「聞き流す、人類学。」に、ティム・インゴルドさんが出演されています。最新刊『世代とは何か』でも話題の人類学の巨人、その生の姿を、ぜひご覧ください。
「夢は叶う:人類学者ティム・インゴルド独占インタビュー」
人類学者・奥野克巳さんに、インゴルドの重要概念についてインタビューした回もインゴルド入門として必見です。
「いまこそ知っておくべき! 人類学者ティム・インゴルド重要概念」
「訳者解説:『世代とは何か』」
さて、奥野克巳さんは、フィールドワークについてどう考えているのか。フィールドワークとは何か。このページで検討していきます。題して、「明るいフィールドワーク」。
第1回は、「フィールドワークの百年を手短に振り返る」です。お楽しみください!
数年間、世界という書物の中で研究し、何らかの実験成果を獲得しようと努めた後、ある日、私は、私自身のうちでも研究し、私の精神の全力をあげて、従う道を選ぼう、と決心した。わが国とわが書物から遠ざかったからこそ私はそれをうまく成し遂げられたと思われるのである。
(ルネ・デカルト『方法叙説』小泉義之訳、講談社学芸文庫、二〇二二年、一八頁)
- 人類学を作った男
現代人類学の祖とされるブラニスワフ・マリノフスキは、一八八四年にポーランドの古都クラクフで生まれました。ジェイムズ・フレイザーの『金枝篇』を読んで人類学に興味を抱くようになったマリノフスキは、一九一〇年にイギリスに渡り、ロンドン・スクール・エコノミクスの大学院に入学します。
そこで彼は、その年に『英領ニューギニアのメラネシア人』を刊行したばかりの民族学者チャールズ・ガブリエル・セリグマンや、幼少期にともに育った男女同士は性感情を持たなくなるという「ウェスターマーク効果」の提唱者エドワード・ウェスターマークに師事しました。彼らのもとで学んだマリノフスキは、その後一九一三年に『オーストラリア先住民の家族』というタイトルの論文で博士号を取得し、同年それを出版しています。
当時の一般的な流儀に基づいて、彼の博士論文は異国の人々について記されたものであり、もっぱら文献研究によって書かれたものでした。しかし、マリノフスキは博士論文を書き終えたあたりから、人類学の論文を仕上げるには文献だけに頼った研究では限界があると感じるようになったようです。
彼は、文献でしか知り得ないオーストラリアの先住民に実際に会って、自身の目で真実を確かめたいという気持ちを次第に抱くようになったといいます。そう思うようになった彼は、奨学金を出願し、運よく採択されます。
オーストラリアに渡ったのは、一九一四年のことでした。その年にちょうど第一次世界大戦が勃発します。オーストラリアの敵国人にあたるオーストリア国籍のマリノフスキには収容される可能性もありましたが、オーストラリア政府から保護観察処分とされます。さらに、マリノフスキが希望すれば現地調査の許可を出してもいいとされ、調査資金の提供まで受ける幸運に恵まれました。
人類学の研究を進めるには現地に行って実際に会ってみなければならないという思いを抱くようになったマリノフスキは、この機会を活かしてニューギニアに出かけ、長期のフィールドワークを行いました。十七世紀に活躍した哲学者ルネ・デカルトが高等教育を終えた段階で文献研究から得られる認識に疑いを抱き、いったん文献研究から全面的に離れたように、マリノフスキもまた文献だけによる研究に物足りなさを感じ、オーストラリアのその先にあるニューギニアに足を踏み入れたのです。
- マリノフスキ、ザ・フィールドワーカー
その後、マリノフスキは計六年間にわたって三回の現地調査を実施しています。最初のフィールドワークは一九一五年にマイルー島で約六か月、その後、ニューギニア島北東沿岸沖のトロブリアンド諸島(現在のキリウィナ諸島)で、一九一五〜一六年と一九一七〜一八年の二回に分けて、計二年間にわたってフィールドワークを行いました。
彼の師でもあったセリグマンや、アメリカ人類学の祖となったフランツ・ボアズなど、マリノフスキ以前にフィールドワークを行った人類学者はいましたが、マリノフスキは調査方法の原理を示しながら「科学的手法」としてのフィールドワークを広めた点で、現場主義に徹した最初の人類学者でした。マリノフスキは、現地の人々が行う行事や儀礼、仕事、その他様々な出来事に実際に参加(参与)しながら観察を行う「参与観察」というスタイルに基づいてフィールドワークを進めることを強調しました。
フィールドワークを終えてイギリスに戻ったマリノフスキは、現地に住む人々の暮らしを「民族誌(エスノグラフィー)」の中に生き生きと描き出しました。彼は、どこに住む誰が汗を流して働いたり、海を越えてカヌーで航海するために作業したり、呪文を唱えたりするという記述のスタイルを採用しました。民族誌とは、そのもともとの意味として、ある人々(エスノ)に関して体系的に理解できるように書かれた記述(グラフィー)のことです。民族誌は通常、宗教や政治、経済、音楽などの特定のトピックのもとに書かれます。
