「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2020.11.11

17かくも不純なる恋愛——聖と俗から「富者の心理学」へ

 

 前回は、『饗宴』の最初の演説者であるパイドロスの議論と、それにかんするラカンの解釈を取り上げた。パイドロスは、「エローメノス(愛される者)」と「エラステース(愛する者)」という少年愛をかたちづくる非対称な二者関係に着目する。パイドロスによれば、神々に祝福される高貴な行いには、本来愛される対象である少年が愛する主体になる、という関係の逆転が見いだされる。ラカンはこの逆転をひとつメタファーとみなし、愛とはメタファーの効果であると定式化した。
 パイドロスに続いてエロス賛美を行うのは、パウサニアスという人物である。前回述べたとおり、彼は宴の主催者であるアガトンと恋愛関係にあり、ふたりの関係は、慣習に反してアガトンが成人したあとも——つまりとうに少年でなくなってからも——続いていた。その彼の主張が少年愛の擁護に向かうことは、それゆえ必然的だろう。それどころか、すぐあとでみるように、パウサニアスは男性同性愛こそが真に優れた愛であるという独特の論陣を張ってゆく。
 パウサニアスの議論は、パイドロスが設定した枠組みそのものを問い直すところから始まる。パウサニアスが述べるところでは、そもそもエロスはひとりではない。よく知られているように、エロスは美と愛の神アフロディテを母に持つ。この意味で、エロスの本質を語るうえでアフロディテの存在は欠かせない。アフロディテは、醜いことで有名な火と鍛冶の神ヘパイストスと結婚していたが、軍神アレスの美貌に惚れて愛人とし、この愛人の子エロスを身ごもったとされる。
 ここで引き合いに出されるのは、アフロディテの出自にかんするふたつの伝承である。第一は、彼女は天神ウラノスの娘で、母親はいないというもの(ヘシオドス『神統記』)。第二は、ゼウスとディオネのあいだにできた娘であるというものだ(ホメロス『イーリアス』)。パウサニアスは、これらふたつの伝承をうけて、アフロディテはふたり存在するという立場をとる。前者は「天のアフロディテ」、後者は「俗のアフロディテ」とされるが、ここには明確な価値対立、あるいはヒエラルキーがある。
 この価値対立は、愛にかんするお馴染みの通念をそのまま体現しているといってよい。すなわち、パウサニアスは愛の精神的側面と肉体的側面の対立を出発点として、終始一貫して前者を美しいもの、後者を醜いものとみなしている。この両者をそれぞれ司るのが、うえのふたりのアフロディテから生まれた「天のエロス」と「俗のエロス」である。
 かくして、演説のテーマとなる賛美されるべきエロスは、美しい愛し方へと人を導く天のエロスにほかならないとされる。この枠組みは、異性愛に対する否定的評価と表裏一体だ。パウサニアスは俗のエロスに導かれた性愛を批判するが、ここにあるのは、まぎれもなく、異性愛——パウサニアスの視点に立つならば「非少年愛」と呼ぶべきかもしれない—に肉体的不純さを見いだす発想である。

第一に、そのような人々は、少年だけでなく女性も愛します。第二に、彼らは、恋する人の心よりも、むしろ体を愛します。第三に、彼らはできるだけ愚かな人を愛します。思いを遂げることしか考えていないからです。彼らは、愛し方が美しいか否かということなど、気にもとめていません。それゆえ、彼らは、思いつくまま、でたらめに行動します。その行動がよいのか悪いのかなど、おかまいなしなのです。(『饗宴』、181B

 こうした批判の論拠として、パウサニアスは俗のエロスの母親の出自をあげている。つまり、俗のアフロディテには男女両性の親がいることが、もっぱらパートナーの体を愛する不純な愛の根源にあるというのだ。これに対して、天のアフロディテには父親しかいない。パウサニアスによれば、まさしくここに、男性のみに閉じた恋愛の精神的純粋さの根拠がある。ふたりのエロスが体現する精神と肉体、純粋と不純、聖と俗の価値対立は、こうして、少年愛を頂点とする愛のヒエラルキーを作り上げる。

