ラカンの「デカルトへの回帰」――私たちは前回、ラカンの精神分析と哲学との関係について考えるための糸口として、このテーマに手を着けたのだった。この「回帰」の要点は、なによりも、真理の問いと狂気の問いが切り離せない、ということにある。本当に確かなもの以外、どんな感覚も知識も誤りとみなしてすべて捨ててしまうという大胆な方法「誇張的懐疑」。デカルトは早くも最初の省察で、自身のこの方法が狂気と紙一重だという事態に直面した。前回の議論を振り返りながら、もう少しデカルトの理路を辿っておこう。
よく知られているように、デカルトは、懐疑が必要となる理由のひとつとして、現実と夢が混同されるケースがあるということを挙げている。例えば、私はいま神保町の喫茶店にいて、窓を濡らす雨を横目に、やたらと濃くて熱いコーヒーを飲みながらこの文章を書いている。デカルトにいわせれば、この経験的「事実」は、じつは私がいま思っているほど確かではない。どうしてかというと、こういう場合、次のような可能性を否定できないからだ。もしかしたら、現実の私は中学生で、退屈な授業に嫌気が差して居眠りを決め込み、大人になった自分が好きな仕事をしている夢をみているのかもしれない。もちろんこれは、あくまでもひとつの「かもしれない」にすぎない。しかし、そういう疑いの余地がほんの少しでもある事柄はすべて、積極的に誤りとみなす必要がある――デカルトはそう考える。
これは、デカルト本人がよく自覚しているように、いかにも極端でいささか狂気じみた態度にも思える。しかし、ついさっきまで夢をみていて、目が覚めるその瞬間までそれを現実だと思い込んでいたという経験は誰にでもあるだろう。このように、夢と現実を区別する確かな指標がない以上、どんな「現実」にも、私たちがそれをいちいち意識しようとしまいと、それがじつは夢であるという可能性がとり憑いている。デカルトは『省察』のなかで、ここからさらに一歩進んで、次のように述べている。
〔…〕私は夢のなかで、狂人たちと同じことを経験しているし、ときとして、それ以上にありそうもないことさえも経験している。1
デカルトがここで念頭に置いているのは、前回引用した部分でいわれていたような、自分の身体がガラスや土でできていると言い張る狂人(メランコリー患者)の振る舞いである。傍目にはこれがいかに「ありそうもない」突飛なことに思えても、私たちの夢のなかではこれと同じくらい現実離れしたことが、あるいはもっと「ありそうもない」ことが起こったりする。そして、夢のなかにいるひとは、狂人がみずからの妄想について抱くのと同じく強い確信をもって、それを譲歩の余地のない現実として受け取っている。デカルトの方法は、夢と現実を分かつ境界線を失効させるが、そうすると、この方法を選ぶ主体と狂気とを分かつ境界線もまた消失してしまう。もちろんこれは、事実として『省察』の主人公が狂気を宿していたということではない。そうではなく、論理上、彼には狂気がひとつの可能性としてついてまわる、ということだ。
だが、当のデカルトはこの可能性にまったく尻込みしていない。彼からすれば、それはしっかりと筋道を立てて考えて得られた必然的帰結であるからだ。それどころか、彼はこのあと、読者を面食らわせるもっと危険な仮説を持ち出してくることになるのだが、これについては第四回で検討することにしよう。
さて、デカルトのこうした歩みを取り上げ、精神分析家として(あるいは、精神病の臨床に携わった経験をもつ医師として)、その重要性を力説したのがラカンだった。真理とは、狂気がそうであるのとまったく同様に、「私」が「私」でなくなるような経験のなかでこそ現われるものだからである。確固たる「私」というものがあって、理性と知性を的確に駆使することで、真理を知ったり語ったりするのではない。むしろ真理のほうが「私」を問いに付し、揺さぶりをかけることで、「私」をすっかり変えてしまう。そのような経験を問題にするかぎりで、精神分析と哲学には互いに通じ合うところがある。前回述べたように、これが、精神分析の世界ではまぎれもなく異端な、ラカン独自のアイデアだった。
