旅の食卓 池内紀

2016.3.10

21屋久島の焼酎

 前に来たとき学んだことだが、屋久島は少しいびつな円形をしていて、中央部は山、町と集落は円周部にある。地名を丸い時計の数字盤になぞらえると覚えやすい。つまり船便の中心の宮之浦港は1時にあたり、空港と町役場のあるところは3時、第二の港の安房港は4時、尾之間は6時、海中温泉のあるところが7時、西側の主な集落である粟生が8時、大川の滝が9時、わずかばかし水田のある永田が11時、北端の矢筈崎が正午。
 手書きの時計地図を取り出してながめていると、写真家がのぞきこんで、「アイディアだ」とほめてくれた。そして指でおさえた。天然杉の分布は中心部の山地の標高500メートル付近から山頂近くまでつづき、ほぼ全山に及んでいる。宮之浦岳は標高一九三六メートルあって、年平均気温7〜8℃と冷温帯にちかい。平地は亜熱帯気候であって、海沿いの平地から北海道なみの山頂まで、いうところの植物の「垂直分布」が見てとれる――
 オヤオヤ、厄介なところへ来たと後悔した。2000メートルちかい山は御免こうむりたいし、宮之浦岳は「日本百名山」の一つとあって、百名山狙いがワンサとやってくるのだ。なろうことなら海辺の亜熱帯をウロついていたいものではないか。
 その夜、宮之浦の宿にちかい居酒屋で焼酎を飲んだ。「黒糖(こくとう)」といってソテツの実でつくる。三〇〜四〇度と強いのを、水で割っておカンをして、チビリチビリやる。口あたりがよくて、ついゴクリとやりたいが、するとたちまち酔っ払う。
 料理は豚骨(とんこつ)が出た。沖縄と同じようだが、やはりちがうそうだ。どこがどうちがうのかわからないが、屋久島の人にはひと口でわかるらしい。豚肉を鍋でいためるとき、焼酎をかける。それから熱湯で油を抜いて、味噌仕立てでコトコトと煮る。この間の手続きにちがいがあるのだろう。相客が言うには、とにかく焼酎の肴は豚骨にかぎる。
 「水がいい」
  と、その人は力説した。水がいいので屋久島の焼酎は格別にうまい。ためしにおヒヤをいただいたが、なるほど、うまい。昔の殿さまなら「甘露(かんろ)甘露」と言っただろう。山の水をポリタンクにつめてくる。人手のある家は、みんなそうしている。山の水を飲んでいると、水道の水など、飲めたものではない。東京の水道水は、あれはドブ水じゃないのか。
 翌日は4時の位置の安房から行けるところまで車で入り、それから小杉谷をめざした。渓流沿いに登っていく。しばらくはシイかカシの照葉樹林帯で、標高500メートルをこえるあたりからツゲがあらわれ、杉が点々と姿を見せ始めた。針葉樹と広葉樹のまじった、いわゆる「針広混交林」である。日本の山の植生の原形で、その点では屋久島も同じだが、ここでは1800メートルをこえるあたりにも杉が分布しており、それがほかにない特徴だという。高地では里のように、まっすぐ高々とのびるのではなく、萎縮して奇形化する。有名な縄文杉は標高1300メートルのところにあって、幹の太さのわりに樹高はさほどない。ゴツゴツしたコブが盛り上がり、まこと異様な姿をしている。現在、確認されている屋久杉のなかで最大のもので、宮之浦岳の前山の尾根筋にちかい斜面にあって、ながらく知られていなかった。昭和四十一年(一九六五)、当時の上屋久町役場の職員が発表。一躍脚光をあびた。メジャーを幹にあてがって計尺している写真を見たが、人間が豆つぶのようで、途方もなく大きいことがよくわかった。
 屋久杉の伐採が本格化したのは江戸時代初期からで、いろいろな用途をおびていたが、なかでも屋根材に使われる平木(ひらぎ)は重要だった。屋久杉で屋根を葺くと、何百年も腐らないと言われた。米ができない島は、薩摩藩への年貢を平木で収めた。平木2310枚が米一俵だった。気の遠くなるような数量からも税の苛酷さが見てとれる。
 だから素姓のいい木でないと平木づくりの作業がはかどらない。伐採されずにのこったのが巨木となった。割り加工に不適当な異形をしていたせいである。
 この夜もたっぷり焼酎をいただいた。いくら飲んでも味がかわらず、またいくらでも飲めそうなのがフシギである。二夜つづきの豚骨は辛いので、このたびは正流派のタイ。イシダイにマダイにホタ。
 「ホタ?」
 アオダイのこと。屋久島近海ではサバがどっさりとれるので、カツオブシならぬサバブシを加工している。
 「明日の縄文杉はどうしますか?」
 山歩きは卒業した気分なので、パスすることにした。縄文はともかく弥生杉は見たので、もう十分。三本足杉というのもあって、なぜか根元が三つに分かれて大きく張り出していた。「ヤクスギランド」と呼ばれる群生地には、くぐり杉、仏陀杉、双子杉、岩戸杉、蛇紋杉……試し切りのあとがあるのもあって、「不合格」とされたのが天を覆うまでに成長した。