「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2020.9.16

16愛とメタファー——少年愛から神々のほうへ

 

 前回は精神分析の起源(フロイト)と哲学の起源(ソクラテス)を結びつけるラカンの独創を取り上げた。その結び目には転移という現象がある。
 フロイトはブロイアーという先人がそれを前に撤退してしまった出来事として、同時に精神分析の起源にある物語として、「症例アンナ・O」の想像妊娠をめぐる逸話を「証言」した。患者の無意識に蠢いている欲望や、それと結びついた空想が身体的な現実のなかに乗り込んできたそのときにこそ、分析家は自身の務めを果たさなくてはならない。
 ひるがえって、ソクラテスの真理への情熱がアテナイで呼び起こした激烈な愛憎は、やはり転移性のアンビヴァレンツそのものだった。だが、今日の私たちがこの愛憎劇を目撃するのは、もっぱらプラトンという卓越した書き手の「証言」をつうじてである。その身をもって哲学の起源を体現するソクラテスの姿は、彼の振る舞いから本質的な教えを引き出すことができたプラトンが綴る物語のなかにしか存在しない。
 起源は神話をつうじてしか語られない。むしろ、本来語ることのできない起源を、事後的なフィクションとして語ることこそが、数多の神話が担っている本質的な役割である。別の言い方をすれば、原理的に言語の届かない次元にあるという意味で、起源はラカンのいう現実界に位置している。神話とは現実界と言語を媒介する試みの名である。
 ラカンは、前回参照した『転移』のセミネールのなかで、「彼〔=プラトン〕が奇異な英雄〔=ソクラテス〕について語ろうとするそのたびに執着する証言という様式」[1]に注意を促している。よく知られているように、プラトンの書いた対話篇のなかにプラトン自身は一度として登場しない。つねに別の誰かが語り手となって、かつてのソクラテスの姿を伝える構成となっているのだ。これはソクラテスの思考が伝達される際の本質的な構造である。
 例えば、死刑判決を受けたソクラテスが、その約一ヶ月後に毒杯をあおって死を迎える場面を描いた『パイドン』は、この場に立ち会ったパイドンが故郷に帰る旅の途中で滞在したプレイウスでのやりとりとして書かれている。このとき、ソクラテスの死からすでに数ヶ月が経過している。死を目前にしても変わらず哲学者として友人と対話するソクラテス。彼はそこで魂の不死について語ったというが、このソクラテスの最期の語りは、エケクラテスからそのときのことを尋ねられたパイドンの証言をつうじてはじめて届けられる。
 対話篇の読者は、こうした一切を、プラトンによる証言として受け取ることになる。ラカンはうえの発言に続けて次のように述べている。

プラトンはきわめて特殊な証人である。一方では彼は嘘をついているともいえるが、他方では、彼が嘘をついているときでさえ真実を語る者であるともいえるのだ。というのも、ソクラテスに問いかけることで、その問いが、プラトンその人の道を開いていくからである。[2]

 一種の神話として描かれたソクラテスの姿のうちには、彼に哲学の本質を見いだしたプラトン自身の思考が、いままさに醸成されつつある切迫した問いとして結実している。そのかぎりで、プラトンの創作はフィクションであるにもかかわらず真実としての価値を持つ。なおかつ、読者はつねに、誰かの(うえの例でいえばパイドンの)証言の現場に立ち会うことを疑似体験しながら、ソクラテスの言葉を聴くことになる。
 私たちがソクラテスという人物になおも心を動かされるとすれば、それはこの証言の構造がもたらす効果を抜きにしては考えられない。証言に立ち会うということは、すでに失われてしまったものと向き合うということだからだ。そこには、目の前に存在するもの以上に現実的なものがある。

