「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2020.1.16

10ひとは何のために命を賭けるのか――カントともうひとつのアンチノミー


 コギトに〈他者〉の欲望の問いを見いだすラカンの読みを追いかけることで、私たちは、精神分析の原動力である「転移」の問題にたどり着いた。ここまでの議論は、結局のところ次のような基本的な問いの周りをまわっていたということもできるかもしれない。欲望はいったい何に根拠をもつのか、何かを欲望するというのはどういうことなのか、という問いである。
 いうまでもなく、私たちの行動にはすべて私たちの欲望がかかわっている。だから、「欲望とは何か」という問題を真剣に突き詰めていくと、意志や行動原理といった、私たちが日頃当たり前に前提としている事柄もおのずと問い直されることになる。
 ところで、日本語で「欲望」というと、何かよろしくないもの、理性でコントロールしなければならないものといった、一面的であまり中身のない意味合いで用いられることがいまだに多いようだ。「意志の自由」をめぐってイマヌエル・カントが持ち出してくる突飛な例は、しかし、「欲望」につきまとうこのような通俗的なイメージにぴったりである(ただしカントがここで用いているのは、「欲望」ではなく「情欲の傾向性(wollüstigen Neigung)」という言葉だ)。カントは、『実践理性批判』(1788年)のなかで、人間はどうやって「自由」を認識できるのか、ということを次の例で説明している。
(1)ひとりの男が、気に入った相手が目の前にいて「ものにする」チャンスが訪れたら、自身の「情欲の傾向性」には抗えない、と公言している。では次のような条件のもとではどうか。この男の意中の相手は家のなかで待っているが、家の前には絞首台があって、男がそこに入って情事に及んだが最後、彼はそこで処刑されることになっている。このことがわかっていてもなお、男はことに及ぶだろうか――そうカントは問いかける。もちろん否だとこの哲学者は言いたいわけである。
 この例は、さらにもうひとつの例とセットになっている。
(2)ある残忍な君主が、ひとりの誠実な人物を殺害する口実を得るために、別の人間に嘘の証言を行うよう脅迫する。偽証を拒否すれば、彼自身が君主に殺されてしまう。この場合、偽証を要求された者は、あくまでもみずからの命を優先するだろうか。それとも自身が犠牲になることを選ぶだろうか。カントの答えはこうだ――「偽証するか否か、これを問われた者は思い切って確言することはできないだろう。しかし彼は、偽証しないことも可能であるとはためらわずに認めるにちがいない」[1]
 (1)で示されるのは、「情欲」からの自由、すなわち合理的な判断をするために不純な動機に振り回されない自由である。そして、カントにとってより重要な(2)の例は、いかなる状況にあっても真実に忠実であり、他者の生命を不当に侵害することをみずからに許さないという道徳的意志によって、自身の生命への執着から自由になる可能性を示している。
 カントのいう「道徳法則」とは、いついかなるときでも「為すべきことを為す」という原理であって、この原理を遵守することによってはじめて、人間はみずからのうちに自由を認めることができる。このように、どんな条件づけも受けない――つまり誰でも、いつどこにいても、どんな場合でも従わなければならない――義務のことを「定言命法」と呼ぶ。人間はつねに個別の状況に左右されるし、個人的な関心事に絶えず振り回される(うえの例に即していえば、身体をもち、性的欲求に衝き動かされる)。これは有限な存在者としての人間を規定する条件である。自由意志を持つということは、こうした条件のいっさいを括弧に入れて、純粋に自律的な原理(=道徳法則)を持つということだ。カントの名高い定式を確認しておこう。

自由はたしかに道徳法則のratio essendi(存在根拠)であるが、道徳法則は自由のratio cognoscendi(認識根拠)である。[2]


 カントにいわせれば、法は、一般にイメージされるように、自由を拘束するもの、あるいは自由に対立するものではない。むしろその反対に、自由こそが法を根拠づけ、法こそが私たちに自由を教える、というのだ(逆にいえば、道徳法則がなければ、私たちは自由を認識することも、それどころか想像することさえできない)。うえでみた二つ目の例はまさに、自由と法は表裏一体であるというカント倫理学の根本原則を示している。
 さて、カントがふたつの例をセットで提示していることに立ち返るならば、両者のあいだには決定的な非対称性があるということに気付かされる。死の位置づけの非対称である。(1)では、死の恐怖が情欲を抑制するファクターとして位置づけられる。したがって死の回避というモチーフがなければこの例は成り立たない。これに対して(2)では、みずから死を引き受けることこそが道徳的経験をもたらし、自由の証明となる。死を回避するか、引き受けるか。それが問題だ。


