メメントモリ・ジャーニー メレ山メレ子

2015.10.15

05自由なハリネズミの巣箱

 

 ハリネズミの巣箱というものを見たことがある。
 2年前の秋、会社の用事でミュンヘンに出張し、ついでに当時書いていた本のために別の村に取材旅行をした。取材の前後は、SNSのつてをたどって知り合った若夫婦が暮らすミュンヘン郊外の団地に泊めてもらった。その団地の庭に、巣箱が置いてあったのだ。

 

 

「この前、この近くでほんとにハリネズミ見たんだよね! 今は明るいから寝てるかもしれないけどさ」
 植えこみをのぞきながら、日本人の旦那さんが言う。鳥の巣箱的なものを想像していたが、そこにあったのは、ただ大きな皿を伏せたような素焼きの円盤だった。
 その夜は、赤い髪の美女である妻のサラちゃんの郷土料理・シュペッツェレとドイツビールをたらふくご馳走になった。夫婦が寝室に行ったあと、わたしはリビングのソファで貸し与えられた赤いブランケットにくるまって横になり、広い窓から入る月明かりに照らされた部屋の中のものたちを眺めた。魚好きの旦那さんが近くの湖ですくってきた小さな淡水魚が泳ぐ水槽。棚の上に飾られた結婚式や親族の写真が入った写真立てには、ちりひとつ積もっていない。ホテルのように中の人をくるくると入れ替える箱ではなく、家主が隅々まで心を砕いている「巣」の感じがある空間だ。出張の疲れも溜まっていたが、遠い外国で、まだよく知らないけれど親切で快活な人たちに甘えまくって、こうしてぬくぬくと安心している時間がとても貴重に思えた。

 自分の家でないところで眠るのが好きだ。でも旅行や飲み会から帰ってきて、シャワーを浴びてから自分の家のふとんに潜りこむ瞬間も大好きだ。その日の気分で、今日は部屋に帰っても帰らなくてもいい、と思うのが好きだ。帰る場所がないのは不安だが、帰らないといけないのは苦痛だ。人の心が自分にもたれかかってくる重みが苦手で、すぐ逃げ出してしまう。お昼ごはんを食べる相手がいつも決まっているのとか、同じような話を繰り返して話題がどんどんなくなっていく感じ、その兆候だけでも堪えられず、人間関係をすぐリセットしたくなってしまう。
「そうか、メレ子ちゃんは自由おばさんになりたいんだね!」
 と、ニコニコしながらのたまったのは、数年前にインターネットで知り合ってお世話になっている若手研究者の先生だった。
「誰がおばさんですか! 相変わらず最高に感じ悪いですね!」と言い返しながらも、わりと納得している。社会的責任というやつから逃げ回っている人間のいつか痛い目に遭いそうな感じを、端的に表したものだなと思う。
 世界中で生きものを追いかける先生の「自由」は、夢と才能にあふれた人間が努力して学究の道を拓いていくイメージだけれど、わたしの「自由」は糸の切れた凧が風に流されているのと同じ。本業の会社員としても、ブログから始まった副業としての文筆でも、吹けば飛ぶような存在だ。我ながら将来が不安だが、世間の言うとおりにつつましく生きていても安心が訪れることなどないのだから、せいぜい心が死なないように生きたいとも思う。

 2012年に、「昆虫大学」というイベントをやった。旅行ブログに載せた虫の写真がきっかけで、自然写真家や「虫屋」と呼ばれる虫好きの人たちと仲良くなり、虫採りについていったり虫に関する文章を書いたりしているうちに、昆虫研究者、虫をモチーフにして創作をするクリエイター、昆虫食の世界まで見えてきた。そういう人たちを全部集めて、虫というキーワードだけを囲んで、みんなで踊り明かせるんじゃないか、と思った。

 

撮影:石澤瑤祠

 

 声をかけた人たちの顔をつぶすまいと慣れないなりに必死で宣伝したことや、借りたのがアートフェスの一画という面白い場所だったのもあって、2日間で700人余りの人が来場してくれたのには驚いた。何より驚いたのが、自分が受付でものすごく接客できていることだった。接客アルバイトがすごく苦手で半年と続かなかった自分が、何時間も笑顔で接客して、訊かれていないことまで答えたりしているのが信じられなかった。
 さらに、友達までできた。大学を卒業したあたりから友達の作りかたがよく分からなくなっていたわたしにとって、出展者やお手伝いの人たちとの間に生まれた親しみは「あ、こんなに簡単なことなんだ」と思わせてくれた。「ここでだけ飛ぶように売れるようなおかしなもの作りたいね!」と意気投合したり、素人のわたしを最初はちょっと警戒していた作家さんが「すごく面白かった。また呼んでください!」と言ってくれたとき、バスケやサッカーできれいにボールをつなげてコンビネーションプレイできるようになったらこんな気持ちなのかな、と思った(わたしの運動神経は壊滅的なので、あくまで想像だが)。
 文章を書くという作業の本質は孤独そのものだ。たとえ大勢の人に読んでもらえたとしても、必ずしも読者と距離が縮まるわけではない。でも、あえて自分で表現しなくても表現したい人が集まれる場所を作るだけで、尊敬する人たちと一網打尽に仲良くなれる。深夜まで細かい調整や広報作業をしていて気が遠くなりかけても「こんな商品、作ってみたんですけど!」「当日はこんな話をしたいので、こんな演出をしてほしい」というメールを受け取ると、目が冴えて寝付けないこともあった。
 昆虫や生きものに関わる人々の世界には、好きなことしかできないという生きづらさを抱えた極端な人がけっこう多い。しかし、そういう人こそがなんだかんだと周囲から一目置かれ、愛されている様子を見ることもできる。尖った人のまわりに人が集まる様子に心温まる一方で、そこまで突き抜けていない自分は本当につまらないヤツだ……、と負い目を持つことも多い。だが、「変わった人が変わったまま楽しそうにしている場所」自体が、わたしの表現物だったとも思うのだ。

