「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2019.8.13

03「ある」わけでもなく、「ない」わけでもない―デカルト主義者フロイト


 前回は、フロイトの議論を追いながら、狂気と真理の結びつきに焦点を当てた。狂気のなかにも真理につながる筋道を見つけることができるが、真理に向かう方法もどこかで狂気につうじているかもしれない。チャンスとリスクが表裏一体をなすこうした地点で――これは精神分析と哲学が出会う地点でもある――、フロイトは精神病者の妄想と分析家の構築のあいだに等価性を見いだした。今回は、この仮説について少しちがった角度から考えてみることから話を始めよう。
 この仮説が大胆にみえるとすれば、それはフロイトがここで、臨床のなかで既成事実と化している《治療者と患者》の関係を乗り越えているからではないだろうか。構築とは、患者が無意識に抑え込んだまま忘れていることを思い出し、現在の言葉で語り直すための準備作業だった。それは治療のために必要なステップとして分析家が行う仕事だ。この仕事が精神病の症状である妄想と等価であるということはつまり、治療の論理と症状の論理とが等しいということにほかならない。こうしたフロイトの考えは、治療と症状をたんなる対立関係に置くような発想、あるいは、治療を行う者/治療を受ける者という能動‐受動の関係を設定する発想とは根本的に相容れない。
 実際、「話す」という行為をつうじて分析実践のイニシアティヴを握るのは、分析家ではなく患者のほうである。より正確にいえば、患者の無意識こそが、分析プロセスの真の主人公、すなわち「主体」にならなくてはいけない。ラカンが患者を「分析主体(analysant)」と呼びかえた背景には、こういう考え方がある。だから、例えば患者の無意識や症状の意味について「専門的知見」にもとづいて正解を導き出し、それを患者に「教える」といったことは、分析家の仕事(分析主体の自由連想に対する応答としての「解釈」)とはかけ離れている。この点については、フロイト自身が、とりわけ精神分析を経験したことのない人から寄せられる批判を念頭に置きながらいろいろなところで立ち返っている。前回みたとおり、「分析における構築」のなかでも、フロイトは分析家による構築があくまでも推測にすぎないということを強調している。繰り返しになるが、大切なポイントなのでフロイトの説明を確認しておこう。

私たちは個々の構築を、ひとつの推測としてのみ提示する。すなわち、吟味にかけられ、証明され、あるいは棄却されるのを待つ推測である。私たちはこの推測にいかなる権威も要求しないし、それについて患者にいかなる直接的な同意も求めない。また、さしあたって患者がこの推測に反論したとしても、それについて議論することもない。1