***



 ラカンは、『精神分析の倫理』(1959‐1960年)のセミネールで『実践理性批判』を独自に読解し、カントがアリストテレス以来の伝統的な倫理学に切断をもたらしたことを評価しつつ、同時に、その限界をさまざまな角度から検証している。そのなかにはうえのふたつの例への言及もある。まずは、ラカンがカントの議論を皮肉りながらまとめている発言をみてみよう。

親愛なるカント氏は、まったく無邪気に、つまり彼流の無邪気なしたたかさで、次のように述べている。前者のケースにおいては、良識を備えた人間なら誰でも、否と言うだろう。誰も女性と一夜を過ごすために致命的な末路へと突き進むなどという狂気じみたまねはしないだろう〔…〕。
もうひとつのケースでは、嘘の証言によってもたらされる快にどれほどの重みがあろうとも、あるいはそうした証言の拒否に約束された刑の耐えがたさがどんなものであろうとも、少なくとも次のことがわかる。すなわち、主体は立ち止まるということ、彼には葛藤が生じるということである。さらには、嘘の証言をするよりむしろ、主体は定言命法の名のもとに死をみずから受け入れようとするだろうということまでも。[3]


 この口ぶりからも、ラカンがカントの論証に満足していないことはあきらかだろう。ラカンが関心を惹かれたのは、どちらかといえば(1)のほうであるようだ。カントは「まったく無邪気」だと言い放つラカンの念頭にあるのは、カントの述べるところとは反対に、死を賭して情事を選ぶ主体が存在しうるということである。もちろん、ここで先に指摘した非対称がポイントとなる。(1)のケースを、(2)と同様、死の回避ではなく受け入れというモチーフで考えてみたらどうなるか。カント自身が示す(2)が、(1)の前提を突き崩している、というのがラカンの読みである。
 つまりこういうことだ。
 葛藤の末にみずからの命を投げ出して道徳的決断に踏み切る主体がいるのであれば、それと同じ論理でもって、最期の情事へと踏み出す主体がいてもなんら不思議はない。少なくとも、カントがふたつの例の組み合わせからそうした可能性にまったく思い至らなかったのだとすれば、なるほどそれは「まったく無邪気」だと言わざるをえないだろう。こうして(1)と(2)の関係をひっくり返すことでカントの盲点を突くラカンの発想は、いくつかの重大な帰結へと繋がっている。
 冒頭で述べたように、カントの説明は、欲望を道徳に対するたんなる不純物とみなす通俗的なイメージと親和的である。つまり、そこでは道徳法則と欲望とが単純な対立関係に置かれている。ひるがえってラカンは、この対立関係そのものを無効にする方向に舵を切る。というのも、(1)のケースで欲望が死を受け入れるところまで突き進み、それが(2)の決断、道徳法則の定言命法の名のもとに死を選ぶという決断と等しい価値をもつならば、それはつまるところ、欲望と法(=道徳法則)がパラレルな関係にあるということにほかならないからである。
 実際ラカンは、「カントとサド」(1963年)のなかでは、簡潔に次のように書いている。「法と抑圧された欲望とはひとつの同じものである。これはフロイトの発見したことだ」[4]。抑圧された欲望、すなわち精神分析が扱うべき無意識の欲望は、カントのいう道徳法則と同じく、無条件的な法として機能し、主体の行動原理となる。ただし、欲望をひとつの法にまで高め、それをとことん突き詰める道は、決して心安らかなものではない。ラカンが死の受け入れという極限的な経験を蝶番として(1)と(2)のケースをつなぎ合わせていることは、決して偶然ではない。


***



 では、私たちが日々生きているあれやこれやの欲望は、果たしてカント=ラカンのケースのような致死的な経験とただちに結びついているだろうか。いうまでもなく否である。思わずため息が出るような素敵な食事にせよ、華やかな性生活にせよ、私たちの欲望を誘う物事の多くは、その時々で甘やかに心身を満たしはしても、少し時間が経てばたまに思い出す程度のありふれた記憶のひとつに収まってゆく。こうした欲望の日常的なあり方と、法と同一視される欲望の先鋭的なあり方の関係はどうなっているのか。もう少し『精神分析の倫理』でのラカンの発言を追ってみよう。

ここで立ち止まってみること、そしてまさに次の点において批判を差し向けることができるのではないだろうか。すなわち、これらの例の一見したところはっとするような射程は、逆説的にも、女性と一夜を過ごすことがひとつの快として、つまり耐えるべき刑〔=苦痛〕と天秤にかけられた何かとして、両者を均質化するひとつの対立構造のなかで提示されることによって成り立っているという点である。[5]