***

  『転移』のセミネールの前半でラカンは『饗宴』の注釈に力を注いでいるが、その緻密さには少なからず驚かされる。ここでラカンがたっぷりと時間をかけて行っているのは、一言でいえば、『饗宴』を精神分析の「セッション」のパラダイムとして読み解く作業である。つまりラカンは、ソクラテスの振る舞いのうちに精神分析家の果たすべき役割を見て取ろうとしている。
 この「セッション」で主体(患者)のポジションに身を置いているのは、その知力と美貌で人々を魅了しながらも、あまりに型破りな行いの数々でアテナイに政治的混乱をもたらしてやがて没落し、暗殺されてその生涯を閉じることとなったアルキビアデスである。ソクラテスとアルキビアデスが親密な関係にあることは当時よく知られていた。ソクラテス裁判の背景には、アルキビアデスの悪名高い行いの数々はソクラテスとの交際による堕落の産物ではないか、という疑惑もあったようだ。
 したがって『饗宴』には、疑惑に満ちたソクラテスとアルキビアデスの関係が実際のところどのようなものだったのかを示す、という戦略的意図もある。ただし、アルキビアデスが登場するのは物語の終盤であって、この「セッション」で起こっていることを正確に見定めるためには、やはりそこに至るまでのやりとりを踏まえておかなくてはならない。したがって私たちは、今回からラカンとともに『饗宴』のプロットを追いかけてみることにしよう。
 『饗宴』の舞台はアテナイの悲劇詩人アガトンの邸宅で催された酒席であるが、前日に羽目を外して酒を飲み過ぎた面々は、今日は愛の神エロスを賛美する知的な会にしようということで一致する。そんなわけで、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストファネス、アガトン、そしてソクラテスが順にエロス賛美の演説を行うことになった。ちなみにアルキビアデスはソクラテスの演説のあとになってはじめて登場する。酔っ払って乱痴気騒ぎをしながらこの会に乱入し、一悶着起こすという設定だ。
 プラトンはここでも、宴に参加していたアリストデモスがのちにソクラテスの弟子アポロドスに語って聞かせた話として、この舞台を描いている。宴が行われてから十数年後、まだ哲学に目覚めて間もないアポロドスは、この話を友人たちのために再現してみせる。
 もちろん、ここでエロスというテーマが選ばれていることには必然性がある。愛の神エロスについて語ることは、おのずと恋愛について、ひいては性愛について語ることに結びつく。そういう意味では誰もが「エロスとは何か」という問いの当事者になりうるわけだが、何よりもソクラテスとアルキビアデスの関係に焦点をあてるにあたって、プラトンはエロスの本質を問うことが不可欠だと考えたに違いない。くわえて、最初に演説する若者パイドロスは医師であるエリュクシマコスと、そして宴の主催者であるアガトンは二番目の演説者パウサニアスと恋愛関係にあった。
 パイドロスとエリュクシマコスの関係が「少年愛(パイデラスティア)」の典型であるのに対して、アガトンとパウサニアスの関係はその特殊な例であるといえる。少年愛とは、成人男性が未成年の少年を愛し、教え、導くものであり、これは当時のアテナイでは一般的な習俗だった。成人男性は、ホモソーシャルな恋愛関係をつうじて、いわば少年のメンターの役割を果たしたのだ。この二者関係で、成人のほうは「エラステース(愛する者)」、少年のほうは「エローメノス(愛される者)」と呼ばれる。パウサニアスはアガトンの「エラステース」だったのだが、饗宴の当時アガトンはすでに三十歳のいい大人になっていた。彼らの関係が特殊であるというのはそういう意味だ。
 では、さっそく賛美演説の中身をみていくことにしよう。トップバッターであるパイドロスの演説は、その完成度からいえば可もなく不可もない、あまり印象に残らないものだが、『饗宴』全体の理解にかかわる重要な論点を含んでいる。パイドロスは、エロスが最も古く由緒正しい神であることに触れたあとで、人間の徳にはエロスが不可欠であるということを力説する。ここでも「エラステース」と「エローメノス」という二者関係が重要な位置を占める。

