「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2021.1.8

18あなたは愛を知らない——分裂するソクラテス

 

 エロスを賛美するというお題は、演説者自身がどのような愛をいままさに生きているのかを浮き彫りにする。前回みたパウサニアスの演説もその好例だ。彼の語りの背後には、少年愛こそが純粋な愛であるという主張が垣間見える。ラカンはそこに、対象の私有の論理を見てとったのだった。
 次の演説者となるはずだった喜劇作家アリストファネスは、しゃっくりが止まなくなり、ヒポクラテス派の医師エリュクシマコスに助けを求めた。これは、ラカンの考えでは、アリストファネスがパウサニアスの詭弁に笑い転げていたからだ。こうして先に演説することになったエリュクシマコスは、パウサニアスが提示した枠組みを引き継ぐかたちで持論を展開する。すなわち、「天のエロス」と「俗のエロス」の峻別という枠組みである。
 ただし、エリュクシマコスはエロスの対立をもっと大胆にとらえ、広範な議論を展開している。例えば、身体の健康な部分と病気の部分はそれぞれ異なるエロスを持っており、医術とはエロスの調和を回復する営みであるとされる。彼は、この対立と調和の論理を、音楽から季節の変化、儀式や占いにまで適用してみせる。彼のいうエロスは、まるでジェダイ・マスターたちが通暁しているというあの「フォース」のようだ。
 だが、私たちの関心を惹くのは、彼のあとにようやく演説することになったアリストファネスのほうである。アリストファネスはエリュクシマコスに教わった「くしゃみ療法」でしゃっくりを止めることができた。なんのことはない、鼻腔をくすぐって何度かくしゃみをすればしゃっくりは止まる、という「療法」である。ふざけた調子でこの「療法」の効用を報告するアリストファネスに、医師はおカタい態度で苦言を呈している。
 アリストファネスのひょうきんで憎めない振る舞いは、彼が喜劇作家であることを踏まえたプラトンの演出によるものであり、明らかな創作である(例えば、アリストファネスの手になる喜劇『雲』では、ソクラテスは胡散臭いソフィストとして描かれており、実際の彼らは饗宴を共にするような親しい間柄ではなかったと考えられる)。そんなわけで、ここで描かれるアリストファネスの演説もどこかおかしみのある内容だが、この演説は、『饗宴』のなかでおそらく最も広く、後世に知れ渡ることになった。

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 出発点となるのは、人間の原初の姿にかんする神話的な説明である。
 アリストファネスによれば、かつての人間は、私たちとはずいぶん異なる姿をしていた。全身は球体で、手足はそれぞれ四本ずつ、そして顔も性器も二つあったというのだ。球体だから、急いでいるときはくるくる回転して移動していたというから可笑しい。ところで、この体型は天体のイメージと密接に結びついている。どういうことだろうか。
 そもそも、元来人間には三つの性別があったという。男(アネル)、女(ギュネ)、アンドロギュノス(アネルとギュネの合成語)である。着目すべきはもちろん三つ目で、これは男女両方の性質を持つ。つまり両性具有である。三つの性は、それぞれ太陽、地球、月を起源としており、彼らの体型は三つの天体を模したものらしい。アリストファネスが言うには、月は太陽と地球の性質を合わせ持っており、それゆえにアンドロギュノスの起源とみなされる。
 太古の人間たちは力強く、志もすこぶる高かった。だから神々にも反抗した。球体は完結した円を(直径を軸として)回転させることで描き出されるが、これは自足した完全性のイメージと重なり合う。彼らの外見は、その内面をかたちづくっている彼らのセルフイメージ、神をも畏れない全能感にぴったりである。もちろん、この全能性はあくまでも想像的なもの(ラカンのいう「想像界imaginaire」の意味で)であって、だからこそこの話は、最初からどこか滑稽なのだ。
 恐れ知らずの人間に手を焼いた神々はなんとかしようと画策するが、人間を絶滅させてしまうわけにもいかない。人間が自分たちに捧げる信仰や供物はあくまでも保持しておきたいからである。そこで、神々の王であるゼウスはひとつ妙案を思いつく。それは、人間たちを片端から真二つに分断して弱体化させるというものだった。その結果、男と女という二つの性が残されたわけである。
 半身を断ち切られた人間は、まず首の向きを傷口のほうに向け変えられた。これは、自身の傷跡を直視することで人間が謙虚になると考えられたからである。そのうえで、傷口の皮を引っ張って結び合わせ、私たちの腹にあたる部分が作られた。いかにもお粗末な施術だが、妙によくできた話である。このときできた皮膚の結び目は、「太古の受難の記憶」[1]としていまも残されている。すなわち臍がそれだという。
 しかし、人間たちの運命はゼウスたちの予想を越えて痛々しいものとなってしまう。

