けるもの、ということになる。
 書物が生きている、と書く。するとそこに比喩を読み取る。世間的な感覚ではそうなるのだろうが、私たちはそれとは別な個的な感覚を有している。官公庁から配られる書類を読むときは前者の感覚で、愛読書にふれるとき動き出すのは後者だ。現代人は、有益なことを知ろうとして多くの本を読もうとする。あるいは多くの本を読んだ人を頼みにする。そうしたときに動いているのは前者であることが多い。だから、知り得ることしか理解できない。知り得ない何かを感じることが難しくなる。
 しかし私たちには、書物との関係を築き上げていくうえで、まったく別種の道も開かれている。それは、書物に記されている言葉を知るのではなく、生きてみることだ。いくつもの言語に通じるのでも、言葉とたくさんふれあうのでもなく、これ以上は今の自分にはできない、と感じられるところまで一つの言葉の意味を掘り下げてみること、そうすることで新しい道が開けてくるように思われる。
 もし、一語との出会いが感得できないのなら、書物を手放して、日々の生活のなかで今の自分になくてはならない一つの言葉を探した方がよいのかもしれない。書物を読む究極の目的とは、人生の一語と呼ぶべきものとの出会いにほかならないからである。言葉が知る対象ではなく、めぐりあう何ものかであると感じられるとき、私たちはそこに、ほとんど本能的に一つの「生命」を感じる。

文学とは他人にとって何であれ、少くとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である、と始めて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる。(小林秀雄「ランボオⅢ」)

 ここで描き出されている出来事は小林にだけ起こるのではない。もちろん詩人ランボーの言葉においてだけ生起するのでもない。
 この一節に私たちが、見過ごすことのできない何かを感じるのは、同質の経験が、ここで描き出されているほどの強度ではなかったとしても、私たちにもひそかに経験されているからなのである。感動は未知なるものに出会ったときに生起する現象ではない。すでにふれていながら、十分に認識することができなかった何かにふたたび遭遇したときに湧き上がる一種の歓喜の経験なのである。
 言葉は一つの有機体である。一つと交わればすべてとのつながりが回復される。たった一つの言葉を見つけるために人生のある時期を賭さなくてはならなかったとしても、もしそれと出会うことができたなら人は、けっして徒労だったとは思わないだろう。一つだったとしても言葉は、人生を深みから強く照らし出し、その意味を明らかにする力を有している。さらにいえば誰もがすでに、その一語を自らの手に握りしめているように私は思う。


 

(season2  第11回・了)

この連載は月3回更新でお届けします。 次回は2017年3月21日(火)掲載