生きていく上で、かけがえのないこと 吉村萬壱・若松英輔

2017.5.10

41失敗

 

失敗

若松英輔

 

 失敗は、数えきれないほどしてきた。日常生活の失言もあれば、会社での業務上のミスもある。だが、仮にそれらをすべて列挙しても失敗の全貌は明らかにはならない。語られる失敗は、失敗だとその人が感じているものに過ぎないからだ。人は誰も、自分の知らないところで失敗を繰り返し、積み重ねている。ここに失敗をめぐる大きな問題点がある。失敗は常に現在進行形なのだろう。
 人は、本当に後悔していることを他者には容易に語らない。他者だけでなく、自分でもそれを直視しようとしない。そうした心のありようをドストエフスキーが見事に言い当てている。

  どんな人の思い出のなかにも、だれかれなしには打ちあけられず、ほんとうの親友にしか打ちあけられないようなことがあるものである。また、親友にも打ちあけることができず、自分自身にだけ、それもこっそりとしか明かせないようなこともある。さらに、最後に、もうひとつ、自分にさえ打ちあけるのを恐れるようなこともあり、しかも、そういうことは、どんなにきちんとした人の心にも、かなりの量、積りたまっているものなのだ。いや、むしろ、きちんとした人であればあるほど、そうしたことがますます多いとさえいえる。(『地下室の手記』江川卓訳)

  顕われざる失敗、語られざる失敗こそ、真に「失敗」と呼ぶべきものだが、人間には失敗を封印する習性がある、というのである。会社で失敗をすると始末書を書かされる。そこで人はもう二度と同じことは繰り返さないという出来もしない誓いのような言葉を書かされる。
 だが、反省文を書くのはあまり有効ではないようで、始末書を書く人が、同質のミスを冒すのを散見する。必要なのは反省だけではないのだろう。なぜ、そうした出来事が生じたのか、その道程を直視することなのではないだろうか。現実を見ずに態度を改めることはできない。だが、その勇気を絞り出すのが難しい。
 大きな勇気はいらない。過ちをめぐって書いてみるがいい、とこの作家は提案する。 

しかし、たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心したいまとなっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実のすべてを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。

  私たちは未来の失敗を恐れる。過去の失敗と同様のことが起こるのではないかとおびえている。だが、恐怖に身をまかす前にやらなくてはならないのは、「失敗」だと感じている出来事の、本当の姿を見極めることだろう。そのためには、可能な限りありのままに内心の現実を書いてみるのがよい、とドストエフスキーはいうのである。
 素朴な提案だが、語られていることに偽りはない。失敗の深みにふれようとするとき、欠くことができないのは、後悔や反省よりむしろ、部屋でひとりペンを持ち、自らの心を映しとろうとする小さな勇気なのかもしれない。
 書くという営みは人を独りにする。別な言い方をすれば、書くことによって人は独りになることができるともいえる。独りでなくては感じられない世の光景があるように、自らの「失敗」の本質も、人が独りになったとき、その心にゆっくりと映じてくるもののように思う。
 振り返ると、思うように生きようとするとき、より頻繁に失敗に遭遇していた。あまりに強く思い通りに生きたいと願うとき、人は自らの手のひらに人生を収めようとしている。もちろん、世界はそのようには出来ていない。誤解を恐れずにいえば、思うように生きようとするとき人は、失敗に近づくとすらいいたくなる。
 思うままに生きられないことがすべて失敗かというと、そうであるとは限らない。思いもよらない幸運に恵まれることも少なくない。
 ともあれ、かつてに比べると「失敗」という表現をあまり用いなくなった。同時に、世にいう「成功」への関心も薄れてきた。「失敗」の顔をして訪れる幸福もある。年齢も知命に近づくと、そんな人生からのささやきをふと感じることもある。問題は、失敗と成功の二者択一にあるのではなく、そのあいだに潜む小さな幸福を、いかに探し当てることができるかにあるのではないか。

 

 

 

失敗

吉村萬壱


 

