メメントモリ・ジャーニー メレ山メレ子

2015.9.3

02生者と死者の島

 

 月桃(ゲットウ)という花が好きだ。沖縄本島や八重山諸島では、家の軒先や空き地に当たり前のように生えている雑草めいた植物である。花が出るときは細長く丸まって固く閉じた葉の先が次第にゆるみ、2列に並んだ蕾の房が出てくるが、ひとつひとつはらっきょうの甘酢漬けに似ている。先端がほんのりとピンク色に染まっていて、なんだかやけにセクシーだ。やがてじょうご型に開き、赤と黄のだんだら模様の唇弁をのぞかせる。葉からは爽やかな香りの精油が取れる。
 世間様が移動する時期に動き回るのもお金がかかるし、ちょっとした旅行ならふつうの週末に有休をつけて三連休にするほうが何かと楽だ。ゴールデンウィークはどこにも行かなくてもいいかなと思っていたが、この狭い部屋で、二度寝とネットサーフィンの無限ループをどれだけ繰り返してしまうことかと考えると、ぞっとしないものがある。

 

 

 連休のひと月前のある夜、酔っぱらった勢いで軒先の花々にわざとらしく鼻を埋め、スンスン嗅ぎながら歩いていた帰り道。ふと月桃の花を思い出し、どうしても沖縄に行きたくなってしまった。いつもの旅行のように目的を決めて忙しなく動き回るのではなく、ひとつの宿に暮らすように滞在するのはどうだろう。炊事場つきの宿なら、牧志公設市場で買ってきた色鮮やかな見知らぬ魚を首をかしげながら料理してみることもできる。那覇にはジュンク堂書店もあるから本を買いこんで窓辺で読んだり、それにも飽きたらカメラを持って外に出て、石垣の上を歩く猫や月桃の花を撮って……。
 というのは果てしなく甘い考えで、中国や韓国・台湾から旅行者が急増している今、有名観光地のビジネスホテルやドミトリーは簡単には予約が取れないのだった。もちろんいくらでも出せるという立場なら話は別だが、そんなの何にだって言えることであり、有りあまる銭さえあればすべての話は別になってくる。よって、いくらでも出せる立場の想定はまったくもって無意味なのである。
 弱り果てていると、「むしろ八重山のほうが宿が取れるんじゃないの? 『沖縄・離島情報』っていう雑誌を買えば島ごとに旅館の一覧があるから、はじから電話かけてみるといいよ」と、ツイッターで教えてもらい、わたしは下調べもそこそこに、八重山諸島のうち西表島と与那国島を選び、あたふたと出かけることになったのだった。

 八重山の玄関口である石垣島の空港から、バスで石垣島フェリーターミナルへ。石垣港を出た船は西表島の北にある上原港に着き、さらにバスで白浜集落へと向かう。
  島の北西部、県道の終着地にある白浜は、いくつかの民家と旅館、そして小学校があるだけののどかな集落だ。宿泊する金城旅館にはときわさんという「植物屋」の女将がいて、全国から西表島でフィールドワークをする研究者や学生が訪れる。食堂にはときわさんがみずから海に潜って集めたおびただしい貝やサンゴが並び、2階の部屋の窓からは穏やかな入り江が一望できた。
 わたしは石垣島の港で買いこんだ海遊び道具でさらに大きくなってしまった荷物を下ろし、しばし喜びの舞を舞った。前に西表島に来たときは島の南東エリアにある大原の港を起点にめぐったので、白浜に来るのははじめてだ。しかし、県道と防波堤の向こうに見える昼下がりの海、対岸の小さな島とそこを行き来する船影が、ここは「当たり」だと告げていた。わたしの求める、静かだが決してわびしくはない場所。
 首にカメラを提げて集落を歩いていると、スーツケースからの解放と生命力の強すぎる草木が訴える南国感があいまって、無理めに切り上げてきた仕事への気持ちも消えうせ、高揚感だけがこみあげてくる。
 西表島には3日しかいなかったが、ものすごく濃密な日々だった。月桃の花を嗅ぎまわるのはもちろん、フェリーで毎日、船浮(ふなうき)集落に渡った。船浮は西表島に地続きの岬だが、山が深く険しいため、歩いて行ける道路はない。ここにもいくつかの民宿と飲食店があるだけで、とにかく静かな場所だ。
 橙色のクロツグの花がねっとり甘く香る森を抜けると、イダの浜という入り江がある。足元はすべて、枝サンゴの欠片だ。それもそのはず、シュノーケリングのツアーに参加して見た海底には、情報量が多すぎて怖い! と思うくらい総天然色のサンゴたちがひしめいていた。

 

 

 海で遊んだら旅館に帰ってシャワーを浴び、オリオンビール片手に撮ったばかりの写真をノートパソコンで整理する。船浮で猪肉のカレーを食べたあと、お店のハンモックで軽く昼寝させてもらい、ついでにその写真をツイッターに上げていけすかないバカンス自慢をすることもあった。

