「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2020.3.13

12想起説をめぐるフロイトの不安――トラウマとしての現実界について(1)

 

 よく知られたプラトンのイデア論は、想起説と切り離すことができない。
 私たちの魂は不死であり、イデアの記憶、例えば美のイデア(=「美」なるものそれ自体)の記憶を保持している。いま肉体を持って存在している私たちは、そうしたイデアを知らないのではなく、ただ忘れてしまっているだけである。だから、美とは何かを知るということは、いまここにある肉体に宿る以前に魂が知ったことを思い出すということにほかならない。これが想起説である。
 フロイトのテクストを読んでいると、彼の情熱は、想起説を固持することに向けられていたのだと言ってしまいたくなることがある。ただし、思い出すべき事柄を前世やイデアほど遠くまでは求めない、という条件付きで。フロイト独自の想起説。それは、患者が、自分の無意識のなかに埋め立てられた「歴史的真理」を思い出すことを目指す(第二回参照)。あくまでも精神の科学者たらんとしたフロイトは魂の不死など信じないが、決定的な出来事の記憶の不滅を信じている。この信こそが、フロイトの情熱の源なのだ。
 前回は、ラカンのいう「現実界」について、喪失という経験に焦点を当てながら議論した。この現実を、フロイトのいう「歴史的真理」と重ねてみることもできる。今回試みたいのは、「現実界」の、想起されるべき現実=真理としての性格を浮かび上がらせることである。もちろん、ここでも大切なのは抽象的な概念ではなくて具体的な経験、精神分析の実践に固有の経験のほうだ。ラカンはこう問いかけている。

分析経験の起源において、現実界が、主体のうちに同化不可能であるような何かというかたちで現れたこと、つまり、主体のその後全体を決定づけ、見かけ上は偶発的な起源を主体に与えるトラウマというかたちで現れたこと、これは注目すべきではないだろうか? [1]

 ラカンはここで、主体をトラウマ(=外傷)の帰結と位置付けている。まず主体がいて、あとからトラウマを負うのではなく、トラウマによってはじめて主体は産み出されるということだ。そして、主体とは何よりも「話す主体」のことだから、言語とトラウマは光と影のような関係にある。まるで硬い核のように、言語化を受け付けないこと。それがトラウマの本質である。だが、まさにこのような核を抱え込むことではじめて、主体は言語のなかにみずからの場所を見いだす。
 このような意味で主体を決定づけているにもかかわらず、主体にとって「同化不可能」なままに留まっているトラウマを、ラカンは現実界のひとつの範例とみなす。
「あの出来事がなかったらいまの自分はありえない」と思えるような出来事、たとえリアルタイムではその意味を理解していなかったとしても、現在から振り返ってみて、「あれこそが自分を作った」と思える出来事には、誰しも覚えがあるだろう。そうした強烈なインパクトは、トラウマに必須の要素である。
 だが、精神分析の主体にとって問題なのは、その出来事を思い出したり、それについて話したりすることがいまだにできないということだ。ラカンのいう「同化不可能」という言葉は、まさにそのような意味で受け取られなくてはならない。何より重要な出来事であるはずなのに、それがどんなものだったのか、そこにどんな意味があったのか、いまだにわからない。このアンバランスが、精神分析の扱うトラウマを特徴づける。

***

 ラカンの発言を文字通りに受け取るならば、現実界はラカンによって発見されたのではなく、「分析経験の起源において」、つまりフロイトの臨床実践のなかですでに探究されていたことになる。だとすると、フロイトの思考と実践のなかに、現実界に相当するものを探してみなくてはならない。うえで触れたように、「歴史的真理」もそのひとつと言えるが、ここではラカンが通りがかりのように言及している例に立ち返ってみよう。
 うえに引用した部分の少し前で、ラカンは次のように述べている。

われわれにとってきわめて肝腎な、狼男の〔分析の〕展開を思い出していただきたい。そうすれば、幻想の機能が次第にあきらかになってゆくそのとき、フロイトの真の関心事が何であったのか理解できるだろう。彼がほとんど不安に駆られているようなやり方で専心し探究しているのは、この現実界がいかなるものなのかということ、われわれが幻想の背後に確保し、はっきり見て取ることのできるこの最初の出会いが、いかなるものなのかということだ。[2]

