「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2021.4.12

19とり憑かれた哲学者——美のイデアと死の欲望

 

 前回は喜劇作家アリストファネスのエロス賛美を取り上げた。アリストファネスは、愛の神話的な前史として、神の制裁による半身の喪失を語った。これは、性的存在としての人間の起源をなすひとつのトラウマだ。彼によれば、エロスに導かれた真実の愛がもたらす無上の悦びは、失われた半身との再会のそれにほかならない。
 この話は、実は最後のソクラテスの発言のなかで否定されている。しかし、だからといって、アリストファネスの議論の価値が無に帰するわけではない。実際、ラカンはこの話に少なからぬ意味を見いだした。ラカンによれば、半身の喪失というモチーフは、話す主体としてのソクラテスに刻まれた分裂を先取りし、暗示している。
 この分裂ゆえに、ソクラテスは、自分がディオティマとかつて交わした対話を再現することでしか、愛について語れない。哲学的な知(エピステーメー)と神話(ミュトス)が分裂する地点で、ソクラテスは自分のなかの女に語らせている——そうラカンは指摘する。
 ソクラテスの語りの端緒となるのは、彼の前に演説したこの宴の主催者、すなわち悲劇作家アガトンとの問答である。アガトンは、エロスが備えている徳の数々(正義、節度、勇気、知恵)について、あるいはそれらがもたらす至上の幸福について饒舌に語るが、『饗宴』の展開を考えるうえで最も重要なのは、エロスと美との関係だ。
 アガトンによれば、エロスは神々のなかでもひときわ若く、繊細で美しいという。それだけではない。注目すべきは、アガトンが美を希求する存在としてエロスを特徴づけている点である。

そして、そのエロスは、明らかに、美を求めるエロスなのです。(なぜなら、エロスが醜さを求めることなどありえないのですから。)すでにお話ししたように、エロス誕生以前には、たくさんの恐ろしい事件が起こったと言われています。アナンケの支配下にあったからです。しかし、この神〔=エロス:引用者〕が生まれると、美しいものを求める欲求によって、神々のもとにも、あらゆるよきものが生まれたのです。[1]

 アガトンによれば、エロスの誕生は、世界のありようを一変させるだけのインパクトを持つ。ここで引き合いに出されているアナンケは、運命や必然を司る神である。「たくさんの恐ろしい事件」としてアガトンが念頭に置いているのは、ヘシオドスの『神統記』で描かれている、神の親子が三世代にわたって繰り広げた激烈な権力闘争だ。それは次のようなストリーである。
 神々の王クロノスは、父ウラノスのペニスを切り落として追放し、その座を我がものとしたのだが、今度は彼自身が父親の運命を反復するだろうという予言を受け取り、自分の権力が息子によって奪われる恐怖に苛まれることになる。この恐怖ゆえに、クロノスは息子ができるたびに食べてしまうのだが、最終的には末の息子ゼウスに討たれ、予言は実現する。ちなみにこれは、フロイトがしばしば「去勢コンプレクス」と「エディプスコンプレクス」の神話的表現として取り上げる話でもある。
 アガトンの意図は、神々の世界に織り込まれた残酷で悲劇的な運命と対比することで、エロスのもたらす友愛と平和がどれほど価値あるものかを強調することにあった。だが重要なのは、この友愛と平和の根本には「美しいものを求める欲求」がある、という理屈のほうだ。アガトンに続いて発言したソクラテスが食いついたのは、まさにこの部分である。
 アガトンの話を聴いて、ソクラテスはまず、「エロスとはなにかのエロスなのだろうか。それともなにものともいえないようなもののエロスなのだろうか?」[2]という問いを投げかける。ここでソクラテスは、親族関係の例を使って質問の意図を明確にしている。例えば、私たちが「父親」と言う場合、それはつねに息子ないし娘の「父親」を意味している。これと同じように、エロスもそれ自身以外の何かと必然的に結びついているのか、そうソクラテスは問うているのだ。
 この問いに対してアガトンは、エロスはなにかのエロスであるにちがいないと答える。問題は、その「なにか」とエロスとの関係がどのようなものかということだ。ソクラテスはここから、アガトンが強調していたエロスの本性、すなわち「美しいものを求める」という本性に正面から切り込んでゆく。ソクラテスによれば、エロスがなにかのエロスであるということ、それはエロスがそのなにかを求めているということである。そして、なにかを求めるのは、そのなにかを所有していないときである。おそらくその通りだと答えるアガトンに対して、ソクラテスはいかにも彼らしいやり方でたたみかける。