かくして、人間が元来もっていた体は、二つに分断されてしまった。だから誰もが自分の半身を恋しがり、自分の半身と一緒にいた。彼らは、互いに腕を巻きつけて抱き合い、再び一体化しようとした。彼らは、一緒にいる以外、なにもしようとはしなかった。食事もなにもしなかったから、彼らはつぎつぎに死んでいった。[2]

 こうして人間たちは、坂を転げ落ちるように絶滅への道を進んでゆく。これをみてあまりに気の毒だと思ったゼウスは、新たな一手を講じる。それが性器の移動である。それまで人間は、性行為によって子ども作ることをせず、地面に直接子どもを生みつけていたという。身体を分断されたあと顔を向け変えられたから、性器は背中側に付いていたことになる。ゼウスはこれを前方に移動させ、人間の生殖方法そのものを変化させた。人間は、このときはじめて、他者と性行為に及ぶ存在となったというわけだ。アリストファネスは次のように語る。

このとき以来、人間のなかに、互いを求め合うエロスが生まれた。それは、人間の太古の姿を回復させて、二つのものをひとつにし、人間本性を癒やそうとしてくれるものだ。
そういうわけで、俺たちはみな、ヒラメのように、ひとつの体が二つに割られたものなのだからね。だから、俺たちはみな、自分に符合するもう一方の割符をいつでも探し求めているのだ。[3]

 人間のなかに生じたエロスは、半身の喪失から死へと向かう運命が書き換えられたことの帰結である。他者を愛し求める人間の性愛は、かつての喪失がもたらした痛切な疼きにその根を持っている。この神話は、そのコミカルで突飛な筋書きとは裏腹に、少なからぬリアリティを備えてもいる。それは、ある根源的な喪失を欲望の根拠とみなすことで、この神話が愛のやむにやまれぬ本性をとらえているからだ。
 エロスを敬い、それに導かれることによって、私たちは「真実の恋人」と出会うことができるとアリストファネスは言う。そうした恋愛のもたらす無上の幸福は、失われた半身との再会のそれにほかならない。その幸福を再び失わないためにも、人間は神々を敬うことを忘れてはならないわけだが、なかでもエロスは特権的な位置を占めている。
 さて、うえのような経緯から、人間の身体は男女という二つの性を持つことになった。アリストファネスによれば、かつて男だった者の多くは、神によって分断されたあとは男性同性愛者に、かつて女だった者の多くは女性同性愛者になる。異性愛者たちはアンドロギュノスの末裔だが、その多くは浮気性であるとされる。
 この演説にも、少年愛にひとつの理想を見てとるような発言が散見される。いわく、少年愛は互いの男らしさを尊ぶもので、この経験を持つ少年だけが、大人になってから立派な一人前の男となり、有能な政治家になることができる。アリストファネスは、その場にいる同性愛のカップル、すなわちパウサニアスとアガトンの関係にもわざわざ言及し、二人の関係も真実の恋人の一例であるとしている。