愛する人〔=エラステース〕がいたとしましょう。その人がなにか恥ずべきふるまいをしたとか、あるいは誰かから辱めを受けたにもかかわらず、臆病ゆえに自分を守れなかったことが発覚したとします。そのとき彼は、父親や友人といった人たちよりもむしろ、愛する少年にそれを見られたとき、最も苦しい思いをするのです。さらにぼくたちは、愛される少年〔=エローメノス〕についても、これと同じことを目の当たりにします。すなわち、自分がなにか恥ずべき状態に置かれているのを見られるとき、少年は、自分を愛してくれる人に対して、最も恥ずかしいと感じるのです。(『饗宴』、178D)[3]

 少年愛は人間を名誉に目覚めさせ、高貴な行いに向かわせる。パイドロスは、このような愛によって結びついた者たちからなる軍隊こそが最強の軍隊だろうと述べている。というのも、愛に駆り立てられて実現される名誉の最たるものは、勇敢な自己犠牲だからだ。こうしたパイドロスの凡庸な極論を、ラカンは「最終的な犠牲の原理としての愛」[4]と呼ぶ。
 愛に由来する自己犠牲は、神々をも感服させる。パイドロスは、その例としてホメロスの叙事詩『イリアス』に登場する英雄アキレウスを取り上げている。アキレウスはトロイア戦争で親友パトクロスを失うが、その敵討ちのためにみずから出陣し、トロイアの王の長男ヘクトルを殺害したうえ、その死体を引きずりまわして復讐を果たす。その結果、アキレウスは死後「エリュシオン(祝福された者たちの住まう島)」に送られた。ここには、死へと向かう極限的な愛があるとパイドロスは言う。

アキレウスは、母親から次のように知らされていました。彼がヘクトルを殺せば、彼自身も死ぬことになるであろうと。だがアキレウスは、自分を愛してくれたパトクロスのために戦い、その敵討ちをする道をあえて選んだのです。アキレウスは、単にパトクロスのために死のうとしただけではありません。すでに亡くなっているパトクロスのあとを追い、自分も一緒に死のうとしたのです。だからこそ、神々はアキレウスを高く賞賛し、彼に並々ならぬ栄誉を与えました。なぜなら、彼は、自分を愛してくれた人を、それほどまでに大切にしたのですから。(『饗宴』、180A)

 アキレウスはパトクロスのためにみずからの命を賭け、そうすることでパトクロスと添い遂げようとした。こうした「美談」は取り立てて目新しいものではない。だが、アキレウスがパトクロスに愛されていたということ、つまりエローメノスの側の立場に身を置いていたことをパイドロスが強調している点は注目に値する(「自分を愛してくれたパトクロス」、「自分を愛してくれた人」)。うえに続く一節でも、パイドロスは、アキレウスがパトクロスよりもずっと若かったこと、そしてきわめて美しい若者だったことに触れ、アキレウス=エローメノス/パトクロス=エラステースという少年愛の構図を押し出している。
 愛される対象としてのエローメノスが、いわば少年愛の関係を逆転させてエラステースに対して深い愛情を示すときにこそ、神々は最大の栄誉を与える。パイドロスにとっては、この逆転の論理こそが何より重要だった。それは、すでに述べたように、パイドロス自身がエリュクシマコスのエローメノスという立場にあり、彼のアキレウスへの肩入れは、自身のエリュクシマコスへの愛の正当化と切り離せないからだ。プラトンは、きわめて周到に、演説者それぞれのエロス論を当人が今まさに生きている恋愛と連動させている。 

*** 

 ラカンもまた、愛される美しい対象がいわばみずからのポジションを抜け出して愛する主体となる、という逆転の論理こそがパイドロスにとって重要であるということを教えている。ラカンはここに、彼が「愛の意味作用」と呼ぶものが出現するための条件を見いだしている。 