 ラカンが引き合いに出すのは、「狼男」症例と呼ばれている、フロイトが報告した有名な強迫神経症の症例である。患者の名前はセルゲイ・パンケイエフ、1886年にロシアの貴族階級の家に生まれた。彼は、父親の躁鬱病、姉の自殺、そして世界大戦やロシア革命など、家庭でも社会でもこれ以上をなかなか思いつけないくらい過酷な運命に見舞われ、文字通り激動の人生を送った。ウィーンでフロイトのもとで精神分析を受けたのは、20代のときだ。
「狼男」というネーミングは、彼の分析のなかで中心的な位置を占める夢に由来する。フロイトの「ある幼児神経症の病歴より」(1914年に執筆され、第一次大戦のため1918年に出版された)によると、パンケイエフは4歳のときに強烈な不安ももたらす夢を見た。夢のなかでは、彼のいる部屋の窓の前に大きな胡桃の木がある。そして、6匹か7匹の、狐のように大きな尻尾をもった白い狼が、木に登って座っている。狼たちは耳をピンと立て、微動だにせずただこちらを見つめている。部屋の窓が開く以外、夢のなかでは何の動きも起こらない。この場面に少年は不安を募らせて叫び声をあげ目を覚ます。パンケイエフは、このシーンをみずからイラストに描いてフロイトに見せたそうだ。
 まず、パンケイエフの幼年期において重要なのは、4歳になる以前に、2歳上姉とのあいだである種の性的接触があったということである。彼が思い出したのは、姉に性器をもてあそばれたという経験だ。成長した姉は知的に優れ、多くの男たちから結婚を求められる魅力的な女性となったらしいのだが、パンケイエフにとっては幼少のころから目障りなライバルだった。姉の圧倒的な優位は彼を居心地悪くさせたが、うえの一件は、彼の性的アイデンティティにも、きわめて早い時期から影を落とした。
 フロイトはこうした患者の幼年期に踏み込んで分析材料を見つけ出し、それをもとに微に入り細に入り夢を分析してゆく。ここでその複雑な全貌を示すことはかなわないので、いくつかのポイントに絞ってみてみよう。フロイトの議論の特徴は、この夢のいわば元ネタとなっている現実(=外的現実)と、それを素材としたパンケイエフのイマジネーションとを切り分け、それらを両面にわたって洗い出してゆくところにある。
 例えば、狼が白いのは、パンケイエフの父親の領地の近くで飼われていた羊の毛色に由来する。パンケイエフは子どもの頃、父親に連れられてよく羊の群れを見に行っていたという。しかし、のちに突発した伝染病で、大量の羊が死んでしまうことになる。このように、印象深い思い出が夢のワンシーンに「引用」されることはよくある。
 狼たちが木に登っているという状況は、パンケイエフが祖父から伝え聞いた物語から一部借用されたものだ。この物語では、仕立屋の主人に尻尾を引き抜かれた狼が復讐を企てる。狼の群れに追い立てられた仕立屋は、恐れをなして木の上に登るのだが、狼たちはピラミッドを組んで仕立屋を捕まえようとする。どうやら夢はこのシーンの変形であるらしい。
 さらに、大きな胡桃の木から、パンケイエフはクリスマスツリーを連想する。彼はクリスマスイブが誕生日だったため、毎年ツリーを見ながら、父親からダブルのプレゼントをもらえるのを楽しみにしていたという。フロイトはここから、パンケイエフが狼の夢を見たのは4歳の誕生日の直前だったことを突き止める。クリスマス前の期待に満ちた光景が、一部夢に取り入れられたのだ。
 こんな具合に、夢の構成要素は、ひとつひとつ患者の現実の経験に置き直されてゆく。
 ところで、フロイトがこだわっている問題のひとつは、パンケイエフが夢のなかで感じる不安が何に由来するのか、ということだ。
 パンケイエフの語ったところによると、この夢は、幼少期の彼をひどく怖がらせた童話『赤ずきんちゃん』の挿絵に関係しているらしい。彼の姉は、この挿絵を見せつけ、泣き出す弟をよくからかったそうだ。しかし、『赤ずきんちゃん』に出てくる狼は1匹だから、夢の状況と一致するシーンは見当たらない。フロイトがこの点に疑問を投げかけると、パンケイエフはすぐに別の童話の記憶に思い当った。それは『狼と7匹の子山羊』だった。
 この童話では、狼が7兄弟の子山羊のうち6匹を丸呑みにしてしまう。末っ子の1匹は間一髪危機を逃れ、出先から戻った母山羊と一緒に、狼の腹から兄弟たちを助け出す。ここに登場する6と7という数字は、夢のなかの狼の数にピタリと一致する。
 これに加えて、フロイトは、「狼に食べられる」というモチーフに着目する。フロイトによれば、このモチーフは、しばしば「食べちゃうぞ」などと言って愛情をこめて幼い子どもからかう人物、なおかつ子どもにとって強大な存在である人物との関係に結びついている。この人物は、彼の夢の各要素のなかですでに仄めかされている。すなわち父親である。

