この度、「私のイラストレーション史」が単行本になりました。
本書の刊行を記念して、渋谷NADiff modernにて2019年6月14日~2019年8月4日まで、「私のイラストレーション史原画展」を開催いたします。
また、7月6日には渋谷Bunkamuraにて南伸坊さんと糸井重里さんのトークショー「わたしたちのイラストレーション史」も開催します。
イベントに合わせて、南さんが『ガロ』編集長時代に連載された伝説のマンガ作品、糸井 重里+湯村輝彦「情熱のペンギンごはん」についての章を、限定再掲載いたします!
私は以前『クリネタ』っていうデザイン誌(故・長友啓典氏主宰のリトルマガジン)に鶴見俊輔さんの『限界芸術論』を、援用して「マージナル・アートってなんだろう?」っていう一文を書いてます。
いまここで、説明をしてるヒマがないんで割愛しますが、その中で「限界芸術を純粋芸術の文脈に引用した例」として、バスキアやキース・ヘリングの例を出しました。
分かりやすいからこの二人を例にしたんですが、私がほんとうにこの発明の第一人者だと思っているのは、限界芸術を大衆芸術の文脈に引用したスーパースター・湯村輝彦さんなんです。
いや、これじゃやっぱり不親切だ。限界芸術論の究極の簡単解説をちょっとしときましょう。鶴見さんは芸術を三つに分類した。
1 純粋芸術(ファイン・アート)
2 大衆芸術(ポピュラー・アート)
3 限界芸術(マージナル・アート)
そしてそれぞれの芸術の特徴を次のように定義したんです。
○純粋芸術(プロの芸術家がプロの受け手に向けてする芸術)
○大衆芸術(プロの芸術家がアマの受け手に向けてする芸術)
○限界芸術(アマの芸術家がアマの受け手に向けてする芸術)
そもそも芸術とは、「それに接することが、そのままたのしいような記号である」というのが鶴見さんの芸術論です。
バスキアは1977年ごろから、ニューヨークの地下鉄にいたずら書きをしていたんですが、これがつまり限界芸術ですね。キース・ヘリングがサブウェイドローイング(ってやっぱり地下鉄のいたずら書きですが)をしていたのも1980年くらいです。
どうですか、みなさん、わがテリー・ジョンソンこと湯村輝彦さんが、二人よりずっと先行していたことは、言うまでもないことじゃないですか。つまりマージナル・アートの活力をポピュラー・アートたる広告や雑誌イラストレーションやマンガの文脈に持ち込んだ張本人こそが「ヘタうま」の元祖・湯村輝彦さんだったということを、私は主張してます。
その絵の魅力について、わざわざ説明は無用です。湯村さん自身は、「和田誠さんを神のように」慕っていたとか、「プッシュ・ピン・スタジオの仕事にシゲキされていた」とかを「小自叙伝」と題した短い文章に記すだけで、ほとんど語ることがないし、何冊、作品集を出しても、受賞作や代表作といった「回顧的」な作品図版は一切載せない。
作品集の出た時点での最新作を掲載するばかりです。前回、安西水丸さんが、ポップアートのウォーホルが、途中で放り出してしまった面白さを発展させたのだ、という議論をしたのでしたが、それを「なんの苦もなく」ぬけぬけとやっていたのが湯村さんなのだ。
いや「なんの苦もなく」ではなかったかもしれない。その痕跡がキレイさっぱり消されてしまっているというだけだ。元気にたのしく、やらしくおもしろく、好き勝手にのびのび描いているところしか我々は見ていない。
そのようにしているから、湯村さんの絵はいつもたのしく、おもしろいのだった。
注意深く湯村さんの絵を見ていくと、たとえばアメリカの通俗的な雑誌の、俗っぽい広告の絵や、そのスタイル、薬やおもちゃのパッケージの引用にまじって、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインの絵が、インテリアの一部として、ゾンザイな感じで描かれていたりする。
そもそもが通俗的な日用品やマンガをモチーフにしたのがロイ(RL)やアンディ(AW)なわけだから、この引用は、つまりポップよりも先にいってしまったテリー(TJ)の余裕の引用なのだった。
どう先にいっていたのか? 漫画やスープ缶よりもっと過激に「便所のらくがき」のアナーキーな活力を、すなわちマージナル・アート(限界芸術)のエネルギーを注入したイラストレーションが湯村輝彦のイラストレーションなのだった。