愛の意味作用の最もセンセーショナルな出現、〈祝福された者たち〉の領地〔…〕のなかでも特別の座をアキレウスに与える神々によって承認と栄誉を与えられた、最も着目すべき出現は、まさしく、ここで愛される者が愛する者として振る舞っている、ということにこそ由来している。[5] 

 「〈祝福された者たち〉の領地」といわれているのは、もちろんエリュシオンのことである。ところで、「愛の意味作用(la signification de l’amour)」という表現にはラカン独特の含意がある。ここで前提となっているのは、ラカンのメタファーと(その基礎としての)メトニミーにかんする理論だ。この理論について簡単に確認しておこう。『エクリ』に収録された「無意識における文字の審級あるいはフロイト以後の理性」(1957年)というテクストで、ラカンはメトニミーを「シニフィアン同士の連結」、メタファーを「あるシニフィアンによる別のシニフィアンの置き換え」と定義している[6]
 シニフィアン(signifiant)とは、もともとは言語学者フェルディナン・ド・ソシュールに由来するタームで、言語を構成する基本要素のことを指す。直訳すれば「意味するもの」だが、ラカンはそれを独自に解釈し、シニフィアンが直接「意味」に結びついてはいないことを絶えず強調している。紛らわしいので、ここでは翻訳せずに片仮名表記を用いることにしよう。ラカンによれば、シニフィアンは他のシニフィアンとのみ結びつき、「意味」はその効果として生じる。
 こうした結びつきの最も基本的な形態がメトニミーである。「シニフィアン同士の連結」は、簡単にいえば、言葉同士が隣接して連なることを指す。これに対して、ある言葉を別の言葉で置き換えるメタファーの操作は、もう少し複雑だ。ラカンは、メタファーを、ある言葉が占めるべき位置に別の言葉が代入されている構造としてとらえている。そしてメタファーはつねにメトニミーありきで機能する。
 もっとも、ラカンはシニフィアンという概念をかなり広い意味で用いている。むしろ、様々な表現に言語と同じメカニズムを見いだしているといってもよい。だから、形式的な定義を云々するのはこのくらいにして、このメカニズムが具体的にどんなものなのか、次のようなベタなドラマを思い浮かべて考えてみよう。
 ヒロインはある日仕事を早く切り上げてお気に入りのカフェに行く。するとそこで学生時代の友人にばったり遭遇する。友人は職場の同僚だという男と一緒に来ている。友人同士の近況報告に始まり、三人はそこでしばし会話を交わす。ここで、表情や声色など、ヒロインが友人の同僚に惹かれているらしいことを匂わせるショットが挟まれるが、本人にはまだその自覚がない。ここでシーンが切り替わる。
 数日後、ヒロインは再び同じカフェに行く。するとそこには例の男がいて、今度はひとりで本を読んでいる。ヒロインは彼に話しかけ、前回よりずっと長い、そして少しうちとけた会話を交わす。ここで再び、いささか唐突にシーンが切り替わり、ヒロインが買い物をしてひとりで家に帰っている姿が映される。そこでヒロインは通り雨に遭い、びしょ濡れで自室にたどり着く。
 こういう一連の描写があった場合、ヒロインが男と出会うカフェのシーン、そして同じカフェで男と再会するシーンは、それぞれがシニフィアンとして、メトニミーの構造で結びついている。この結びつきは視聴者に、恋愛というファクターがこのドラマの鍵(のひとつ)であることを教える。つまり、恋愛がひとつの枠組みとして設定されることで、個々のシーン(シニフィアン)が意味を持つ。このメトニミーによって、あるいはそれを延長することによって、視聴者はこの次にヒロインの恋愛の始まりにかかわるシーン、例えば彼女が自分の気持ちに気付くことを示すシーンがやってくることを期待するはずだ。
 ひるがえって、最後の通り雨のシーンはひとつのメタファーである。メタファーの効果は、うえのメトニミーを前提としてはじめて作用する。つまり、通り雨のシーンは、そこに至るまでのメトニミーにしたがって連想されながらも実際には描かれなかったシーンの代わりに置かれており、ここに置き換えの構造が生じるのだ。
 ラカンによれば、メタファーによって「ポエジーないし創造の効果が産出される」。つまり、メタファーにはメトニミーにはない特殊効果がある、ということだ。その効果をラカンは意味作用と呼ぶ。ドラマの例でいえば、通り雨と恋愛の始まりはそれぞれがひとつのシニフィアン、つまり相互に関係することで意味を生み出す要素である。これらの要素が置き換えられることによってはじめて、両者に共通する、予測不能で避け難い性質が際立たせられることになる。これはメタファーの特殊効果を用いた描写テクニックであるといってよい。
 もちろん、こうした特殊効果の内実は文脈次第でさまざまに変化する。例えば、男女の出会いに端を発するメトニミーのライン上に置かれることによって、雨が性的なコノテーション(暗示的な意味)を獲得するかもしれない。あるいは、ヒロインの恋愛が通り雨のように唐突な終わりを迎えることを示す暗い予兆として、このメタファーが機能することもあるだろう。いずれにせよ、そこには通り雨というシニフィアンが単体では決して持ちえない「意味」が生じている。ラカンのいう「創造の効果」とはこうした事態のことである。
 さて、これを踏まえたうえで先にみたセミネールの一節に戻ろう。そこでラカンは、アキレウスとパトクロスの関係には「愛の意味作用の最もセンセーショナルな出現」があると述べていたのだった。ラカンがいわんとしているのは、要するに、愛とはメタファーの効果である、ということだ。実際、うえの発言の一週間後には、次のように語られている。 