 構築を特徴づけるのは、それが正しいか否かという判断がペンディングされたまま、分析作業が進んでいくという点である。分析家が偉そうな教師のように振る舞ってそれを患者におしつけるなどといったことは論外である。答えは分析のなかであとからおのずと明らかになるのであり、分析家も患者もそれを待つことを知らなければならない。最良の場合には、分析家が構築し伝えたことに触発されるようにして、患者自身が抑圧されていた記憶の断片を想い起こし、それを言葉にすることができる。
 ここで注目したいのは、この「ペンディングされた仮説」の身分である。これは、精神分析という営みの本質を考えるうえできわめて重要だ。というのも、ひとが分析家のもとを訪ね、みずからが「分析主体」となって分析を始めるという行為そのものが、じつはひとつの「ペンディングされた仮説」によって支えられているからである。それは、「無意識」という仮説である。つまり、無意識なるものが存在し、目下自分を苦しめている症状はじつは自分の無意識に由来している、という仮説だ。これを「前提」ではなく「仮説」と呼ばなければならないのは、無意識というものが、誰にとっても自明な、観察可能な対象としては存在しないからである。無意識がまずあって、それを前提として分析が始まるのではない。分析が始まる時点では、無意識はあくまでもひとつの仮説に留まる。分析のプロセスが動き出してはじめて、無意識は姿を現す。要するに、無意識は精神分析という実践から切り離されてはあり得ないものだということである。
 1915年、フロイトは精神分析独自の諸概念を理論的に基礎づけるという企図のもと、12本もの論考を書き上げた。いわゆる「メタサイコロジー」諸篇である。そのうちのひとつである「無意識」というテクストで、彼はあらためて無意識という基本概念の正統性を論じている。ここでもフロイトは、「無意識の仮定(Annahme)は必要かつ正当である」2という言い方をしている。もちろんフロイト自身はみずからの臨床経験から無意識の存在を確信したわけだが、彼がそれをあくまでも「仮定」と呼んでいる点は注目に値する。
 ここでのフロイトの議論の進め方は、論理学にいう「背理法」、いわゆる「間接証明」である。つまり、無意識というものがなかったら説明のつかない事例を示すことで、間接的に、無意識の存在を証明するというやり方だ。誰にでも身近なものとしては、どこから出てきたのかはっきりしない思いつきや、どういう流れをたどってきたのかわからない(つまりその結果だけが意識に浮かんでくる)考えなどが、「説明のつかない事例」にあたる。なるほどこうした事例は、意識が私たちの心のすべてではないと教えている。だが、そもそも無意識の発見者であるフロイトその人が、どうしてこういう論法を取らなければならないのだろうか? じつのところ、彼のこういう書き方そのものが、無意識の本質と密接に結びついている。
 私たちはもっぱら意識を経由することでしか、みずからの心の動きをはっきりととらえることができない。だから、無意識といえども、それは意識という迂回路を挟んではじめて経験されることになる。自分の意識がありありと直接的に実感できるのに対して、無意識はどこまでも間接的で、そこには曖昧さがつきまとう。逆にいえば、だからこそ、わざわざ分析家のところまで行って「話す」ことを繰り返すなかで、私たちはようやく自分の無意識と出会うのだ。
 無意識は推論から導き出される「仮定」にほかならない。とはいえ、私たちが常日頃からこの種の「仮定」にもとづいて生活しているのも事実である。フロイトによれば、自分の無意識と向き合うには、ちょうど他者の意識に向き合うのと同じ態度が要求される。私たちは自分の意識にかんしては直接経験できるから、それを疑うことはしない。しかし、他者の意識についてはどうだろうか。他者の意識を私が直接経験することは不可能である。それにもかかわらず、私たちは、自分と同じように他者もまた意識をもつということをあたかも当たり前のように受け入れている。これは、私たちが他者の表情や振る舞いに自身の似姿を見いだしているからだ。自分がこうなのだから、あの人もこの人もそうであるにちがいない、という投影。フロイトにいわせれば、「他者に意識があるという仮定は推論の結果であり、自分自身の意識について私たちがもつような直接的な確実性を、この仮定が共有することはあり得ない」3。要するにフロイトは、他者の意識という仮定と同じくらいには、無意識という仮定も有効かつ必然的なものだといいたいわけである。
 このように、フロイトは無意識をひとつの既成事実として、つまり自明のものとして扱うことをしなかった。無意識なるものがフロイトの経験や試行錯誤とどうやっても切り離せないという点は、どれほど強調してもしすぎることはない。だが、ひとたびそれが概念として定着してしまえば、この紆余曲折はおのずと忘れられていくことになる。実は、精神分析の歴史とは、この忘却の歴史でもある。なによりこの点を最も鋭く突いたのがラカンだった。ラカンが「フロイトへの回帰」というスローガンのもとに試みたのは、次第に制度化され、硬直化してゆく精神分析の実践と理論を、フロイト自身の経験や試行錯誤ともう一度突き合わせることで、再生させることにほかならなかった。


***


 1964年のセミネール『精神分析の四根本概念』の序盤で、ラカンは独自のやり方で無意識を再定義することに力を注いだ。その皮切りに、ラカンはまず、無意識の存在論的な身分をあらためて問いに付している。つまり、フロイト的な「仮定」としての無意識、「ペンディングされた仮説」としての無意識を、存在という哲学的な観点と絡めて考え直すということだ。ここまでの議論からもわかるように、無意識について、それが「ある=存在する」と単純に言うことはできない。それにもかかわらず、無意識なくして精神分析はあり得ない以上、分析家は「無意識とは何か」を絶えず問い直し、それについて証言を重ねていかなくてはならない。
 ラカンによる再定義は、無意識につきまとうこうした危うさを真正面からとらえるものだといえる。無意識とは、何かが躓いたときに一瞬垣間見える「裂け目」のようなものである――そう述べたあとで、ラカンは次のように説明している。

裂け目(béance)をつうじて姿を現す無意識の機能は、いわば前‐存在論的なものである。私はこの特性を、存在論に帰さないことによって強調した。それは、無意識の最初の発見、最初の出現の、あまりに忘れられがちな――その忘れられる仕方にも意味がないわけでない――特性である。まずはフロイトに、そして発見者たち、最初の歩みを刻んだ者たちに対して現れたこと。あるいはなお、分析のなかで無意識に固有の次元に属するものに関心をもち、それに焦点を合わせようとする誰に対しても現われること。それは、無意識とは存在でも非存在でもなく、現実化されていないもの(non-réalisé)に属している、ということだ。4