***
もっとも、狂気と真理の結びつきについて語った最初の分析家がラカンだったというわけではない。じつは、精神分析の創設者フロイトもまた、ラカンとは違ったやり方で(前回述べたように、フロイトが哲学者の議論を正面から扱うことはほとんどなかった)、狂気と真理を結びつけている。この議論は精神分析とはどんなものなのかについて考えるうえでも興味深いので、ここで参照しておこう。今回取り上げるのは、「分析における構築」(1937年)というテクストである。フロイトは晩年に書いたこのテクストで、分析家が臨床のなかでやらなければならない作業のひとつを、フロイトは「構築(Konstruktion)」と名付けて、その実際のところを語っている。
「構築」とは何か? フロイトによれば、それは患者の病歴にかかわる過去の経験や出来事、とりわけ、患者自身がいまやすっかり忘れてしまっている発症の「前史」を復元する作業である。つまり、患者が寝椅子のうえで「自由連想」(思い浮かんだことを余すことなくすべて話すこと)をつうじて提供する素材を手がかりに、いまや本人にさえ証言できない過去を再構成するのだ。フロイトはこれを、「破壊され、埋没した住居や建造物を発掘する考古学者の仕事」2に重ねて説明している。いうまでもなく、この仕事はどこまでいってもレトロスペクティヴ(あくまでも現在に視点を置きながら過去を推測する)の域を出ない。つまり、「もしかしたらこういうことがあったかもしれない」という仮説にすぎない。
ではなぜ、わざわざこうした仮説を練り上げ、それを吟味する必要があるのか。それは、そもそも無意識というものが、個人のなかの記憶の集積(=アーカイヴ)からできていて、ヒステリーや強迫といった神経症の症状は、つまるところそこから生み出されるひとつの表現にほかならないからである。そうした表現を扱う以上、分析家はおのずと、患者の失われた過去に踏み込んでゆくことになる。「構築」はそのための「準備作業」である。ひとりの患者をほかの誰でもないその患者たらしめる個人史、すなわちそのひとの歴史=物語(ヨーロッパ言語では「歴史history」はつねに「物語story」の意味を含む)を考慮に入れなければ、当人の症状を理解することはできない。逆にいえば、いまここにある症状のうちに歴史的な奥行きを、あるいは物語的な広がりを見て取るこの発想こそが、精神分析の出発点にあるフロイトの発明なのだ。
問題は、無意識というアーカイヴに、当の患者自身が直接アクセスできないことである(それができたら分析家など必要ない)。より厳密にいえば、無意識は、その名のごとく患者の意識から隔てられている。そればかりか、私たちのなかには、無意識を意識からできるだけ遠くへと押し退けようとする力学が絶えず働いている。フロイトはそれを「抑圧(Verdrängung)」と呼んだ。精神分析用語としては「抑圧する」と訳されるドイツ語の動詞verdrängenは、日常的な言葉としては「押し退ける」という意味で使われる。つまり、無意識に溜め込まれているのは、いわば「臭い物に蓋」式に意識の外へ押し退けられ、抑え込まれた記憶である。「私」が自分にかんして見ないようにしている、あるいはむしろ、それを見ないで済ますことこそが「私」の日常を成り立たせている深層部といってもよい。
精神分析が目指すのは、患者自身が多少なりとも抑圧を追い越してこの深層部と出会い、そこにしまい込まれた患者自身の歴史=物語を受け止め直すことである。症状の背後にある歴史=物語は、患者自身の現在の言葉で語り直されなければならない。分析家の本質的な役割は、そのための触媒となることである。だから、分析の「目的」は症状を軽減したり解消したりすることにあるのではない。それはあくまでも分析の「結果」であって、肝腎なのは、症状をきっかけにして患者が「なぜ自分はこうなったのか」を問い、「これまでの自分」との関係を変えることだ。
要約すれば、精神分析のプロセスとは抑圧との闘いのプロセスであり、「構築」はこの闘いの一里塚となる。フロイトは、構築された内容が患者の過去の経験や出来事を正しく言い当てていれば、患者が抑圧しているものを明るみに出すきっかけとなると考えた。では、この「正しさ」はどうやって確かめられるのだろうか。フロイトによれば、構築の内容に患者が同意するかどうか(実際にそういうことがあったと患者自身が認めるかどうか)が問題なのではない。構築の「正しさ」は、もっぱらその治療効果によってはかられる。「ひとえに分析の成り行きのみが、私たちの構築が正しいのか役に立たないのかを決定することができる」3。逆にいえば、構築の内容が患者のなかの抑圧されたものに触れていなければ、分析にはいかなる進展もみられない。
