「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2020.2.12

11目覚めるとはどういうことか――現実の再定義としての夢解釈


 前回は、ラカンによるカントの批判的読解から、「享楽(jouissance)」という概念を取り出した。享楽とは、快適さを保つための閾(快原理)の外に私たちを引きずり出す引力のようなものだ。私たちを衝き動かす欲望が快/不快という軸に収まらないのは、まさにこの享楽ゆえである。逆にいえば、もし享楽がなかったとしたら、欲望は機械的なプログラムとなんら変わらないということになってしまうだろう。享楽は人間的な生の条件である。
 ところで、『精神分析の倫理』のセミネール以来、ラカンは享楽を「現実界(le réel)」と結びつけている。今回は、この「現実界」という概念をとらえるための具体的なイメージを考えてみたい。いや、むしろ反対である。私たちが考えてみるべきは、そもそもどういう経験を指すために、ラカンは「現実界」という概念を用いているのか、ということだ。
 現実界とは、一言でいえば、私たちにとって最も根源的な現実、私たちを一番深いところで決定づけている現実のことである。ここで問題なるのは、個人の無意識の奥深くにある現実であって、客観的に観察したり検証したりできるものごと(要するに日常的な意味でいわれる「現実」)ではない。話をわかりやすくするために、ここでは、ラカンのいう現実界を「内的現実」、客観的なものごとの世界を「外的現実」と呼んでおこう。
 この区別はいったいどんな意味をもつのか。それを教えてくれるのは、精神分析においてはつねにそうであるように、夢という経験だ。『精神分析の四根本概念』のなかでラカンが着目しているのは、夢から目覚めるという経験である。夢を見て、夢から目覚める。これは、別の言い方をすれば、外的現実(覚醒状態で私たちが経験する世界)から夢へと赴き、再び外的現実に帰ってくるということだ。
 では、内的現実(現実界)はどこに位置づけられるのか。もちろん、夢のなかである。夢の奥底に、あるいは夢の映像の向こう側にあるもうひとつの現実。それは、目覚める一歩手前で私たちをとらえ、目覚めたときには決定的に失われている現実である。
 ラカンは、フロイトが『夢解釈』の第7章冒頭で紹介している印象的な夢、息子を亡くしたばかりの父親が見た悲痛な夢を取り上げる。この父親は、何日も夜通し息子を看病していたが、息子が息を引き取ると、息子の遺体が置かれた部屋の隣室で久しぶりの眠りに就いた。ただし、息子のいる部屋の様子がいつでもわかるように、部屋のドアは開けておいた。遺体は蝋燭(ろうそく)で囲まれていたので、その番をするために老人が傍でみている。数時間後、父親はこんな夢を見た。
 息子が父親の眠るベッドの傍らに立ち、父親の腕をつかむ。そして、咎めるような様子でこう言う――「お父さん、僕が焼けているのがわからないの?」 父親ははっとして目を覚ます。すると、隣室では老人が寝入っており、倒れた蝋燭から息子の亡骸に火が燃え移っていた。
 まず気が付くのは、夢のなかで起きることと外的現実の対応関係である。フロイトの紹介によると、夢をみた父親は、きわめて的確に、この対応関係を説明したという。蝋燭が倒れ、息子に火が燃え移ると、炎は一気に大きくなり、光を放つ。この光は隣室の父親のもとに届き、たとえ睡眠中であっても知覚される。彼は、言うなればこの知覚を映像に「翻訳」することで、この出来事を夢のヴィジョンとして再生した。
 確かに、外的現実の音や光を組み込んだ夢をみるというのはよくある経験である。フロイトは、老人に蝋燭の番を任せてしまって本当に大丈夫だろうかという不安も、父親にこの夢を見させるのに一役買ったのではないか、という見解をこれに付け加えている。だが、フロイトの独創がはっきり前に出てくるのは、次のポイントだ。
「お父さん、僕が焼けているのがわからないの?」という息子の台詞はいったい何に由来するのだろうか。フロイトの考えはこうである――「子どもの言葉は、生前実際に発された、父親にとって重要な出来事と結びついた言葉を組み合わせたものであるはずだ」[1]。つまり、この言葉は父親がかつて子どもから実際に受け取ったものからできていて、父親のなかには、この言葉と結びついた記憶、しかも激しく感情を揺さぶられるような出来事の記憶があるはずだというのである。
 この父親はフロイトの分析を受けに来たわけではないから、これが具体的にどんな出来事だったのかは残念ながらわからない。夢のなかの息子が父親を咎めているということから類推して言えるのは、この出来事は父親に罪悪感や後悔を残したのだろうということだけである。