もちろん、こんなふうな「分析」をしているのは、現時点の私であって、『ガロ』の編集者になった1972年から、なんとか湯村さんの絵を『ガロ』に載せたい、と私が思っていたのは、単に熱烈なファンとしての願いだった。
当時は、すでに林静一さんも、佐々木マキさんもつげ義春さんも、もう『ガロ』の現役ではなかった。なんとか描いてほしかったけれども。
同じようにファンとして、なんとか登場してもらいたくて、荒木経惟さんにはたらきかけたり、筒井康隆さんの旧作(マンガ)を再録させてもらったり、弟子の甘えで、赤瀬川原平さんや木村恒久さんに登場してもらったりしていたのだったが、湯村さんとは、なんのつてもつながりもなかった。
私はものすごく図々しいかと思うと、ものすごく引っ込み思案なのだ。湯村さんにマンガを描いてもらおう、という気持ちは入社した1972年から持っていたのだから、結局、実現までは4年かかったということになる。
『ガロ』に湯村輝彦のマンガが載るっていうのは『ガロ』につげさんのマンガが載り、それを見たマキさんや林さんが引きよせられたように、若い描き手がついてくるということだ、というのが私の考えだったけれども、それよりは自分の好きな絵を、自分の編集する雑誌に載せたいっていう単純な思いがまず第一だった。今思うと、私は和田誠さんの『話の特集』を『ガロ』で実現したかったのかもしれない。
直接のキッカケをつくってくれたのは、水丸さんだった。私は水丸さんにきっと自分の夢を何度も話していたのだろう。水丸さんはまだフリーのイラストレーターにはなっていなかったと思うけれども、湯村さんと知り合いになっていて「湯村さんも『ガロ』の読者だヨ」というのだった。びっくりした。
そして、湯村さんに会いにいくと、そこにもう糸井(重里)さんも、コンビになって一緒に待っていたのだった。我々はなんだか、会うなり打ちとけて笑っていたような気がする。
不条理マンガといわれた「ペンギンごはん」はいきなり大好評だった。あるいは、反発する人たちもあったのかもしれない。(あったはずだ)が、そういう声を私は聞きにいかなかった。もうものすごくマンゾクだったからだ。
一作だけでなく、糸井さんと湯村さんは、それからたくさんの漫画を描いてくださった。すべて原稿料はタダだ。その上湯村さんは、冒頭のカットに見るように『ガロ』の表紙も描いてくれるようになる。
ペンギンにもちんちんはついているのがあたりまえだし、ペンギンはパンツをはいていないんだから、それがむきだしなのもあたりまえだが、ペンギンのちんちんをわざわざ描く絵描きはいない。
「便所のらくがき」というのは、ふつうにいったら、絵に対しての侮蔑語である。それをあえてする。まるでそう言わせたいかのように描く。それが湯村輝彦の冗談みたいな芸術理論なのであって、それは冗談じゃなく、もっとも先頭を切っている芸術論だったのだと私は思っている。湯村さんが「限界芸術論」を読んでいるかどうか、そんなことは問題ではない。むしろアーチストとしての直観が哲学者と同じ結論を得ていたというべきだろう。その点についてはウォーホルもキース・へリングもバスキアも同じである。というよりアーチストならぬ哲学者・鶴見俊輔の卓見こそがおそるべきものなのだと私は思う。
湯村さんと糸井さんのペンギンを見てマンガを描き出した、という人々の話を聞くと、私はものすごくウレシイ。
日本のマンガにとっても、イラストレーションにとっても『ペンギンごはん』の出現はエポックメイキングなことだったし、日本のイラストレーション史の重要な一ページだった。私がしたのは単に図々しくおずおずと、タダで原稿を描いていただいたにすぎないんだけど。
(了)
【原画展&トークイベント】
私のイラストレーション史原画展
会期:2019年6年14日(金)~2019年8月4日(日)
会場:NADiff modern
詳細:http://www.nadiff.com/?p=14046
南伸坊×糸井重里「私たちのイラストレーション史」
日時:2019年7月6日(土)13:30受付開始、14:00開演
会場:Bunkamura特設会場
定員:150名
料金:2944円(参加費1000円+新刊「私のイラストレーション史」1944円)
予約:https://my.bunkamura.co.jp/ticket/ProgramDetail/index/3024