- オリエンタリズム・ショック
マリノフスキが始めた、なじみの薄い異文化の地でのフィールドワークは、その後、人類学の手法の基礎に位置づけられ、人類学の発展の原動力となりました。マリノフスキ以降、人類学者は地球上の様々な場所に散らばり、参与観察に基づく長期のフィールドワークを行い、帰国後に民族誌を書いたのです。そして、そのような民族誌が次第に蓄積されていくことになります。
しかし、民族誌はやがて理論的・実践的な転換期を迎えます。フィールドワークに基づく人類学の再考の流れの中で、民族誌がクローズアップされ、批判的検討の対象となったのです。マリノフスキが『西太平洋の遠洋航海者』(原著一九二二年)という記念碑的な民族誌を刊行してから六十年が経った一九八〇年代のことです。
きっかけは、イスラーム学者エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(原著一九七八年、邦訳一九八六年)の刊行でした。サイードはその著書の中で、西洋がこれまで東洋、特に中東・イスラーム世界に対して、小説や紀行文、研究書の中で優劣の価値判断を行った上で、一方的に表象してきたと論じました。サイードのその議論は、人文・社会諸科学に多大な影響を与えました。中でも人類学者や地域研究者は、文化表象だけでなく、権力構造にかかわる「オリエンタリズム」の問題提起を重く受け止め、自らの課題として引き受けたのです。
人類学者は調査地で経験し、生きられた現実を切り抜き、加工して民族誌を「書き上げて」きました。民族誌の制作の過程で、フィールドで経験された現実と、帰国後に机上で意味を与えられた民族誌という二本の「火柱」のようなものが、人類学の内側から赤々と立ち上がるのです。それらの火柱は、調査地の「現実」と「フィクション」と言い換えてもいいでしょう。
サイードのオリエンタリズムの問題提起は、マリノフスキ以降の人類学者が当たり前のように行ってきた営為に、二つの側面があるという事実を浮き彫りにしました。その結果、民族誌がフィクションであるという事実が、マリノフスキによる現代人類学の創始以来、長い間隠蔽されてきたことが明るみにされたのです。
- 俯いて、自らを見つめ直すべき:再帰人類学の時代
こうした議論の積み上げの中で、ジェイムズ・クリフォードとジョージ・マーカスらは、民族誌は人類学者が作り出した「創作作品」にすぎないと断じました(ジェイムズ・クリフォード、ジョージ・マーカス編『文化を書く』春日直樹ほか訳、紀伊國屋書店、一九九六年)。彼らは、フィールドワークは客観的な科学ではなく、民族誌は主観やレトリックを駆使して作り出されたフィクションだと主張したのです。
ほどなくして、フィクションが目の敵にされるようになりました。民族誌の中にフィクションの断片が発見され、糾弾されるようになったのです。「彼は〇〇族である」とでも書くならば、それはフィクションではないのかと「粛清」する過激派も現れました。フランス革命において「サン・キュロット」と呼ばれた急進主義者が登場して粛清と内ゲバに暴走したように、人類学でも同様の動きが起きました。人類学の「サン・キュロット」たちは、その後、現実それ自体を放棄せざるを得ないという虚無主義的な思想を生み出し、哀れなことに、やがてその思想の重みに耐えきれず崩壊していったのです(松田素二「『人類学の危機』と戦術的リアリズムの可能性」『社会人類学年報』二二:二三-四八、弘文堂、一九九六年)。
逆に、なんとかしてフィクションを乗り越えようとする試みも現れました。フィールドの現実をフィクションに仕立てるのではなく、現実を現実のまま取り出すための涙ぐましい努力が行われるようになったのです。一部の人類学者たちは、調査地での長々とした語りや会話をそのまま引用し、フィールドの人々の多数の声を民族誌に取り入れました。そうすることによって、多分に主観が入り込むためにフィクションにすぎないと評される民族誌を、客観的な科学として立ち直らせようとしました。それらは「実験的民族誌」と呼ばれています。しかし、しょせん実験は、実験でしかありえませんでした。
一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、人類学者はこのように民族誌を俎上に載せて検討を重ねました。いわゆる人類学の「ポストモダン」です。引き続き、人類学の学問としての「政治性」が検討されるのですが、それは人類学の「ポストコロニアル」と呼ばれました。「ポストモダン」や「ポストコロニアル」を含めて、人類学者が内向きに、自らの学問の活動を猛省していた時代のことを、今日「再帰人類学」の時代と呼んでいます。