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 では、アリストファネスの話のどこに、ラカンは着目したのだろうか。第一の論点は、ゼウスが人間を救うために行った第二の外科的処置、すなわち性器の移動である。切り離したり取り付けたりすることのできる性器というモチーフは、精神分析においてはおなじみのものだ。
 フロイトによれば、幼い子どもが身体的性差を発見したときに働かせる空想は、まさにこうした類のものである。この根源的な謎に直面したとき、子どもはそれを端的に示す標識として、ペニスに強い関心を寄せる(フロイトの考えでは、この段階の子どもはまだ女性器をそれとして認識できていない)。この関心に端を発する子どもの内面のドラマを、フロイトは「去勢コンプレクス」と名づけた。
 このコンプレクスの内実は、もちろん男女で異なる道を辿る。男児であれば、母親をはじめとした周囲の女性たちは、何らかの理由でペニスを奪われたのだと考え、自分のそれもいつか奪われるかもしれないという不安に陥る。それに対して女児は、自分もいつかそれを手に入れられるだろうという期待を抱き、その方法を模索する。まさに、切り離し/取り付けることのできる性器である。
 去勢コンプレクスにかんするこうした理論は、今日フロイトの業績のなかで最も悪名高いもののひとつだろう。実際これには再検討の余地が多々あるが、ここで着目しておきたいのは次の点である。
 性差は本来、たんなる解剖学的事実にすぎない。にもかかわらず、子どもがこの事実をひとつの謎として受け取り、それを解くためにあれやこれやの空想を働かせるのは一体なぜなのか。それは、ある人にはペニスがあり、別の人にはないという容易に眼に留まる事態に、なんらかの「意味」があると子どもが考えるからである。つまり、この空想のなかでは、ペニスはたんなる身体器官のひとつであることをやめ、一種の記号となっている。
 フロイトは、生物学的性差を動かしがたい「岩盤」とみなし、精神分析がしばしば突き当たる限界と見なすことを躊躇わなかった。私たちは、自分の身体の性を受動的に引き受ける以外になく、その事実がもたらすかもしれない葛藤は、原理的に消えることがない。だから、それをただの「ありふれた不幸」として受け入れることができれば、それで十分である。これがフロイトのリアリズムがたどり着いたとりあえずの結論だった。
 これに対して、1950年代のラカンは、性差の記号としてのあり方に事態の本質をみていたといってよい。ラカンがペニスと厳密に区別して「ファルス(phallus)」という概念を用い、それがひとつのシニフィアン(言語的要素)であることを絶えず強調したのはそのためだ。ちなみに、ファルスを軸としたラカンの理論的作業がいったん完成するのが1958年頃、私たちがいま参照している『転移』のセミネールは1960−61年に開講されたものである。
 当時のラカンの考えでは、精神分析において問題となる性差、私たちの無意識に根をおろしている性差は、自然ではなく文化の側にある。人間の性差はなによりも言語によって規定されている。そもそも、性差の「意味」を問わずにはいられないというフロイトが見いだした事態そのものが、煎じ詰めれば、言語に依拠して生きるという人間固有の条件に根ざしているのだ。この言語的性差の鍵となるのがファルスであり、フロイトの描き出した去勢コンプレクスは、じつのところファルスとペニスの混同の産物である。
 アリストファネスの語る神話で決定的な役割を果たしている性器、切り離したり取り付けたりできる、そのかぎりで人工的(非自然的)な性質を持つ性器とは、まさにファルスのことである。それどころか、ラカンはこうも述べている——「私が喜劇の原動力の核心と言ったものは、その根底において、つねにファルスへの準拠である」[4]。ラカンにとって、喜劇作家の演説に露骨にファルスが登場することは、まったく必然的なことだったわけである。

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 アリストファネスの演説には、『饗宴』全体の読みにかかわる重要な論点が、ほかにもまだ含まれている。それは、愛と知の関係である。とはいえ、アリストファネスが語ろうとしているのは、知を愛し求めること(=哲学)とは別の事柄だ。

彼ら〔=自分の半身と出会った恋人たち:引用者〕は、自分たちが互いに何を求め合っているかを言うことはできないだろう。彼らはたんにセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、何かそれとは別のものなのだ。しかし、彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じ取り、あいまいに語ることしかできないのだ。[5]

 愛する者は、自分がなぜほかの誰でもない「その人」を愛するのかを知らないし、それを言語化することもできない。つまり、愛とは知を、あるいはそれを根拠づけている言語を拒むものなのだ。裏を返せば、エロスを賛美するというかたちで愛とは何かを語る言葉は、どれも語り手自身の愛を取り逃がしていることになる。前回みたパウサニアスの演説が、対象の永遠の所有という彼の理想、彼が我知らず抱いている理想を語り損ねているように。
 絶えず知を逃れてゆくという愛の本性は、第16回でみたラカンの「愛は現実界に顕現する」というテーゼによって明確になる。ラカンによれば、愛は、神々と同じく現実界に属し、それゆえにロゴスではなくミュトス(神話)によって語られる。だとすれば、ロゴスに依拠した営みである哲学にとって、愛を論じることはそもそも手に余る課題ではないか。このように考えると、哲学者ソクラテスはいかにして愛を語るのかという問いがおのずと重みを帯びてくる。
 興味深いことに、自分は愛を論じることができるのかということにかんして、ソクラテス自身の立場は、宴を始めるときと自分の話の直前とでまったく別のものになっている。
 宴に集まった面々は、前日も酒を飲み過ぎたために、その日は議論をメインイベントにすることにしたのだった。エロス賛美の演説をみなで披露し合おうというエリュクシマコスの提案に対して、ソクラテスはこう応じている。「きみに反対票を投じるものは誰もいないだろう、エリュクシマコス。まず、このぼくは反対できそうにないね。なにしろ、ぼくはエロスにかんすること以外、なにひとつ知らないのだからね」[6]
 ソクラテスは自分が知者であることをいつも否定するが、唯一エロスについてだけは知っているという。しかし、自分の順番がまわってくると、ソクラテスは一転して後悔を口にする。ただし、ソクラテスのこの弱腰は、それまでなされた演説を痛烈に批判するための皮肉なパフォーマンスである。少し長くなるが、ソクラテス自身の発言をみておこう。