 外のハリネズミはどうしているだろうか。北海道と近い緯度のドイツでは、11月でも朝は葉っぱやクモの巣など、あらゆるものが霜に覆われキラキラと光る。あの陶板はかえって冷たくはないか? 実際に出入りしているなら、快適または安全なのだろうけれど……。鼻をヒコヒコさせながら眠っているのか、それとも外に出て、背中のトゲの先まで緊張をはらみながら、甲虫や木の実を求めて落ち葉の中を這いまわっているだろうか。
 シルバニアファミリーのような、人の服を着てミニチュアの家に暮らすハリネズミを想像するのも、ここヨーロッパでは自然なように思われる。小さいころ大好きだったジル・バークレムの絵本には、木のうろの中に築かれたネズミの大邸宅が、息を飲むようなにぎやかさと愛らしさをもって描かれていた。陶板の下に、あんな世界が広がっていたらどんなに素敵だろう。ハリネズミはひとりで生活するのだろうか、家族で暮らすのだろうか。

 引っ越しを重ねるたびに物が増え、今や90×180センチの無垢材のダイニングテーブルをはじめとするお気に入りの家具に押しつぶされそうな生活をしている。会社からは食うには困らないお給料をいただいているが、東京都内のひとり暮らしの住宅事情はひどい。「月に7万も8万も払って、こんな部屋に住まなければならないのか……」と思うと、ため息しか出ない。大学に入るために上京してから住んできた、いくつかの貸アパートの悲惨な思い出が頭をよぎる。世の中に、これはという素敵な家のなんと少ないことか。一度だけ分譲賃貸に住んだことがあるが、古いながらによく管理されていてまめに外壁や配管の補修工事があり「持ちものだと、住人はこんなに家を大事にするものなんだ!」と驚いたものだ。
 ある日、もうちょっとマシな部屋を求めて駅前の不動産屋に迷いこんだときのことだ。「自分で探すので、そのバインダーをこちらにください」と主張し、分厚い物件情報の束をめくるわたしの前で、不動産屋の女性が「これが分譲ならねえ。月々の支払いは同じでも、広さも設備もぜんぜん違ってくるんですけど……」と呟いた。
 そのときは「何言うだボケ」と思っただけだが、ぼちぼち計算してみると、たしかに自分が東京で今の勤めを続けながら理想の広さの家に住むためには、マンションを手に入れ、30~40代で頑張って繰り上げ返済するしかなさそうだ。お金があるから家を買えるというよりも、お金がないなりに広さや設備を求める際の多少マシな選択として、価値があやふやなマンションを買うしかない、ということでもある。
 35年ローンを抱え、マンションの管理組合とかいうきちんとした大人の集団に属し、万が一ストーカーや頭のおかしな隣人に狙われることがあっても引っ越しづらいなんて不自由ではないか……と思っていたのに、ここ一年近く、ずっとマンションを探している。それは、マンションという言葉に理想の居場所を思い描いてしまったからだった。

 

 

 インテリア雑誌に出てくるような素敵な部屋に住めればそりゃ最高だけど、「立って半畳寝て一畳」とも言うように、今の六畳一間でも暮らせないことはない。仕事に行って、帰り道で外食して、家に帰ってきたらああ疲れたとベッドの上に座りこんだが最後そこから動くことができず、スマホでTwitterとfacebookとはてなブックマークを交互に巡回しているうちにメイクも落とさず寝てしまう日もある。このベッドは、わたしを乗せて東京砂漠を漂う一艘の船だ。
 もっと広い部屋に住みたいのは、自分ひとりで過ごすためではないが、誰かと住むためでもない。気心の知れた人たちとの打ち合わせにも使えて、たまには姉や両親を泊めてあげられて、イベントで販売する妙ちくりんな商品の在庫も置いておけて……。フリーランスや研究者の友人たちが持っている事務所や研究室に、前から憧れていた。自分の根城というだけでなく、必要に応じて他人を招いて、喫茶店やレンタル会議室よりもくつろいでいろんな話ができる場所。お互いの人生を面白くするためのアイデアや意気投合が、自然に生まれてくるようなところ。
 自分の住みたい家を考えることは、自分のこれからの居場所を考え直すことでもあった。