おそらくではなく、必然的にそうなのではあるまいか——欲するものがなにかを欲するのは、それが欠けているからであり、欠けていないなら欲しなどしないということは。アガトン、ぼくには、このことが驚くほど必然的なことに思えるのだ。きみはどうだろうか? [3]

 この問いかけにも、アガトンはその通りだと答える。この同意によって、アガトンの演説に含まれた矛盾が決定的なものとなる。というのも、エロスが「美しいものを求める」のだとしたら、エロスは美しさを欠いていることになるが、アガトンはエロスをひときわ美しい神だと述べていたからだ。この点を指摘されたアガトンはこう答える。「ソクラテス、どうもわたしは、あのとき自分で言ったことを、まったくわかっていなかったようです」[4]

***

 自分の論の矛盾に直面して、「あなたに反論することができません」というアガトンに対して、ソクラテスは応じる——「いやいや、アガトン、きみは真理に反論することができないのだよ。ソクラテスに反論するのは、なんら難しいことじゃない」[5]。自分自身と自分が依って立つ論理とを峻別し、真理の自律性を強調するこの発言は、ソクラテスの欲望を考えるうえで少なからぬ意味を持つ。この点には次回立ち返ることにしよう。
 うえのやり取りでアガトンとの対話を終えたソクラテスは、いよいよみずからの論を展開するが、すでに述べたように、これはディオティマとのあいだで交わされたかつての対話の再現である。それだけではない。ソクラテスは、いまアガトンが話したのと同じことを、自分もかつて考えていたのだという。つまりここには、ソクラテスとディオティマの関係が、アガトンとソクラテスのあいだで再演されるという構図がある。
 では、ディオティマはソクラテスに何を語ったのだろうか。
 彼女の話の出発点は、エロスが抱えている欠如をどう考えるべきか、というところにある。ディオティマは、エロスが美を欠く存在であり、それゆえにこそ美を求めていると言う。ただし、これはエロスが醜いということを意味しない。これと同様に、エロスは善を欠いているが、悪であるわけではない。美しいか醜いか、善か悪かという二項対立そのものを問いに付さなければ、エロスの本性はとらえられないのだ。
 ここから、ディオティマは議論の暗黙の前提をひっくり返してしまう。ソクラテスを驚嘆させたディオティマの主張はこうだ——エロスは神ではない。なぜなら、「すべての神は幸福で美しい」から、つまり、美を所有することで幸福な状態にあるのが神だからである。これに対してソクラテスは、それではエロスは人間なのかと問いかけるが、ここでも神か人間かという二項対立は役に立たない。
 ディオティマによれば、エロスは神と人間のあいだにある存在である。いわく、「偉大なるダイモーン(神霊)なのだ、ソクラテス。ダイモーンのたぐいはすべて、人間と神のあいだにあるものなのだからな」[6]
 ここで、ソクラテスがのちに裁判にかけられた際の罪状を思い出しておこう。彼は、ポリスの信じる神々ではなく、「新奇なダイモーンのごときもの」を自身の導き手として、若者たちを堕落させたとされる(本連載15参照)。それが罪に問われるべきか否かは別にして、ソクラテスの哲学活動とダイモーンとは切っても切り離せないのだ。では、ダイモーンとはどういう存在なのか。ディオティマの説明をみてみよう。

このダイモーンが媒介となり、すべての占いは執り行われる。また司祭は供物を捧げたり、秘儀を行ったり、呪文を唱えたり、あらゆる種類の予言や魔法を使うが、そのような司祭の技術もまたダイモーンが媒介となる。神が人間とじかに交わることはない。神々と人間のあいだの交流と会話は、人間が目覚めているときに行われるものであれ、眠っているときに〔夢を通して〕行われるものであれ、すべてこのダイモーンを媒介にして成立する。[7]