なにしろ、ぼくは愚かにもこう思い込んでいたんだ——まずは、賛美されるものについて真実を述べなければいけない。そして、これを基盤にして、その真実のなかから最も美しいものを選び出し、できるだけうまく並べていけばいいのだとね。だから、自分はうまく話ができるだろうと、ずいぶんいい気になっていた。なにかを賛美する本当のやりかたをわかっていると思い込んでいたものだからね。
 だが、どうもそれは、なにかを賛美する正しい方法ではなかったようだ。むしろ、実際にそうであろうがなかろうが、そのものについて、できるだけ大袈裟な美辞麗句を並べ立てるのが正しいらしい。たとえそれが嘘だったとしても、たいした問題ではなかったのだ。どうやら、指示されていたのは、ぼくたちのそれぞれがエロスを賛美するということではなくて、エロスを賛美しているように見せかけるということだったようだ。[7]

 真理をあらゆる「見せかけ」から厳密に区別し、そのものとして取り出さなければならない。この主張は、ソクラテス哲学の根本原理である。この原理に照らしたとき、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、そしてアリストファネスの演説はいずれも言葉巧みな見せかけであり、エロスの本質をとらえていない。それぞれの演説が持つ色彩は、この根本原理を前にして無に帰するかのようである。
 この点について例外となるのが、アリストファネスのあとに演説した悲劇作家アガトンだ。というのも、彼は自分の演説を始めるにあたって、「それがどんなもので、どんなものの原因なのかを、言葉できちんと説明すること」[8]が、唯一正しい賛美のやり方だと述べているからである。実際、ソクラテスもこの始め方には完全に同意するとコメントし、アガトンと対話しながら自分の演説を進めている。
 ソクラテスとアガトンの対話については次回取り上げることにして、ここ着手しておかなくてはならないのは、うえで触れた問い、ソクラテスはいかにして愛を語るのかという問いである。ソクラテスは愛について何かを知っているのだろうか。哲学者の言説の形式と、愛との関係はどうなっているのだろうか。

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 実は、この問いに対するラカンの答えは明確である。
 ラカンの考えでは、ソクラテスの語りのなかで、知(エピステーメー)は神話(ミュトス)に席を譲っている。つまり、ソクラテスの言説のなかには知が及ばない裂け目が生じており、それを埋め合わせるようにして神話が登場しているというのだ。実際、ソクラテスの語りは、哲学者が特権的な話し手として、他の演説と一線を画する真正の知を展開する、というものとはいささか異なっている。というのも、ソクラテスは、エロスをめぐってかつて自分が対話した女性、すなわちマンティネイアからやってきた巫女ディオティマの語りを再現しているからである。
 それまでの五人の語りが単独の話者による演説であったとすれば、ソクラテスの語りは、それ自体が再現された過去の対話であり、なおかつアガトンとの現在進行形の対話を含んでいるという意味で、重層的かつ動的な性質を持っている。ソクラテスによる再現をつうじてなされたディオティマの登場は、宴に興じる男たちの理屈のなかに投げ込まれた異物であり、彼らの演説が含んでいるホモソーシャルな傾向を挫く役割を果たしているといえる。
 それだけではない。ラカンの驚くべき指摘によれば、ソクラテスの語りの形式には、アリストファネスが語った神話の中心的なモチーフが共鳴している。エロスの根源にある半身の喪失という事態を、ラカンは「雌雄分離(diœcisme)」なる奇妙な語で示しつつ、次のように述べている。

この「雌雄分離」はわれわれにとって大いに連想を呼び起こすものである。私がさきほどSpaltungという、主体の分裂〔refente subjective〕を想起させる語を用いたのは理由のないことではない。ソクラテスがみずからを消し去り、「雌雄分離」し、自分の代わりにひとりの女性に話をさせるのは、愛についての言説が問題となっているときに、何かがソクラテスの知を逃れるかぎりにおいてではないだろうか?——そうなのだ、ソクラテスは自分のなかの女に語らせているのである。[9]

 ラカンはここで、ソクラテスという話す主体の分裂に焦点を当てている。第6回でみたように、主体は言語に住まうことで避けがたく分裂を被ることになる。この分裂は、ソクラテスの語りのなかでは、ソクラテスにとっての、あるいは哲学にとっての他者が現れることによって示されている。ソクラテスのなかの女——それは知が及ばない現実としての愛を体現しており、ソクラテスの分裂は、ロゴスとミュトス、あるいは哲学とその失われた半身との分裂でもある。次回は、この他者が具体的に何を語ったのかをみてみよう。

[1] 『饗宴』、191A
[2] 『饗宴』、191A-B
[3] 『饗宴』、191D
[4] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 118.
[5] 『饗宴』、192C-D
[6] 『饗宴』、177D
[7] 『饗宴』、198D-E
[8] 『饗宴』、195A
[9] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 146-147.

次回は2021年2月15日ごろ更新