 まずは議論の前提を少し確認しなくてはならない。ラカンがここで念頭に置いているのは、フロイトのいう「快原理」である。フロイトは快/不快をエネルギー論的に定義し、前者を緊張や興奮の解消、後者をその高まりとみなした。ポイントは、このような見方によって、快と不快が量的な増減というひとつの軸のもとで(あたかも目盛が上がったり下がったりするかのように)とらえられる、ということだ。快原理とは、文字通り、以上のように定義された快を追求し、不快を回避しようとする根源的な傾向――これをカントのいう「傾向性(Neigung)」と重ねてみることもできるだろう――のことである。
 ラカンの考えでは、死を目前に見据えつつ意中の女性と事に及ぶという経験を、カントはたんなる「快(Lust、plaisir)」の経験とみなしている。そして、カントが情事とそのあと待っている死刑とのあいだで設定している対立は、フロイトのいう快/不快と同じように、じつは両者の均質化によって成り立っている。つまり、一律の枠組みのなかで損得勘定ができるようなものとして、情事と死刑が位置づけられているのだ。まさしくそれゆえに、情事から得られる快楽よりも死刑のもたらす喪失のほうが大きいという計算をして、情欲に歯止めをかけることができるはずだ、というのがカントの議論の背後にある論理である。
 ラカンからすれば、この論理こそがカントの犯した根本的な誤りだった。では、ラカンは死とセットになった性行為に何を見いだすのか。それは、快とは厳密に区別された、それどころか快/不快という対立にはそもそも収まらない「享楽(jouissance)」――これはラカンが精神分析にもたらした独自の概念だ――である。

しかし、次のことを着目していただきたい。カントの例が無効になるのには、ほんのひと捻り見方を変えて、女性と過ごす夜を快という項目から享楽という項目に移行させる――そしてそうするために昇華はまったく必要ない――だけで十分だ。それは享楽そのものとして享楽であって、まさに死の受け入れをそのうちに含んでいるのである。[6]


 享楽とは、快原理というリミットの向こう側へと主体を誘う根源的な満足のことであり、欲望の真の原動力は快ではなく享楽である。カントの眼には狂気じみて映るだろう主体、「女性と一夜を過ごすために致命的な末路へと突き進む」主体は、まさに、享楽に引き寄せられた欲望の具体的かつ範例的なイメージを与えてくれる。享楽には、定義上、緊張感や苦痛といった、快原理の枠組みのなかではたんなる不快として処理されるものが必然的に含まれる。だからそこには、(2)のケースで自己犠牲に対して尻込みする主体が感じるような葛藤がつきものである。にもかかわらず、それは私たちの欲望をとらえて離さない。少なくとも、享楽との関係なしに欲望は存在しない。
 このようにみてくると、先に触れた欲望の日常的なあり方と無条件的な法としてのあり方の乖離は、そのまま、快と享楽のあいだに横たわる断絶と重ねることができる。快原理が課すリミットを越えないことこそが欲望の「日常」を定義する。それは、私たちを享楽から隔てる見えない壁のようなものだ。だが、これはあくまでも欲望の一面である。ラカンがカントの道徳法則の峻厳さに見いだしたのは、欲望の「日常」とは明確に異なるもうひとつの顔、致死的な享楽へと主体を向かわせる命令の残酷さにほかならない。
 カントは(1)のケースをもっぱら快の問題として描いたために、法と欲望を単純に対置することに留まった。それでも、『実践理性批判』が、カントの意図を越えて、欲望の本質、すなわち快と享楽のあいだで引き裂かれるというアンチノミーを示していることに変わりはない。そのかぎりで、精神分析にはカントから学ぶべきものがあるのだ。ラカンが行っているのは、カントの「批判」、すなわちその根拠と限界を吟味するというカント的な意味での「批判」である。それはまた、哲学という営みそのものへの創造的な「批判」でもあるだろう。


[1] Immanuel Kant, Kritik der praktischen Vernunft (1788), « Philosophische Bibliothek », Bd. 506, Felix Meiner, 2003, S. 40.
[2] Ebd., S. 4.
[3] Jacques Lacan, Le séminaire livre VII, L’éthique de la psychanalyse (1959-1960), Seuil, 1986, p. 222. ここにはミレール版の頁数のみを記載するが、以下の引用箇所については、国際ラカン協会版を参照したうえで、いくつかの文言を補足ないし修正している。
[4] Jacques Lacan, « Kant avec Sade » (1963), in : Écrits, op. cit., p. 782.
[5] Jacques Lacan, L’éthique de la psychanalyse, op. cit.
[6] Ibid.

 

次回は2020年2月11日(火)更新予定