 神と人間のあいだには埋めようのない隔たりがあり、この隔たりを往来できる存在こそがダイモーンである。くわえて、ラカンが「神々は現実界に属している」(本連載16参照)と定式化していたことを踏まえて考えると、ダイモーンの働きかけは、人間にとっては現実界との束の間の邂逅であるといえる。ダイモーンという不確かな存在の声をつうじて、現実界はかろうじてみずからを知らせる——それを聴くことを知る者だけに。たとえ夢のなかにいても、その声を聴くときにこそ、ひとは真に目覚めるのだ。
 この意味で、ソクラテスは確かに目覚めていた。『ソクラテスの弁明』では、彼が日頃からダイモーンの声を聴き、それに従ってみずからの行動を決定していたことが語られている。ソクラテス裁判は、傍目には、彼に降りかかった災厄のように映ったはずである。しかし、当の本人はむしろ、この裁判が自分にとって善いことであるにちがいないと断言する。いかなる皮肉も含んでいないがゆえにその異様さが際立つこの断言の根拠は何なのか。それはダイモーンの沈黙である。ソクラテスは法廷で次のように述べている。

ですが、私が朝、家からやってくるときも、その神の徴(しるし)は反対しませんでしたし、この法廷に上るときもそうです。また、なにか言おうとしたその言論の、どこでも反対はしなかったのです。別の言論の機会には、いろいろなところで私が語るのを途中で引き止めていたのに。ですが、今はこの行動について、行為でも言葉でも、どこでも私に一切反対してきていません。[8]

 ソクラテスはここでダイモーンの声を「神の徴」と呼び、ディオティマの説明でみたように、神と自分とを媒介するものとみなしている。その声が自分を制止しないかぎり、自分の言葉は真に、自分の行動は善に結びついているはずだという確信が、ソクラテスを衝き動かしている。重要なのは、ダイモーンこそがソクラテスの哲学者としての生を決定づけ、なかでもエロスは特権的な意味を持っているということである。『饗宴』で展開される対話も、このことを踏まえて読まなくてはならない。

***

 ディオティマはさらに、「エロスは賢さと愚かさのあいだにいる」としたうえで、次のように述べている。

神々は誰ひとりとして、知恵を愛し求めもしなければ、知恵ある者になりたいとも思わぬ。すでに知恵があるのだからな。神でなくとも、知恵あるものなら、知恵を愛し求めることはないのだ。
ところが、愚か者もまた、知恵を愛し求めもしなければ、知恵ある者になりたいとも思わぬのだ。なにしろ、愚かさというものはなんとも始末に負えぬしろもので、美しくもよくもなく、賢くもないくせに、自分にはなにかが欠けているとは夢にも思わぬような輩が、自分には必要ないと思っているものを欲しがることなどあるまい。[9]

 知を愛し求める者は、神のごとく満たされているのでもなく、またみずからの無知に少しも頓着しない愚か者とも違う。その欲望は、無知と知のあいだに身を置くエロスによってこそ体現される。よく知られているように、ギリシャ語のフィロソフィアφιλοσοφία(哲学)は「知を愛し求めること」という意味だ。「自分は知者ではない」という自覚を出発点にしたソクラテスは、まさにそのようなエロスに導かれて哲学者となった。興味深いのは、こうした知の問題が、同時に美の問題でもあるということだ。ディオティマは言う。

知恵は最も美しいもののひとつであり、エロスは美しいものを求める愛だ。だから、エロスが知恵を求める者であるのは理の当然といえる。そして、知恵を愛し求める者なのであるから、エロスは知恵ある者と愚か者のあいだにあることになるわけだ。[10]

 こうして知恵と美が愛の特権的対象として位置づけられる。だが、ディオティマの説の要となる議論はむしろこのあとの部分だ。ディオティマは、エロスが対象を追い求めるのはなぜなのか、対象を愛するとはどういう働きなのか、という問いへと踏み込んでゆく。自分にはまったくわからないというソクラテスに対して、彼女は次のように語る。「その働きとは、美しいもののなかで、子をなすことなのだ。これは、体の場合であっても、心の場合であっても、同様にいえることだ」[11]
 ディオティマはここから人間の性愛へと論を展開していくが、注意すべきは、これが男女の生殖の話に留まりはしない、という点である。つまり、「美しいもののなかで、子をなすこと」という表現は、文字通り生殖を意味すると同時に、決定的な出会いによって何か新たなものを産み出すことを比喩的に語ってもいる。別の言い方をすれば、エロスの働きは様々な領域で見いだされるが、この働きをいわば代表している行為が生殖である。
 実際ディオティマは、人間とはみな潜在的に子を宿した存在であり、節度や正義などの徳、あるいは知への愛(=哲学)が紡ぎ出す言葉や思想も、精神が身籠った「子」であるとみなす。つまり、エロスの働きとしての「懐胎」を女性の身体に限定するような発想は、彼女にはそもそもない。本質的なのはむしろ、美しいものに触れることではじめて「懐胎」が果たされるということである。
 では、それにもかかわらず、エロスの作用の範例として生殖が特権的な主題となるのはなぜなのか。生殖という行為は、どういう点でエロスの本質を表しているといえるのか。

