旅の食卓 池内紀

2016.3.10

21屋久島の焼酎

 翌朝、友人と別れて、タクシーでゆっくり東海岸の道を走ってもらった。船行、安房、麦生、原、尾之間。懐かしい気がするのは、林芙美子の「屋久島紀行」でなじんでいたからである。小説「浮雲」を構想中、舞台となる屋久島の取材に来た。戦争が終わって五年目の昭和二十五年(一九五〇)のこと。どうして屋久島を舞台にしようと思い立ったのかは不明だが、当時の占領下の日本では、ここが一番南のはずれの島だった。戦争による心の傷に苦しむ主人公に、南の辺境でやすらぎを見つけさせたいと思ったものか。
 先立って発表された紀行記がくわしく語っているが、林芙美子は安房の港から、はじめて島を見上げた。
 「凄い山の姿である。うっとうしいほどの曇天に変わり、山々の頂きには霧がまいていた。全く、無数の山岳が重畳と盛り上がっている」
 おりあしく風邪気味で、辛い旅になった。寒け、また頭痛がする。「島の薬屋でソボリンとノーシンを買った」などの記述が入ってくる。「昏々として躯(からだ)が沈みこみそうである」とも述べている。もしかすると風邪だけではなかったのかもしれない。当人は知る由もなかったが、翌年六月、作家林芙美子は心臓マヒで急逝した。何らかの兆しがあったのだろうか。そういえば紀行記に不似合いなこんな言葉がまじりこむ。
 「何となく追われる気がして、この思いは、奇異な現象である」
 「熱っぽくて何事にも興味がない」
 「どうすればいいのか判らないような、荒漠とした思いが、胸の中に吹き込む」
 安房から尾之間まで四里。そのころはタクシーなんてものはなく、トラックの運送店に交渉して、一度も使ったことのないバスで走ってもらうことにした。道路は「田をこねかえした」ようだし、橋が腐っていて、下は深い谷間なのだ。そろそろ渡るたびに胆を冷やした。原の学校をかすめると、子供たちがバスを追いかけてきた。運転手によれば、トラックが通ると、子供は二里でも三里でも走ってついてくる。
 「子供はみな裸足だった」
 四里あまりを二時間かかって到着。リチギ者の林芙美子は頭痛・咳こみをこらえながら、自分を奮い立たせるようにして取材にまわった。萱ぶきの工場では甘蔗を煮立てて黒砂糖をつくっている。一斤につき十八円の消費税、さらに所得税を取られるので手元にはなにものこらない。前夜に彼女は宿でひらかれていた税務官吏の酒宴のようすをながめていた。夜ふけに女の迎えがあって官吏がドヤドヤと出ていき、明け方にもどってきたことも書きそえた。
 「私はひどく疲れているのを感じた。麦束を背に負った、裸足の娘に行きあった。女のよく働くところである」
 海は荒れていて、白い鳥が海原を走っているように見えたというが、こころなしか、末期の目に映った風景のように読める。
 小説「浮雲」は死の二ヶ月前に出た。敗戦とともに仏印(インドシナ)から帰ってきた主人公が屋久島にやってくる。傷ついた心を「見捨てられた島」の豊饒な自然と淳朴な人々が迎えてくれる。鹿児島はもともと、貧しい行商人の娘芙美子が、幼い日を過ごしたところであって、「桜島で幼時を送った私も、石ころ道を裸足でそだったのだ」。「裸足」が何度も出てくるのは、自分とかさなる一点だったせいだろう。ともあれ、もはやすべては夢のような気がして、それで紀行記に詩をまじえたのかもしれない。

  屋久島は山と娘をかかえて重たい島
  素足の娘と子供は足の裏が白い
  柔い砂地はカンバスのようだ
  遠慮がちに娘は笑う

 尾之間でタクシーに待ってもらって、共同湯に立ち寄った。男湯は無人だったが、女湯では、にぎやかな声がしていた。ポンカンやトビウオが話題になっているらしい。
 「尾之間には温泉もあると聞いた」
 温泉好きの林芙美子は湯に入りたかったが、風邪を考えてやめにした。もし入っていれば、たくましい島の女たちの体を見て、大いによろこんだのではあるまいか。