私のイラストレーション史 南伸坊

2015.8.20

01私は小6の時からデザイナー志望だった。

 

 ミッチャンのお母さんに
「南くんは将来、何になるつもり?」
と聞かれた時、私は「デザイナー」と即答した。
 ミッチャンのお母さんが
「へえーっ! 下着の?」
と勝手にねじまげた解釈をしたのは、どうしてだかわからないが、その頃は、デザイナーといえばファッションデザイナーのことか、

下着デザイナーという時代で、それで私は「下着」のほうの顔をしていたのだろう。

 その後にどんな会話をしたのだったかそれはもう忘れてしまっているが、私はその頃小学6年生だったと思う。
 そういう記憶があるから、インタヴューなんかで、いつごろから、今の仕事をしたいと思われてましたか? とか質問されると、前述したようなことを述べて
「スケベに見えたんですかね?」
とかいって笑いをとっていたりした。
 が、ある時、待てよ? 何でオレは小6でデザイナーになりたいなんていってたんだろ? と記憶をさかのぼっていくと、おそらく、これしかないだろう、っていう0地点に辿りついたのだった。
 私の家は、父と叔父が金を出し合って借地に一軒家を建て、玄関を共有にして左右に同じ間取りの平屋をつくったという、まァ、今でいうなら二世帯住宅のような家だった。
 父は、病気をして自宅療養中だったが、叔父はどういう経緯だったか、会社員をやめてペンキ屋、看板屋を自営するようになっていて、私が小6になる頃は、見本市や展示会の、いわゆる装飾会社経営者(但し一人)になっていた。
 そろそろ景気もよくなってきた頃なのか、叔父は「自家用車」を持つようになっていて、私はその車ヒルマンを洗車して、小遣いをかせいだりしていたのだった。

 時々、叔父がドライブにつれていこう、とかいって、洗いたてのその自家用車に乗せてくれた。
 といって行楽地に出かけるというのでもなし、彫刻をつくっているっていう、芸術家のところへ連れていってくれたりするのだ。
 おそらく、芸術では金にならないから、展示会や見本市のための立体物みたいなものをアルバイトでつくっていたのだろう。
 そんな時に、デザイナーやレタリングの職人みたいな人のところへも行ったかもしれないが、その時は全く興味を持っていなかった。
 ある時、遠い親戚にあたるという家に行って、「これが兄キの子でノブヒロといいます」といって紹介されたことがあった。大学の先生だかをしているという人だったが、その時に床の間に飾ってあった、美大生だというその家の娘の「作品」に私が興味を持ったのは、その純子さんていうお姉さん(私より5~6才上だと思う)が、ものすごく美人だったからであった。
 その作品は、レタリングの習作のようなもので、明朝体の練習みたいな、つまりは、1959年の原弘先生の「日本タイポグラフィ展」のポスターみたいなやつだ。それが、床の間に掛け軸みたいに貼ってあった。

 

 

 おねえさんはゆくゆく「デザイナー」というのになるつもりだといって、たいそう美人だった。
 私はそこにひどく反応したらしいのだった。
 私は作品を見て、デザインとかデザイナーっていうものに興味を持ったのだろうか? とさらにグリグリ自問してみると、どうもそうではない気がする。
 私は、あきらかに美人のおねえさんに参ったのである。そうして、あるいは、その美人のおねえさんに「なりたい!」と思ったのではないか?
 当時、小学校の図工の女先生が、やはり女子美の実習生だった。私はその先生も美人で好きだったのだが、特段美術の先生になりたいとも美人の美大生になりたいとも思っていない。
 ふつうに考えたら、まあ単に私が「年上の美人好き」の小学生だったともいえる。
 が、ともかく、自分は男であって、将来おねえさんになる道がある、とは当時考えられなかったので、次善の策として、デザイナーになる! と決めてしまったものと思われる。
 つまり私は、もう少し知識があれば、オカマになっていたかもしれず。うっかりしていれば下着デザイナーになっていたかもしれない。というくらいなアイマイな動機によって将来の職業を、いきなりデザイナーと決定してしまったらしいのだった。
 少し、先を見ることができるコドモだったら、そんなに拙速に将来を決めてしまったりはしないものだ。大学を出ても、まだ進路が決まらない。就職を決めて、会社員になっても、本当の自分がするべき職業が、まだ何処かにあるかもしれない、とそういう人のほうがフツーだと私は思う。
 私は、フツーではなく、ちょっとボーっとしていて、自分でも何をどう考えているかわからないうちに、早々に将来の職業だけは、決めてしまったらしいのだった。

 

 

(第1回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2015年9月16日(水)掲載