 旅館の前を通る県道は、この集落には不釣合いなくらい大きな小学校の校舎の前で行き止まりになって消えるのだが、その先には海と川と森が接するマングローブの湿地がある。マングローブという植物は厳密にはなく、汽水域に森林を構成する植物の総称だが、西表島にはマヤプシキやヤエヤマヒルギなど、日本のマングローブ植物7種類のすべてが生息している。
 干潮時に泥地に下りて、しゃがんでじっと待つ。すると、片側だけが巨大な鋏を持つカニ、シオマネキが、そっと砂の中から現れる。ヒメシオマネキの鋏は上の刃が白、下が橙色に染まり、とても華やかだ。彼らは警戒心が強く、気配を感じるとすぐに巣穴に逃げこんでしまうが、石になったつもりで5分も待てば数百匹(!)のシオマネキに囲まれることができる。
 そして、彼らはギギギ……とぜんまい仕掛けのようなぎこちない動きで大きいほうの鋏を頭の上に高く持ち上げ、シュッと振り下ろす動きを繰り返しはじめる。この「ウェービング」と呼ばれる行動が彼らの名前の由来。潮を招いているかのように見えるからシオマネキだ。本当に潮を招いているわけではなく、この鋏はもっぱらメスへの求愛、そしてオス同士の小競り合いにも用いられる。
 地面も空気もじっとりと温かい泥地で、呼吸さえ控えめにして数百のシオマネキたちの舞を見ていると、自分が泥の一部になったかのように錯覚する。気配を殺して野生動物の世界に入れてもらうことには、麻薬みたいな魅力がある。マングローブ林はほんとうに生きものの気配が濃い。泥の中にはノコギリガザミやハゼもいるし、リュウキュウアカショウビンのキョロロロロ……と鳴く声も、森の奥から響いてくる。

 

 

 ヤエヤマヒルギの根は、幹から放射状に泥に伸びる。入り組んだ根のドームをのぞくと、オキナワハクセンシオマネキが無心に踊っていた。泥の上でシオマネキの鋏はとても目立つが、そのぶん鳥に狙われやすい。命の危険と隣り合わせの嫁マネキの舞には、音のない熱気がある。能をちゃんと観たことはないが、能楽師のシテ方(主人公役)を思わせる。
 ずっと見ていると吸いこまれそうだ。このまま潮が満ちてきて動けなくなり、ついにはメスのシオマネキになってカニの嫁に取られてしまうのではないだろうか。波打ち際で足指の下の砂が波に引かれるのを楽しむときのように、心が自分の体から剥がされていく様を想像をすることにも甘美さがある。沖縄で言われる「マブイ(魂)を落とす」というのは、そんな感じなのだろうか。

 だが、マブイを落としたというなら、西表島を離れて与那国島に渡るときのほうがそれに近い状態だったかもしれない。
 いったん石垣島に戻り、翌朝のフェリーで与那国島に渡る手続きをしたわたしに渡されたのは乗船券と、きっちり三角に畳まれたエチケット袋だった。そう、石垣島と与那国島を結ぶ「フェリーよなくに」は“日本三大ゲロ船”のひとつと呼ばれているのだ。わたしは恐怖し、乗船前に急いで近くのドラッグストアに走り、酔い止めを買って飲んだがこれが逆効果だった。
 船内で眠りについてしばらくすると、なんともいえない不快感で目ざめた。低血糖のときのように手足に力が入らず、胃はむかつくし、意識も膜がかかったようにはっきりしない。どうやら酔い止めが体に合わなかったらしい。新しくなって間もないという船はピカピカで海も凪いでいて、薬を飲まないほうがよっぽど快適に過ごせただろうに。
 4時間半の悪夢の船旅を終え、島の東の集落・祖納(そない)の民宿にたどりついても不快感はおさまらない。食事もろくに食べられず、薄い布団で寝返りを打ちながら半日を潰し、やっと薬が抜けたと感じられたのは深夜のことだった。

 日本の最西端、東シナ海を北上する黒潮がはじめて日本に出会う島が与那国島だ。沖縄本島や八重山の海といえば、浅い海の生き物を育む礁湖(イノー)がどこまでも続き、珊瑚礁が天然の防波堤となって沖で波を砕いている風景が特徴的だ。しかし、与那国島は石垣島や西表島の石西礁湖とは外洋を挟んで遠く隔てられ、断崖と荒い波に囲まれている。いくつかある浜も潮の流れが速く、あまり遊泳には適していない。
 ヨナグニウマの乗馬プログラムに参加して、あやうく落馬しそうになる。海底遺跡と呼ばれる奇岩をシュノーケリングで見下ろし、悠々と泳ぐウミガメを目にする。華麗な目玉模様を持つ世界最大の蛾・ヨナグニサンを、アヤミハビル館という観察施設で見せてもらう。
 楽しみにしていたはずの毎日を過ごしているのに、わたしはまるで薬の後遺症に苦しんでいるみたいだった。何を見ても、心から楽しめない。かつて人頭税の重圧に耐えかね、妊婦を飛ばせたという崖。成年男子を集め、入りきれなかった者を殺したという田んぼ。そんな恐ろしい言い伝えのほうに心が向いてしまう。

 旅行が長くなると、たまにこういうことがある。疲れのせいか、見知らぬ土地の寂しさばかりを受信してしまうのだ。気分を変えたくていろんなアクティビティを予約してしまうし、見慣れないものにはカメラを向け、ぱっと見の行動パターンは変わらないが、自分で自分を「こういうの好きだよね」となだめているようで心はどんどん沈んでいく。もしもフェリーが週2便だけでなければ、衝動的に西表島に戻っていたかもしれない。シオマネキに囲まれた日々が恋しかった。