 

***

 

 フロイトはここから、より本質的な問いに向かって舵を切る。隣室で火事が起こり、あまつさえ息子の遺体が燃えてしまうという差し迫った状況で、どうして父親は目を覚まさず、その状況を夢に「翻訳」したのか、という問いである。なるほど、これほど正確な「翻訳」ができるのであれば、むしろそこですぐに目を覚ますほうが自然ではないかというのはもっともであるように思える。
 この疑問に対して、フロイトは『夢解釈』全体を貫くテーゼ、すなわち「夢は欲望充足である」というテーゼによって答えている。「この欲望充足のために、父親はそこで眠りを一瞬引き延ばしたのだ。この夢が、覚醒中の思慮に対する優先権を得たのは、それが子どもをもう一度、生きた姿で見せることができるからである」[2]。父親は、二度と会えなくなってしまった子どもと会うために、彼を夢のなかに呼び戻したのだ。外的現実のなかでは決して満たされることのない欲望は、すすんで夢という虚構に身を委ねる。このように考えると、私たちが内的現実と呼んだ、夢のなかにあるもうひとつの現実というのは、結局のところ虚構の一側面に過ぎないかのようである。
 しかし、事態はそれほど単純ではない。ラカンは、この夢の解読をもう一歩先に進めるべく、フロイトが発した問いを反転させながら次のように述べている。

夢の機能が眠りの延長にあるのだとすれば、そして夢が自身の提示する現実に、ついにはここまで接近することができるのであれば、私たちは次のように言ってしまってよいのではないか? この現実に対して、夢は眠りを離れることをせずとも応えられているだろう、と。そこには夢遊病的な活動だってあるのだから。問題なのは、思うにフロイトの示したことのおかげで、私たちがここで立てることのできる問い、いったい何が目覚めさせるのか、という問いである。[3]

 「なぜ夢を見たのか」というフロイトの問いを引き継ぎつつ、ラカンはさらに「なぜ目覚めたのか」という問いに踏み込んでゆく。フロイトが述べるとおり、生きた息子の姿をもう一度見たいという父親の願いがかくも切実なものであり、それが彼に夢を見させたのであれば、なぜ彼は眠り続けなかったのか。ラカンの考えでは、目下息子の身体を焼きつつある火事を目覚めの理由にするのは拙速である。夢遊病者がやるように、夢を見続けたまま火を消すくらいのことはできたはずだというのだ。
 では、夢遊病を持ち出してでも突き詰められるべきこの夢の、そしてそこから目覚めることの意味とは一体何か。ラカンが次のように語気を強めるとき、その言葉はある種の真実をとらえているようにみえる。

続行された夢は本質的に、こう言ってよければ、欠けた現実へのオマージュなのではないだろうか? それは、けっして到達されることのない目覚めにおいて際限なく反復されることでしか、もはやなされえないオマージュである。
これ以後、永久に動くことのないこの存在、それどころか炎で焼き尽くされようとしているこの存在との、どんな出会いがありうるというのだろうか、たまたま、「偶然のごとく」、炎がそこまで来てしまうまさにそのときに生じる出会いでないとすれば?
そして、この偶発事のなかで、現実はどこにあるのだろうか、この偶発事が、要するに何かもっと運命的なものを反復しているということでないとすれば? [4]

 夢は、父親と息子のあいだで生じたひとつの出会いであるにちがいない。この出会いとしての夢は、じつはそれに先行するもうひとつの出会いの反復であり、それに捧げられたオマージュである。このもうひとつの出会いのことを、ラカンは「欠けた現実」、そして「何かもっと運命的なもの」と呼んでいる。それは、外的現実のなかには位置づけることができず、夢のヴィジョンに収まってもいない(表象されていない)現実だ。
 だが、見逃せないのは、この反復が「決して到達されることのない目覚め」のなかで生じるという点である。ラカン自身が問うていたように、父親は確かに目覚めたのではなかったか。
 ここで、うえで示した現実のふたつの定義を思い出す必要がある。
 父親が目覚めた先で待っているのは、あくまでも外的現実である。ラカンがいわんとしているのは、この目覚めにおいて失われてしまう、もうひとつ別の現実があるということだ。それは、父親の内的現実、つまり彼の欲望を決定している現実界である。外的現実への目覚めは、内的現実への目覚めを到達不可能にしてしまう。そのようにして、現実界は「欠けた現実」に留まり、どこまでも喪失と一体であり続ける。
 このことの意味を理解するには、この夢がどんな出会いを反復しているのかをみてみればよい。そうすると、私たちはひとつの逆説に突き当たる。というのも、この夢が示しているのは、父親と息子との取り返しのつかないすれ違い、つまり出会い損ないにほかならないからだ。現実界とは、つねに出会い損ないに終わるほかないような出会いをつうじて、かろうじて見いだされるものである。