われわれが出発したのはまさにここから、神としての愛からである。すなわちそれは、現実界のなかに顕現し、啓示される現実としての愛だ。このような愛そのものを語るには、われわれは神話として語るほかない。私があなた方を次のような定式のほうへ導くことで、問題となっている事柄の方向性を定めたのもそのためである。その定式というのは、エローメノスからエラステースへの置き換えとしてのメタファーのことだ。[7] 

 ラカンはここで、メタファーの理論を大胆に拡張し、愛される対象が愛する主体となるというパイドロス的な逆転の論理を、エローメノスからエラステースへの置き換えとみなすことで、愛をメタファーの効果=意味作用として定義している。さらに、このような愛は「神としての愛」、すなわち現実界に属する愛だと述べられているが、これはどういうことだろうか。
 まず、現実界というタームは、ここでは人間の散文的な知、つまりロゴス(言語あるいは論理)に基礎づけられた知の及ばない領域という意味で用いられている。ラカンによれば、古代ギリシャの神々、『饗宴』のテーマであるエロスや、ソクラテスを衝き動かしたアポロンといった神々は、このような意味での現実界に属している(ちなみに、キリスト教の神は言語的な秩序としての象徴界と結びついているとラカンは述べている)。だからこそ彼らの存在は、ロゴスの対極をなす叙述形式、すなわち神話(ミュトス)という形式で語り継がれる。そして、そのような神々を感嘆させるものこそが真の愛であるならば、この愛もまた現実界に属し、ロゴスを超え出る神話的な性質を宿していることになる。
 このようして現実界、神話、そして愛を結びつけるラカンのアクロバティックな発想は、どこへ向かっていくのだろうか。私たちがそこにたどり着くには、もう少し時間が必要である。

 

[1] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 105-106.
[2] Ibid., p. 106.
[3] 『饗宴』からの引用については以下の邦訳に準拠する。プラトン『饗宴』、中澤務訳、光文社古典新訳文庫、二〇一三年。
[4] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 60.
[5] Ibid., p. 63.
[6] Jacques Lacan, « L’instance de la lettre ou la raison depuis Freud » (1957), in : Écrits, op. cit., p. 518.
[7] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 69.

 

次回は2020年10月15日ごろ更新