 失敗のない人生などない。
 私は現在五十六歳だが、言うまでもなく沢山の失敗を犯してきた。
 その中で忘れられない失敗の一つは、小学生の時点にまで遡る。
 私は小学校三年の時、ある子供サークルの演劇発表会に出た。そこで私は、一人の女の子を好きになった。音楽劇だったと思う。私はタンバリンを叩く役だった。そして自分の出番が終わると、タンバリンを、次の出番のその女の子に手渡すことになっていた。「タンバリン渡すの、絶対忘れんとってな」とその子は私に言った。私は言わば彼女の運命を握ったのだ。絶対に忘れるはずがなかった。しかし本番で極度に緊張していた私は、出番が終わって舞台袖に引き上げた時、自分の手の中にタンバリンが残っていることに気付いて凍り付いたのである。恐る恐る舞台上を覗くと、四人の女の子が並んでタンバリンを叩いていたが、その女の子だけは手に何も持たず、引きつった笑みを浮かべながらひたすら叩く真似だけをしていた。私は愕然として身動きできなくなった。本番中にもかかわらず舞台に飛んで行って、彼女にタンバリンを手渡すこともできたはずだった。たかが子供の演劇発表会である、それもまたご愛嬌ではないかと、今ならそう思うことができる。しかしその時の私は、自分が取り返しの付かない失敗をしたことに打ちひしがれて完全に固まってしまったのである。
 そして失敗はこれに留まらなかった。
 彼女が出番を終えて舞台袖に戻ってきた。彼女は泣いていて、他の三人の女の子が懸命に慰めていた。その時私は、彼女にどう謝ったらいいのか見当も付かず、まるでそうすることで全てがなかったことにできるというように、彼女に対して一言の声もかけなかったのだ。私は知らぬ存ぜぬを決め込んでしまったのである。そして我々はそれ以来、二度と会うことはなかった。
 もう半世紀ほど前の話であるが、私はこの失敗を忘れることができない。
 この失敗には、自分の卑劣さが色濃く滲み出ている。私は小学三年にして、自分が、自分のせいで不幸な目に遭った人間に謝罪もせず、あたかもそんな失敗がなかったかのように黙殺できる人間であることを知ってしまった。この苦い記憶を思い出すたびに、私は消え入りたくなる。
 私は大学受験に一度、就職試験に二度失敗し、就職して教員になってからも、沢山の失敗を重ねてきた。しかしそんな失敗はほとんど思い出すこともない。自分の努力が、競争試験の合格基準や、仕事の成功に必要なレベルに達していなかったということであり、その失敗は言ってみれば相対的なものだ。しかし、好きだった女の子を見殺しにした失敗は、私という人間の本質に関わるものであり、言わば絶対的な失敗だった。彼女はひとしきり泣くとさっぱりした顔で友達に笑いかけ、一度も私の方を見なかった。彼女は後に、あの馬鹿な男の子を罵倒してやるべきだったと後悔したかもしれない。そうしてくれた方が、どんなにすっきりしたことだろうか。おかげで私は、未だに彼女に対する申し訳なさに苛まれている。恐らく一生忘れることはないだろう。
 相対的な失敗は幾らでも取り返しがつく。しかし絶対的な失敗は取り返しがつかない。せめて二度と同じ失敗を繰り返したくないが、その後の自分の人生を振り返ると、タンバリン事件など吹き飛んでしまうほどの恥ずべき大失敗を幾つもやってきた。それも、タンバリン事件に輪をかけて酷い、思い出すのも辛い卑劣で卑怯な失敗をである。
 私はその一生のうちに、どれだけ絶対的な失敗を繰り返せば目が覚めるのだろうか。
 そして私は思う。人はそれぞれ、自分の絶対的な失敗の容量というものを持っているのではないだろうか。その容量を超えた時、その人間は恐らく二度と立ち上がれなくなる。自分で自分のことを、どうしても許せなくなってしまうのだ。そうなった時、人間は精神的に死ぬのだろう。その容量は人それぞれだ。私の場合は、もうそろそろ限界に近付いているような気がする。そもそもコップ が小さいのだ。今は何とか踏みとどまって今日を生きているが、しかしあと数滴で私のコップは溢れてしまうのではないだろうか。確かにこの歳になって、少しは慎重になってきた。しかし恐ろしいのは私の中にまだ悪魔がいて、もっと失敗してみてはどうかと誘惑してくることだ。しかもその悪魔の囁きは言葉巧みに、こんなことを言ってくるのである。
「なあにまだまだ大丈夫だ。失敗しても君の場合は、それを文学的滋養として取り込んで、小説に昇華すればよいではないか。善良で道徳的な人間が書いた小説なんてどこが面白いものか。悪い奴が書くから面白いんだよ。もっと悪いことをやれ」
 この囁きに心が揺らいでいる私を、あの女の子が半世紀前の舞台袖からじっと見ているような気がしてならない。


 

(season2  第16回・了)

この連載は月3回更新でお届けします。 次回は2017年5月20日(土)掲載