***

 パウサニアスはここから少年愛の精神性を縷々論じてゆくことになる。興味深いのは、少年愛をめぐる種々の通説の背後に、実はこの精神性を担保するための規範がある、という彼の主張だ。
 例えば、エローメノスには年齢制限があり、髭が生え始めた年頃が理想的で、あまりに幼い少年は対象外とされる。これは、少年愛が、双方が一定の理性的判断力を持つことを前提とした精神的営みであることを示している。パウサニアスは、俗のエロスに導かれた人間たちに対しては、「幼い少年を愛してはならない」という規則が強制されてしかるべきだとも述べている(『饗宴』、181E)。
 議論はさらに、少年愛について、アテネとその他のポリスで通用している考え方の比較にも及ぶ。アテネの風習は少年愛に様々な約束事を課しているが、この約束事はきわめて優れたものだとパウサニアスは言う。アテネでは、少年に求愛することは公然と行われるべきものとされ、周囲の者は求愛を力強く励ますという。そして、求愛においてはどんなに常軌を逸した行動に出ても称賛される。ただし、こうした求愛の全面的肯定は、それが「相手をものにしたい」という一心でなされるかぎりで成り立つ。逆にいえば、例えば財産や名声欲しさになされる求愛は、醜い行いとして断罪される。
 だが、アテネには一見したところこれと真っ向から反するような風習もある。求愛された少年は、易々とそれに応じることができないのだ。少年の父親は召使いに命じて少年と求愛者の接触を阻み、少年の友人たちは求愛者を罵倒する。これでは、少年への求愛はあたかも恥ずべき行いであるかのようではないか。求愛の全面的肯定と求愛者に課せられる種々の障害。ここに見いだされる対立は、一体何を意味するのか。
 ポイントになるのは、愛の永続性というテーマである。パウサニアスが理想とする、もっぱら精神性にもとづく少年愛が、永遠の愛という理念と結びつくことは見てとりやすい。肉体の美質は時間から逃れられず、いずれ衰え、失われる運命にある。となると、俗のエロスに導かれた肉体への愛にもまた終わりがある。これに対して、精神の美質とそれに向かう愛は永遠だというのだ。
 パウサニアスにとって重要なのは、ここでも、天のエロスと俗のエロスの峻別であり、あくまでも天のエロスに導かれた者同士が結ばれることである。では、アテネの風習にみられるうえの対立(求愛の全面的肯定と求愛者に課せられる障害)は、この点とどうかかわっているのか。これについて、パウサニアスは次のように述べている。

それゆえに、わたしたちの決まりは、求愛するほうには追いかけよと命じ、少年のほうには逃げよと命じます。つまり、彼らに追いかけっこをさせることによって、求愛する者と求愛される者が、それぞれどちらの種類に属する人間であるのかを検査しているわけです。(『饗宴』、184A

 エラステース/エローメノスという二者関係は、しかるべき時間をかけて作り上げられなければならない。恋の駆け引きが織りなす時間の洗礼を受けることによってはじめて、天のエロスに導かれた者がいわば選別され、パートナー同士となることができるからである。このような見方からすれば、一方で求愛という行為を奨励しながら、他方でそれにさまざまな障害を設けるアテネの風習は、きわめて合理的であるというわけだ。
 くわえて、アテネにはもうひとつ重要な決まりごとがある。それは、端的にいえば「徳を求めるべし」というもので、少年愛はもっぱらこの目的に奉仕しなければならない。

さらに、愛する側は、賢さをはじめとするさまざまな徳へと導いていく力がなくてはなりませんし、少年の側は、教養を身につけて、いろいろな知恵を持つために、それらの徳を手に入れたいと思わなければなりません。このようにして、これら二種類の決まりが同じ目的に向かって一緒に働くとき、そしてそのときに限り、少年が自分を愛してくれる人に身を委ねることが美しいといえるようになるのです。(『饗宴』、184D-E