 

***

 

 このように考えてみることで初めて、父親がこの夢を見た、いや、見なければならなかったことの意味はくっきりと浮かび上がってくる。決して埋め合わせることのできない喪失に対して、本当に見合うかたちで応じることができるとすれば、それはこの喪失を反復することによって、つまり失われてしまったものを繰り返し失い直すことによってではないだろうか。
 この父親は、ひとえに死によって、息子を失ったわけではない。むしろこの死は、それに先立つ何らかの出会い損ないを最終的に決定づけたとみるべきである。別の言い方をすれば、父親は、息子がどんな存在であるのか、自分にとって息子が何者であるのか、あるいは息子は自分に何を求めているのか、その真実を、彼の生前においてさえつかむことができなかったのだ。彼の夢は、まさにこのことを生々しく映像化している。もしかすると、不意に訪れる別れの痛みは、じつはそれ以前に生じていたすれ違いを露わにしてしまうことによってこそもたらされるのかもしれない。
 ところで、ラカンの立てた問いは、何が目覚めさせるのか、なぜ目覚めるのか、というものだった。その答えはいまやあきらかである。夢を見る主体を目覚めさせるのは、彼の覚醒中にはむしろ眠っているもうひとつの現実、彼の心の深みにある現実界だ。ここにあるのは、息子の喪失に根ざした父親の欲望、いつ生じていたのかさえわからない息子とのすれ違いをなんとか埋め合わせたいという実現不可能な(それゆえに尽きることのない)欲望である。
 もちろん、子どもに再び会いたいという願いそのものは、父親の意識の前景を占めている。しかし、この願いの根源にある出会い損ないについては、依然彼の意識の埒外にある。この出会い損ないについて思考し、問いを発しているのは、彼の夢であり、無意識なのだ。
 ラカンによれば、「この欲望は、夢のなかで、このうえなく残酷な地点にまで映像化された対象の喪失によって姿を現している」[5]。つまり、この欲望がどれだけやむにやまれないものであるか、あるいは父親がどれだけそれに苛まれているか、夢は物語っている。誰よりも大切だった人が、腕をつかんで自分を責めている――これほど耐え難い、まさに心を焼かれるような状況があるだろうか。まどろむ父親をはっと目覚めさせたこの耐え難さこそが、彼の欲望の痛切さを示している。
 父親は、このようにして夢のなかでほんの一瞬みずからの内的現実に触れ、次の瞬間には外的現実に放り出されてしまう。このことによって、夢のなかでならあり得たかもしれない対話の機会は、再び失われる。しかも彼が目覚めたとき、そこでは、夢が示していた悲痛なすれ違いが、手遅れになってしまった火の不始末というかたちで、ふたたび反復されている。この意味で、現実界は夢と外的現実の隙間、あるいはまどろみと目覚めの隙間に入り込んでいると言うこともできる。
 うえの引用のなかでは、この事態が、「偶然のごとく」生じた出会いと呼ばれていた。ラカンは、これをたんなる偶然とは考えてない。むしろそれは、偶然という姿を取って不意に露わになったひとつの運命である。もしそうであれば、火事に由来する知覚が夢に「翻訳」されたというフロイトの出発点にある認識を、私たちは修正しなくてはならない。まず外的現実があって、それを表象する夢があるのではない。そうではなく、夢に含まれている内的現実を反復するために、火事という偶発事が選ばれたのだ。
 精神分析は夢をたんに都合よく仕立てられた虚構とは考えないし、ましてやそれを現実に対して二次的なものとみなすことはしない。そこには、夢というかたちを取ることでのみかろうじて接近できる、もうひとつの現実があるからだ。このもうひとつの現実を真剣に受け取ろうとするとき、なんの必然性もなく私たちの身にふりかかったかのように思われた出来事は、その意味をがらりと変えてしまうことになる。この変化、あるいはそれが引き寄せるかもしれない私たち自身の変化こそが、精神分析がもたらすことのできる「目覚め」である。

[1] Sigmund Freud, Die Traumdeutung (1900), in : Gesammelte Werke, Bd. 2/3, Fischer, 1961, S. 514.
[2] Ebd.
[3] Jacques Lacan, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, op. cit., p. 57.
[4] Ibid.
[5] Ibid., p. 58.

次回は2020年3月13日(金)更新予定