これがフィールドワーク、民族誌、文化を書くことに対する人類学の自己反省の「第一波」の概要です。サイードのオリエンタリズムが容赦なく人類学に襲いかかり、すさまじい嵐を巻き起こしました。二〇〇〇年前後のことですが、「この嵐、早く去ってくれないかなあ!」と言っている人類学者が私の周囲にはたくさんいました。「人類学はもう終わった学問だ!」と隣接学問研究者から言われたこともありました。
- 暗いフィールドワーク、明るいフィールドワーク
強風吹き荒れる人類学の自己反省の「第一波」は、果たしてそんなに激しく「無産的」なものだったのでしょうか? 必ずしもそうだったとは断定できないように思えます。再帰人類学を経て、グローバル化がもたらす複雑な文化状況の中で、人類学はテクノサイエンス、サイバースペース、災害復興、バイオテクノロジーなどの領域へと自らを拡張し、アイデンティティ、公共性、科学と社会という、それまでにはなかった重要なテーマを手に入れました。
民族誌に限って言えば、様々な議論を経て、「ネイティヴ・エスノグラフィー」「マルチサイテッド・エスノグラフィー」「オートエスノグラフィー」など、多様な民族誌の可能性が示されるようになりました。ネイティヴ・エスノグラフィーとは、ネイティヴである調査者が自分の所属集団を集団の内側から調査して記述する民族誌です。マルチサイテッド・エスノグラフィーは、複数の場所を横断する文化現象を調査して記述する民族誌です。オートエスノグラフィーは、調査者が自身を研究対象として、自らの主観的な経験を取り上げて再帰的に記述する民族誌です。
本連載の主題であるフィールドワークに関して言えば、サイードがもたらしたオリエンタリズム・ショックから四十年を経た現在でも、フィールドワークをめぐる著作はなお増加傾向にあるように思えます。フィールドワークは、世界を肌で知る大切な手法として、各方面でますますもてはやされているのです。その分厚い研究群は、「フィールドワーク論」というよりも、「フィールドワーク学」と呼ぶのがふさわしいように思えます。
これらの一連のフィールドワークをめぐる議論に関して、私自身は情けないことに、何かを述べたり、付け加えたりする論点を持ち合わせていません。その代わりにと言ってはなんですが、この連載では、現代のイギリスの人類学者ティム・インゴルドの所説を導きの糸としながら、フィールドワークについて考えていきたいと思います。それは、人類学の自己反省の「第二波」に、フィールドワークに関心のある読者をお誘いする試みです。
上で見た人類学の自己反省の「第一波」に対して、インゴルドはその「第二波」を引き起こしたと言えるでしょう。「第一波」が人類学のやっていることの「形式」面での反省と検討だったのに対し、「第二波」は人類学がやってきたことの本質を見誤っていることに対する反省と検討です。「第一波」が人類学をいったん閉ざし、みなが俯いて反省モードに入ったのに対して、「第二波」は人類学の大事な部分を再発見し、反省の先にフィールドワークと人類学を進めようという気分になるようなものです。
「第一波」が「暗いフィールドワーク」なら、「第二波」は「明るいフィールドワーク」と呼べるかもしれません。
この連載では、インゴルドの人類学をめぐる思索に出入りしながら、現在進行中だと思われるアカデミックな「フィールドワーク学」からいくぶん距離を置きつつ、私自身が過去三十年にわたって携わってきたフィールドワークを振り返ってみようと思います。特に、近年新たに行なうようになった個人的な試みを紹介しつつ、フィールドワークとはいったい何であるのかを探っていきます。
- 人々とよい関係を築きなさい
いったん、話を再帰人類学以前に戻します。近年の新しいフィールドワーク論(学)では強調されることはほとんどなくなってきているのですが、フィールドに入り込んだ時に調査者が採らなければならない態度として大事だとされてきたのが、「ラポール(rapport)」です。それは、フィールドワークを行なう調査者と被調査者の良好な関係のことです。
例えば、人類学の教科書では、以下のように書かれています。
調査においては、現地の人々とラポール(親密さ)をつくることが大切である。これがないと、面接した場合、表面的な資料しか得られない。
(蒲生正男・祖父江孝男編『文化人類学』有斐閣双書、一九六七年、一七三頁)
ラポールとは、調査者とインフォーマントの信頼関係のことです。調査者からすれば、調査をする上で打ち解けた間柄でないと、その人々のことを知ることはできないはずですし、調査される側から見ても、気心が知れないよそ者に知っていることを明かそうとは思わないでしょう。
では、このラポールはフィールドワークの中にどのように位置づけられていたのでしょうか? 他の教科書をのぞいてみましょう。