 ここで、少年愛は教育という社会的機能を含む、という基本的な前提があらためて強調される。このようにみてみると、「知を愛し求める」という哲学の営みと少年愛のあいだには相通じるものがあるように思われるかもしれない。実際、精神的な愛を称揚するパウサニアスの議論は、『饗宴』の著者であるプラトン自身の思想に近しいとみる向きもある。
 しかし、ラカンはこうした読みを明確に否定し、パウサニアスの考えはプラトンのイデア論とはあきらかに別物であるという立場をとっている。では、ラカンはパウサニアスの議論に何をみていたのか。

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 ラカンによれば、パウサニアスの演説は独特の両義性を孕んでいる。
 すでにみたように、一方で、少年愛は双方の理性的な判断のもとでなされる、つまりエラステースとエローメノスはすでに一定の成熟を経ていなければならない、といわれている。他方で、少年愛の核心には教育があり、少年は徳に導かれるためにこそ求愛に応じ、恋愛をつうじて知を獲得してゆくとされる。ここで少年は、分別を備えてはいるがいまだ徳を持たざる者、という中間的で両義的な特徴を持つのだ。
 ひるがえっていえば、求愛者は、分別ある少年、すなわち愛するに値する少年を見つけ出し、自分がさらなる知恵を授け、徳へと導けることを相手に根気強くアピールしなくてはならない。興味深いことに、ラカンによれば、求愛者に課せられるこのような手続きは、実は求愛者自身を利するものであるという。ラカンは、パウサニアスの議論を「富者の心理学」として特徴づけつつ、次のように述べている。

しかし、富者の心理学全体は、富者の他者との関係のなかで問題となるのは価値なのだ、ということに基礎を置いている。問題になるのは、比較と尺度の開かれた諸様式にしたがって見積もられるもの、開かれた競争——厳密にいえば、財産=善(biens)の所有についての競争——のなかで比較されるものなのだ。[1]

 ラカンはここで一種の欺瞞に焦点をあてている。パウサニアスが理想とする、永遠のパートナーとの恋愛関係、代わりの存在しない他者との精神的関係であるはずの少年愛は、実のところ、ある一般的な尺度で測られる価値、比較可能な価値にもとづいている。愛される少年とは、まさしくこのような価値をより多く宿している対象、すなわち相対的に高価な財産にほかならない。ラカンのいう「富者(le riche)」とは少年を愛する者を指す。ラカンの考えでは、パウサニアス的少年愛の本質は、少年を財産として所有することにある。
 このような観点からすれば、この関係が成立するまでの恋の駆け引きも、少年の資産価値を吟味し、求愛者が余計な損失を被らないためのプロセスとみることができるだろう。ひたすら徳を求める少年こそ最も資産価値が高く、そうでない少年、例えば金品や名声に目が眩むような少年にかかずらう時間は、愛する者にとっては空費となるからである。だが、それ以上に本質的なのは、ラカンのいう「富者の心理学」が、パウサニアスとアガトンの少年愛の特徴を見事に示している点である。ラカンは次のように指摘している。

愛にかんするパウサニアスの理想は、権利上自分に帰属しているものを、自分が識別でき、活用できるものとして、安全な場所に囲い込んで資本化すること、金庫に入れておくことである。[2]

 すでに述べたように、この饗宴が開催された当時、アガトンはすでに30歳であり、彼とパウサニアスの関係は一般的な少年愛からは逸脱していた。パウサニアスにとっては、アガトンとの関係継続は、互いに生涯添い遂げる覚悟を決めた男同士の理想の実現にほかならない。永遠の愛という理想は、なによりも彼自身の逸脱した恋愛関係を正当化するための根拠として語られたのだ。しかし、ラカンはそこに、むしろ財産の私有の論理をみている。ふたりがアテネの風習に抗して恋人であり続けるのは、この論理の必然的帰結である。