***

 パンケイエフが夢のなかで経験した不安は、父親に対して彼が抱く不安、しかも無意識のうちに抑圧されている不安に根拠をもつ――これがフロイトの解釈である。こうした不安をベースとして、自分の父親を種々の「引用」からなる狼に置き換える操作こそ、夢を作り出したパンケイエフの無意識の創作力の骨頂なのだ。
 とはいえ、ここまでの議論は、フロイトの分析のせいぜい半分程度までをさらったにすぎない。次に問わなくてはならないのは、父親の何が彼を不安に陥れたのか、ということだ。いいかえれば、パンケイエフのトラウマに、父親がどのようなかたちで関与しているのか、それが問題である。フロイトは、夢がもたらす「現実感情(Wirklichkeitsgefühl)」について、次のように書いている。

われわれは夢解釈の経験から、この現実感情にはある特定の意義があるということを知っている。この感情が証言しているのは、夢の潜在的な素材のなかの何かが、記憶のなかで現実への権利を要求しているということ、したがって、夢は現実に起こった、たんに空想されただけではないある出来事と関係しているということである。もちろん、それは何らかの知られざるものの現実でしかありえない。〔…〕夢は、まさしく童話の非現実性との対照においてその現実性が際立たせられる、ひとつの出来事を指し示しているように思われた。[3]

 この一節は、パンケイエフの分析におけるフロイトのスタンスを見事に凝縮している。ここに見いだされるのは、ラカンが「ほとんど不安に駆られたような」と形容していた、フロイトを衝き動かす現実性への執念である。フロイトは、この執念ゆえに、空想(患者の心が作り出したもの)と現実(患者が実際に経験したこと)とが触れ合うあわいに身を置き、両者のあいだを行ったり来たりしている。ラカンの指摘を延長すれば、次のように言うことさえできる――この症例報告には、フロイト自身の症状までもが書き込まれている、と。
 さて、ここでいわれている現実とは、さしあたり外的現実のことだと考えてよい。では、それは具体的に何を指しているのか。フロイトの考えでは、狼の夢は、うえに挙げたような素材を現実の経験から借りてきているということ以上に、パンケイエフがいまだ知らない――つまりその記憶が抑圧され続けている――現実の出来事と関係している。そしてその出来事は、トラウマと呼ぶにふさわしい、解消不可能なインパクトを残したにちがいない。
 フロイトは、このトラウマ的出来事に「原場面(Urszene)」というタームをあてている。それは――彼は多くの人が面食らうことを重々承知で注意深く論証を重ねているのだが――両親の性行為の場面のことだ。フロイトの仮説によると、パンケイエフは、おそらく1歳半のときに、この場面を実際に目撃してしまった。彼の生活史を洗ってみると、当時パンケイエフはマラリアにかかっており、そのために両親と寝室を共にしていたようである。
 フロイトは、こうした事実関係をもとに、夢と原場面のあいだに関連を浮かび上がらせようとする。曰く、狼の夢で突然開く窓は、両親の寝室で突然目が覚めるという事態を示している。また、狼がこちらをじっと見つめているのは、じつは、パンケイエフ自身が両親の謎の行為から目が離せなかったことに対応している。そして、狼たちの静止は、両親の――やはり幼子には理解不能な――激しい動きが反転した結果である。ここで、狼の大きな尻尾は父親の性器に相当する。対して母親の性器は、仕立屋に尻尾を抜かれるという物語を連想させる(パンケイエフは女性器を「去勢」の帰結、すなわちペニスの不在として理解している)。
 この場面は、赤ん坊だったパンケイエフの眼には、暴力行為のように映ったはずだ。しかし同時に、母親の表情はそれとは反対のことを、つまり欲望の満足を示している。したがってそれは、父親のもたらす満足の場面でもある。フロイトの考えでは、クリスマス直前にパンケイエフがこの場面を夢に翻訳した必然性はまさしくここにある。