つまり、こういうことだ。男と女の交わりとは、子をなす営みである。それは神聖な営みであり、死を逃れることのできない生き物は、この営みによって不死にあずかることができる。子を宿し、そして生むという営みによってな。[12]

 エロスが向かうのは不死であり、生殖はその途上にある。ひとは子をなすことによって、みずからの死後なお残る生を保持するのだとディオティマは言う。この意味で、性は死と切り離せない。死すべき存在だけが、性を必要とするからだ。ここでも、エロスのダイモーン的本性、媒介としての本性ゆえに、性愛は死の不死のあいだ、有限な存在と永遠の存在のあいだに位置づけられる。
 さらに、ディオティマはこれとまったく同じ論理で、性愛とはまったく違うタイプの愛についても自説を展開する。ここで引き合いに出されるのは、ギリシャ神話に登場する淑女アルケスティス、ホメロスの描く英雄アキレウス、そしてアテナイの王コロドスである。彼らはそれぞれ、夫への愛、親友の敵討ち、国家の存続のための進んでみずからを犠牲にした人物だ。アルケスティスとアキレウスについては、最初の演説者であるパイドロスも取り上げていた(本連載16参照)。では、ディオティマはこの自己犠牲に何を見てとるのか。

我々は、彼らの勇気の記憶をいまでも持ち続けているわけだが、自分の勇気がそんなふうに永遠の記憶として生き残ると彼らが信じていなかったら、果たして彼らはそんなことをしたであろうか。いや、そんなはずはない。滅び去ることのない徳と、このように光り輝く名誉を求めて、あらゆる人があらゆる努力をしているのだと思う。[13]

 ディオティマによれば、高貴な自己犠牲の根本には、徳と名誉への、つまり永遠に失われないものへの希求がある。肉体の死によって、語り継がれる記憶のなかに永遠の生を獲得すること。これが名誉愛の目指すところであって、こうした(性的ならざる)愛も、やはりエロスによって駆り立てられている。実は、この永遠性という主題こそが、ディオティマのエロス論の最終到達地点である。それを確かめるためにも、彼女の語りの後半部分をみてみよう。

***

 ディオティマはふたたびエロスと美の関係に焦点をあてる。先取りしていえば、ディオティマが「愛の究極の奥義」と呼ぶのは、個々の人物や事柄が持っている美しさではなく、美しさそのもの、美のイデア(究極的な理念としての美)を知ることである。ディオティマは、この境地に至る修行のごときプロセスとして、身体の美から精神の美へ、相対的で移ろいゆく美から絶対的で永遠不変の美への上昇を説く。

エロスの道を正しく進むとか、誰かによって導かれるというのは、このようなことを指す。すなわち、さまざまな美しいものから出発し、かの美を目指して、たゆまぬ上昇をしていくということなのだ。その姿は、さながら梯子を使って登る者のようだ。すなわち、一つの美しい体から二つの美しい体へ、二つの美しい体からすべての美しい体へと進んでいき、次いで美しい体から美しいふるまいへ、そしてふるまいからさまざまな美しい知へ、そしてついには、さまざまな知からかの知へと到達するのだ。それはまさにかの美そのものの知であり、彼はついに美それ自体を知るに至るのである。[14]