ひとが何かを忘れているとき、それはたんに記憶が消失していることを意味しない。記憶は心の奥底に、つまり無意識のなかにしっかりとしまい込まれている。患者がそれを思い出すのを阻んでいるのは抑圧の力であり、ひいては、それを抑圧することで「今の自分」を作り上げた患者自身である。構築は、こうした局面を打開し、患者自身が思い出すための糸口を作ることを目指す。ここには、フロイトのなかで一貫しているある信念がうかがえる。
本質的なことはすべて保持されていて、完全に忘れられているように思われることでさえも、なんらかの仕方で、なおもどこかに現存している。それはただ埋没しているだけであって、個人の意のままにされるのを受け付けない状態になっているのである。むしろ、周知のごとく、次のような疑念を抱いてしかるべきだ。完全に破滅される心的形成物など本当にあるのだろうか、と。隠されたものを完全なかたちで出現させることができるかどうかは、ひとえに分析技法の問題である。4
患者はかつて自分に起こった決定的な何かを忘れている。もはや過ぎ去り、忘れ去られているという意味で、その「何か」はたしかに失われてしまっている。しかし、たとえ患者が忘れても、当人の無意識はその記憶を保持し続けるだろう。失われたものは、無意識をつうじて、患者自身をとらえて離さない――例えば症状というかたちで、みずからの存在を執拗に主張することによって。うえの引用でフロイトが述べているとおり、抑圧されたものは、患者個人の自由にはならない。同時に、患者が抑圧されたものから自由になることもまたできない。精神分析という営みの核にあるのは、どうやっても自分の意のままにならないもの、それにもかかわらず手を切りようのないものと、どう向き合っていくのかという問いである。この問いのなかで、患者はたんに治療を受ける者ではなく、ひとりの「主体」となる。
***
ここまで「構築」にかんするコンテクストを確認してきた。ここに着目したのは、狂気と真理の結びつきにかんするフロイトの考えを参照するためだった。では、構築をめぐるこのような議論と、狂気の問いはどのようにかかわってくるのだろうか。
「分析における構築」で、フロイトは構築という作業の内実や意義を論じたあと、ある大胆な仮説を書き留めている。精神病の症状としての妄想、すなわち狂気の発露は、構築の等価物である、というのである。この仮説の意味をとらえるには、最低限の前提を確認しておく必要がある。
まずは、神経症と精神病の区別である。よく知られているように、精神分析は、神経症(厳密にいえば、その下位分類としてのヒステリー)の治療法として発明された。患者の「自由連想」と分析家の「解釈」という精神分析固有の方法は、もっぱら神経症者すなわち「抑圧」というメカニズムを宿したひとの治療に特化したものである。それゆえ、精神病と診断されたひとの治療に精神分析という手段を選ばれることはあり得ない。
だが、これは分析家が精神病者に、すなわち「狂人」に関心を寄せないということを意味しない。むしろ反対に、フロイトもラカンも、精神病のメカニズムに強い関心を寄せた。ラカンに至っては、分析家である以前にパラノイア精神病を専門とする医師としてキャリアをスタートさせた人であり、彼の仕事は狂気への関心と切り離せない。ある面では、精神病を傍らに置きながら神経症に向き合ったことが、彼らの実践と理論に大きな前進をもたらしたといってもよい。実際、妄想という精神病の症状と、神経症者の分析において行われる構築の作業とが等価であるというフロイトの仮説は、神経症の治療には精神病のメカニズムから学ぶべきものがあると彼が考えていたからこそ出てきたものである。こうしたことを踏まえて、フロイト自身の説明をみてみよう。
私には、病者の妄想形成は私たちが分析治療で作り上げる構築の等価物であるように思える。それは説明と復元の試みなのだ。ただしそれは、精神病という条件のもとで、現在において否認されている現実の断片に代えて、それよりはるか以前に病者が同じように否認した別の断片で埋め合わせることに至るのみである。〔…〕私たちの構築が失われた生活史の一断片を復元することによってのみ効果を発揮するのと同様に、妄想は、拒絶された現実の代わりにそれが組み入れている歴史的真理に、その確固たる力を負っているのである。5