〔…〕夢は、クリスマスに自分の欲望が成就するのを楽しみに待っている子どもに、彼が父親からもらえるのを期待している満足のイメージを実演してみせるだろう。その満足の原型として選ばれたのが、かつての原場面で彼が目撃した、父親による〔母親の〕性的満足のイメージだったのである。[4]

 父親からのプレゼントを待ち望んだ子どもは、その欲望を夢のなかで満たすために、かつて目撃した場面の記憶、それまで「同化不可能」な異物として眠っていた記憶を呼び覚ましてしまった。4歳を前にして、すでに性的関心に目覚めていた彼は(姉との一件を想い起そう)、今度はこの場面の性的な意味を理解する。すなわち、受動的かつ女性的な立場で、父親によって性交される、というイメージをそこに見いだす。
 狼の夢は、パンケイエフがこのイメージを即座に拒絶し、再び抑圧した結果である。彼は、あくまでも男性というポジションに固執したのだ。フロイトによれば、このときパンケイエフには父親に対して紛れもなく性的な欲望を抱いていたはずだが、この欲望はうえのイメージとともに抑圧される。その結果、父親への性的関心は、狼のもたらす不安に置き換えられたというのだ。
 ここまで、狼の夢をめぐる不安の正体を突き止めるまでのフロイトの歩みを足早に追いかけてきたが、それはじつにきわどい彼の解釈の妥当性を云々するためではない。ほかならぬフロイト自身が、この解釈に疑いの目が向けられることをよくわかったうえで、想定される反論の数々――1歳半の子どもの記憶が完璧に保持されることなどあるのか、4歳の子どもがその意味を理解し、夢に加工することなどできるのか、等々――を取り上げて議論している。
 何より興味深いのは、一方では原場面の現実性を断固主張しているフロイトが、他方では患者の空想と外的現実の隣接地帯を彷徨っているようでもある、ということだ。再びラカンの指摘に立ち返るなら、フロイトの揺らぎと不安こそが重要である。
 フロイトはここから、空想か現実かという二項対立そのものを問い直すことを余儀なくされるのだが、それについては次回検討する。今回は、フロイトの想起説と呼ぶに相応しい一節を示すに留めておこう。「夢に見ることは、まさに想起することである。ただし、夜のあいだ、夢形成のなかで、という条件のもとで。夢のなかへのこうした再帰をつうじて、私は次のことを理解する。すなわち、患者自身が次第にこれらの原場面の現実性について揺るぎない確信をもち、それが想起に基づく確信に何ら劣らぬものであるということである」[5]

[1] Jacques Lacan, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, op. cit., p. 55.
[2] Ibid., p. 54.
[3] Sigmund Freud, » Aus der Geschichte einer infantilen Neurose «(1914), in: Gesammelte Werke, Bd. 12, Fischer, 1966, S. 59.
[4] Ebd., S. 69.
[5] Ebd., S. 80.

次回は2020年4月13日(月)更新予定