***

 このように、パウサニアスの演説内容も、やはり彼自身の恋愛の実態と切り離されてはありえない。
 ここには、愛について語ることが孕んでいる本質的な困難が見てとれる。ほとんどの場合、ひとは、他のどの愛とも異なる“この”愛について語ることしかできない。むしろ、「“この”愛とは一体何なのか」という切迫した問いを離れたところで、愛一般とでもいうべきものを語っても、優等生じみた平板な言葉が宙を舞うばかりだろう。だからこそ、「天のエロスと俗のエロスの対立」という、すべての愛を説明するかのような大がかりな図式よりも、そこからラカンが取り出した、「少年を金庫に入れておくこと」という身も蓋もない「理想」のほうがよほど真実をとらえているようにみえるのだ。
 パウサニアスの演説の裏面を暴き出すようなラカンの読みは、この演説が少年愛にかんするプラトン自身の思想を代弁しているとする見方を否定するのに十分である。だが、ラカンはさらに細部にこだわってこのことを論証している。ラカンが注目を促すのは、『饗宴』の語り手であるアポロドスが、パウサニアスの演説を再現したあとに発した「パウサニアスは話を終えた(パウサニウー・デ・パウサメヌー)」(『饗宴』、185C)というイゾロジー、つまり一種の言葉遊びである。
 アポロドスはここで、この手の言葉遊びがソフィストの常套テクニックであることをわざわざ仄めかしている。よく知られているように、弁論術の教育を生業とし、真理ではなく論戦での勝利を追求したソフィストたちは、つねにソクラテスの(そしてもちろんプラトンの)批判対象だった。どこかパウサニアスをおちょくるような響きを持つアポロドスのイゾロジーには、プラトンが周到に書き込んだメッセージを読み取ることができるのではないだろうか。すなわちそれは、パウサニアスの議論はソフィスト的詭弁である、というメッセージだ。
 アポロドスがこのあと語るのは、『饗宴』という著作のコミカルな性格をひときわ印象づけるシーンである。パウサニアスの次に演説するはずだった喜劇作家のアリストファネスが、しゃっくりが止まらないと言って、医師であるエリュクシマコスに助けを求めたのだ。「なあ、エリュクシマコス。きみは、俺のしゃっくりを止めるか、さもなくば、しゃっくりが止まるまで俺の代わりに話をするか、どちらかをするべきだよ」(『饗宴』、185D)。こうしてパウサニアスの次はエリュクシマコスが演説を行うことになった。
 このくだりについてラカンは、ひとりの高名な友人から示唆を受けたという。それは、フランスのヘーゲル受容で決定的な役割を果たした哲学者アレクサンドル・コジェーヴである。ラカンがセミネールで明かしているところによれば、彼らは週末を共に過ごしたが、別れ際にコジェーヴはこう言ったそうだ。「とにかく、なぜアリストファネスがしゃっくりをしたのかがわからなければ、『饗宴』は決して読み解けないだろう」[3]。一見したところ取るに足らないこのしゃっくりのシーンは、少なからぬ意味を担っている。そこにはまちがいなくプラトンの何らかの意図が込められている。そうコジェーヴは考えたのだ。
 では、それはどのような意図なのか。ここまでのコンテクストを踏まえれば、その答えはおのずとみえてくる。実際ラカンも、コジェーヴと話すまではこのしゃっくりの意味がなかなかわからなかったらしいが、セミネールでは次のようにきっぱりと述べている。「アリストファネスがしゃっくりをするのは、彼がパウサニアスの演説のあいだずっと身をよじって笑っていたからであって、プラトンもやはり笑っているのだということを見てとらずにいるのはやはりきわめて難しい」[4]
 プラトンの考えをパウサニアスの演説のなかに見いだすことはできず、それはやはりソクラテスの演説にこそ求められなければならない。だが、それと同時に、ソクラテスをはじめとした登場人物が、作者の意図を越えて動き始める地点に立ち至ったとき、私たちはようやく『饗宴』を読み解くことができたことになるだろう。ラカンが哲学者ソクラテスに精神分析家のプロトタイプを見いだしたのも、まさにそうした地点でのことである。

[1] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 74.
[2] Ibid., p. 75.
[3] Ibid., p. 80.
[4] Ibid.

次回は2020年12月15日ごろ更新