構築と妄想は、どちらも失われた現実の復元を目指すものだというのである。フロイトはここで、妄想についての従来の理解、つまり妄想とは現実からの離脱であるとする理解に一石を投じている。たしかに妄想は、観察可能な外的世界という意味での「現実」とはあきらかに異なる世界、しいていえば精神病者の頭のなかにしか存在しない世界であるに違いない。例えば、フロイトがユングに勧められてその手記を読み、感嘆して長編の論考を著したことで名高い(おそらく世界でもっとも有名な)精神病者ダニエル・パウル・シュレーバー(1842‐1911)の妄想は、「自分が女になって神と性交し、新たな人類を生み出すことで世界を救済する」という、並外れた筋書きで展開されていた。いったい誰が、彼とこの世界を分かち合うことができただろう。しかしフロイトによれば、精神病者の妄想は、それがどれほど現実離れしてみえようとも、決して無根拠に生じたものではない。そこにはやはり何らかの「現実」が関与しているはずだ。ではそれはどういう「現実」なのか。
フロイトは、妄想とは「現在において否認されている現実の断片に代えて、それよりはるか以前に病者が同じように否認した別の断片で埋め合わせること」で作り上げられるという。つまり、患者がかつてそれを生きることを拒んだ現実、妄想の現在よりはるか昔に患者が捨ててしまった現実が、妄想のなかで復元されているということだ。妄想は「失われた現実」を患者の生きる現在へと再構成する試みであり、まさにこの点で、構築と同じ論理に従っている。もちろんこれは、妄想が患者の過去をそっくり再現したものであるという意味ではない。「失われた現実」は妄想のなかで、ある部分は歪曲され、ある部分は反転し、姿を変えている。それでも、妄想の本質がかつての「現実」に根差していることに変わりはない。
ところで、うえの引用で、フロイトはこの「失われた現実」のことを、「歴史的真理(historischer Wahrheit)」と呼んでいる。狂気と真理が結びつくのはまさにここである。すでに述べたように、構築は、患者の忘れられた過去を呼び覚ますことで効力を発揮する。妄想も同じだ。妄想によって作り上げられた世界が「失われた現実」という真理に根差しているからこそ、精神病者は絶対的な確信をもって、つまり疑いようのない自身の「現実」として、その世界を生きている。このような意味で、「狂気は一片の歴史的真理を含んでもいる」6とフロイトは述べる。そこで引き合いに出されるのは、シェイクスピアが『ハムレット』の登場人物ポローニアスに言わせている台詞だ。「狂人の言うこととはいえ、筋は通っておるThough this may be madness, yet there’s method in it」。
注目したいのは、「筋が通っている」というときの英語、methodという語を使った言い回しである。これは奇しくも、デカルトの懐疑が「方法」と呼ばれるときに使われるもの(ラテン語のmethodus、フランス語のméthode)にぴったり対応する言葉だ。この符合から何がみえてくるだろうか。狂気のなかにも、真理につながる筋道を見つけることができる。だがそれと同時に、真理に向かう方法も、どこかで狂気につうじているかもしれない。これらの可能性は、いつもふたつでひとつだという事態である。デカルトもフロイトも、それぞれなりのやり方で、まさしくこうした事態に向き合っていたにちがいない。
1 René Descartes, Meditationes De Prima Philosophia, op. cit., p. 19.
2 Sigmund Freud, » Konstruktionen in der Analyse « (1937), in: Gesammelte Werke, Band. XVI, Fischer, 1961(Zweit Auflage), S. 45.
3 Ibid., S. 52.
4 Ibid., S. 46.
5 Ibid., S. 55-56.
6 Ibid., S. 54.
この連載は月1回更新でお届けします。
次回2019年8月11日(日)掲載