 個々の身体が持つ美しさは、各々が同じひとつの美を分かち持った結果である。それどころか、美は物体のみに宿るのではなく、人間のふるまいや、その基盤にある精神性も、やはり同じ美を「分有」している。これはイデアをなんらかの性質の原因とみなすプラトンの基本的な考え方だ。かくして、なんらかの美(個別の物事の美しさ)に惹きつけられた人間は、エロスに正しく導かれてゆけば、やがて永遠に同一である美のイデアに到達する。この話に、ソクラテスは心底感嘆した。だからこそ彼は、ディオティマになりかわるようにして、この話をそのまま饗宴に参加した面々に伝えたのだ。
 だが、普遍の大海のなかにすべてを呑み込むような論の展開のなかで、例えば恋にとり憑かれたひとりの人間が抱える痛切な想いなどは、どこまでも遠く霞んでいくかのようである。少なくともラカンは、このディオティマの語りにすっかり納得したわけではないらしい。「すべての美しい体」を知らなければ美そのものには辿り着けない、というディオティマの説を半ば揶揄するように「プラトン的ドン・ファン主義」と呼びつつ、そこには「ごまかし(escamotage)」があるとラカンは指摘する。

〔…〕このごまかしによって、一方では、はじめは生命への途上での褒賞として定義され、出会われるものだったはずの美が、巡礼の目的となっており、同時にまた、他方では、はじめは美の支持体として現れたはずの対象が、美へと向かう過渡的段階となっている。[15]

 そもそもディオティマは、「美しいもののなかで子をなすこと」がエロスの本質であると述べ、パートナーの美しさが懐胎の条件であるかのように語っていた。ところが、美というものをどんどん観念化していき、ついにはそれをエロスの導きの最終目的地に位置づけることで彼女は自説を結ぶ。つまり、美の位置づけは愛のプロセスからその目的へとスライドしている。これと完全に並行して、美を宿しているがゆえに愛の対象であったはずのパートナーは、最終的には、美のイデアに到達するための手段のようにみなされている。
 重要なのは、このような「ごまかし」の背後に何があるのかということだ。ラカンは、ここに欲望の本質を見てとっている。欲望は本来、特定の対象で満足することを知らない。つまり、あらかじめ決められたゴールを持たない。美のイデアを最終目的地とするディオティマの説(あるいは彼女にそれを語らせたプラトンのイデア論)は、いわば幻影のゴールを設えることで、欲望をそこでストップさせるのだ。
 もちろん、これには理由がある。そうしたブレーキがかからなければ、欲望は人間的な生の彼岸へ、つまり冥界のごとき場所へと主体を運び去ってゆくからである。そのような彼岸へと向かう欲望を、ラカンは「死の欲望」と呼びつつ、こう述べている。「美が覆い隠すべく運命づけられているのは、接近不可能なものとしての死の欲望である」[16]。ただしこの欲望は、いわゆる自殺願望とはまったくの別物である。では、それはどんな欲望なのか。それほど遠くに探しにいかなくとも、その例は今回の話にすでに登場している。
 例えば、ディオティマが美しい自己犠牲の例として挙げた、永遠に失われることのない名誉のために、みずからすすんで死を選んだ人物たちを駆り立てた欲望。あるいは、つねにダイモーンの声に従ってきたがゆえに、少しの恐れも抱くことなく死刑を受け入れたソクラテスにとり憑いていた欲望。死の欲望とは、ひとが狂気じみた道を選び、その道に自身の存在を丸ごと投げ入れることを可能にする、いや、可能にしてしまう、そんな欲望である。肉体の死は、あくまでもこの欲望の副産物であって、目的ではない。
 次回は、ソクラテス自身の欲望に焦点をあてつつ、精神分析が彼から何を学びうるのかを考えてみよう。この問いが、本連載の終着点である。

[1] プラトン『饗宴』、197B
[2] 同書、199D
[3] 同書、200A-B
[4] 同書、201B
[5] 同書、201C
[6] 同書、202D-E 以下の引用では、表現を統一するため一部訳文を改めた。
[7] 同書、202E-203A
[8] プラトン『ソクラテスの弁明』、40-B 引用は以下の翻訳に依拠した。プラトン『ソクラテスの弁明』、納富信留訳、光文社古典新訳文庫、二〇一二年。
[9] プラトン『饗宴』、204A
[10] 同書、204B
[11] 同書、206B
[12] 同書、206C
[13] 同書、208D
[14] 同書、211C
[15] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 157.
[16] Ibid., p. 156.

次回は2021年5月15日ごろ更新