フィールドノートに記録される資料は、現地の人々の行動の直接の観察や、インフォーマント、つまり人類学者に話を提供してくれる人々の話が中心である。このような資料収集の方法は、参与観察、つまり参加による観察と呼ばれ、調査者自身が現地の『生活にとけ込み』、ラポール、つまり現地の人々の間に信頼感のある親密な関係を生み出すことが強調される。
(山下晋司・船曳建夫編『文化人類学キーワード』有斐閣双書、一九九七年、二頁)
フィールドノートには、主にインフォーマントの話が記録されます。フィールドでは、調査者が現地の暮らしにとけ込み、現地の人々との間にラポールを構築して、参与観察を進める必要があるのです。こうした説明が、一般にフィールドワークにおける重要な調査者の態度としてのラポールに対して与えられてきました。つまり、フィールドワークをうまく進めていくには、まずは現地の人たちと良好な関係を築きなさいというわけです。
至極当然なフィールドワーク論です。調査地の人たちと良好な関係を築くことが、フィールドワークを進めるために重要な条件だ――これ以上見事なフィールドワークの「教え」が他にあるでしょうか? ところが、現代のイギリスの人類学者インゴルドが登場すると、事情は一変します。
- インゴルドの明るいフィールドワークへ
上のような、マリノフスキ以降に習慣的に語られてきたものとは違うフィールドワークのあり方を唱える人類学者がいます。それがインゴルドです。まずは、インゴルドがフィールドワークを基盤に据える人類学について、どんなことを言っているのかを手短に見ておきましょう。
インゴルドは、なじみの薄い土地に出かけていって、そこで営まれている人々の「生」を取り上げるのが人類学だと言います。インゴルドの言う「生」とは、名詞的な生ではありません。動詞の「生きている」ことです。人々の生きるさま、生きている流れそのものが人類学のテーマだと言うのです。それは、静止画像ではなく、動画的なものだと言ってもいいかもしれません。
一言で言えば、何が起こるか分からない現実をなんとか乗り切っていこうとする人々の動きを生け捕りにしようとするのが、インゴルドの人類学です。彼は、人間が「生きている」ことを、行き先の決まった「目的論」的なプロセスではなく、行き先が常に更新され、宙に投げ出される流転するプロセスだと捉えています。
えっ、なんだか当たり前のことを言っていると思うかもしれません。そんなこと今さら言わなければならないことなのかとも考えられます。いや、なんか言っていることがまどろっこしいと思うかもしれません。人類学ってなんなのと、頭が混乱しそうになるかもしれません。インゴルドは、なんだかわけのわからない人類学者だなあ!
インゴルドを読み始めた時の多くの人たちの印象は、だいたいそんな感じです。私自身もそうでしたが、インゴルドはなんでそんなふうに言わなければならないのか、最初は全然しっくりきません。でも、言っていることがある時ふと腑に落ち、いったん分かってくると、その後、雪崩のように彼の言葉が響いてくるタイプの研究者なのです。ですので、もう少し辛抱強く、インゴルドの言っていることを聞き取ってみてもらえればと思います。
上述した点を踏まえて(とは言っても、あまりしっくりと来てないかもしれませんが)、インゴルドは「人間らしさ」を以下のようなものだと言います。
人間らしさは、最初から与えられるものではないし、また決して完成されるものでもない。それは生が続く限り、諸々の世代が縄のように絡みあっていく中で、継続的に働きかけ続けた生産的な成果として生じる。
(ティム・インゴルド『世代とは何か』奥野克巳・鹿野マティアス訳、亜紀書房、二〇二四年、一二〇頁)
人間らしさは、人間の生が続いていく中で生み出される生産的な成果だと言うのです。その意味で、インゴルドの人類学では、動詞的な「生きている」ことが主題化されることになります。その延長線上に彼は、世界で起きていることに耳を澄まして学ぶことから、生きていく方法を探り出すことを、人類学の核心部分に位置づけています。
インゴルドは、人間が「生きている」さまを、それが生み出されるプロセスに沿って探ろうとします。これまで「異文化理解の学問だ」「人間探究の学知だ」と言われてきた人類学を、こうはっきりと別のかたちで定義した人類学者って、果たしてこれまでいたでしょうか?
これだけで、インゴルドは、なんだかただならぬ気配を漂わせている人類学者だと思いませんか? こんな彼を、私は「明るいフィールドワーク」の導き手だと考えています。さて、「明るいフィールドワーク」とは一体何か?それが、今後の連載で追究していくテーマです。次回は、革新的なインゴルド流の人類学について話したいと思います。インゴルドがフィールドワークをどのようなものとして捉えているのかについて話をしてみようと思います。