 無意識は、「あるか(存在)/ないか(非存在)」という存在論の問いの手前に「ある」。このことは、無意識が発見されるやいなや、あっという間に忘れられてしまう。「その忘れられる仕方にも意味がないわけではない」。無意識が現れたそばからその本質は見落とされ、忘れ去られる――この儚さそのものが、じつは当の無意識の本質の一部だということである。フロイトが背負っていたのは、このようにして見失われ、埋もれてゆく運命から、無意識を掬い出すという務めだったにちがいない。だが、この務めは最初の発見者ひとりに任せておけばそれでよしというものではない。むしろラカンが訴えるのは、どんな精神分析家も、フロイトと同じこの務めを引き受けなくてはならないということである。無意識という「仮説」を携えてやってきた分析主体に対して、分析家がこの「仮説」を支持し、それにもとづいた分析主体の歩みの道連れとなること。この最も基本的な(それゆえいちばん肝腎な)ポイントに絶えず立ち返るべきだというのが、変わることのないラカンの立場である。
 ラカンはここから、フロイトがどうやって無意識という「仮説」の必然性を確信するに至ったのか、という主題へと話を進めていく。そこで引き合いに出されるのは、精神分析の歴史的な出発点をしるしづける著作『夢解釈』(1900年)である。よく知られているように、フロイトは、症状に読み解かれるべき意味があるのと同様に、夢にも隠れた意味(抑圧された欲望の表現)があると考えた。つまり、患者が「自由連想」を行って話す言葉と並んで、夢の報告も分析の素材としての価値をもつということである。ラカンが注目を促すのは、夢を解釈する作業に先立つ段階、すなわち患者が夢を思い起こし、それを言語化する段階だ。
 フロイトは、患者による夢の報告を聞いて解釈の糸口が見つからないときには、いつもひとつの方法を取った。それは、同じ報告をそっくりもう一度繰り返すよう求めることである。すると興味深いことに、患者は必ず、二度目には報告のどこかの箇所を別の表現に変えて話すという。フロイトによれば、こうした箇所こそが解釈の出発点になる。というのも、このような一見些細な言い換えは、患者の無意識が何かを隠そうとしている――抑圧している――徴(しるし)にほかならないからである。あるいは、患者自身が自分の報告に疑念を示すこともある。「こういう夢をみたと思うのですが、どうも確かではありません」といったように。自分がみた夢のイメージが、うまく言葉にできない。どれだけ言語化しようとしても、不確かな感覚が残る。報告者自身が語るこのような疑念も、やはり無意識による隠蔽の徴とみることができる。それは、夢がはっきりと言語化されるのを阻む一種の「ぼかし」として機能している。
 もちろんこうした隠蔽は、患者が意図して、意識的に行うのではない。そうではなく、患者の無意識が隠れた主体となっていて、ちょっとした言葉選びや話の綻びのうちに、この隠れた主体がときおり顔をのぞかせるのだ。フロイトはそれを「無意識の思考」と呼んだ。「私」が意識し、考えていることがすべてではない。その背後で、「私」の無意識が考えている。その考えを「私」が直接知ることはない。しかし、「私」が話すことによって、その言葉のなかに、あるいは言葉の隙間に、無意識が痕跡を残す。無意識という「仮説」の有効性、ひいては精神分析という実践の有効性は、だから言語にかかっていると言っても過言ではない。このような意味で、ラカンは「言語は無意識の条件である」と定式化している。
 フロイトは、患者の夢を解釈しただけではなく、同じことを自分自身の夢に対しても行った。もちろんここでも、夢を言語化してみるプロセスこそが本質的である。うまく言葉にならない、何か疑わしい。そういうポイントを見つけたときに、フロイトは確信した――そこでは「私」ではなく、「私」の無意識が考えているのだと。このようにフロイトは、言語化(夢の内容を言葉にしてみる)→懐疑(言葉の綻びや不確かな部分が見つかる)→確信(そこに無意識の思考があるにちがいない)という流れを辿って、無意識を発見した。これについて、ラカンは次のように述べている。

ところで、フロイトが最大限に強調しているのはまさにこのことなのだが、懐疑こそが彼の確信の支えである。懐疑が彼を動機づけているのだ。フロイトが言うには、懐疑はそこに何か隠しておかなくてはならないものがあることを示す徴である。つまりそれは抵抗の徴なのだ。
とはいえ、彼が懐疑に与える機能はあくまでも両義的である。というのは、隠されるべきこの何かは、同時に姿を現すべき何かでもあるからだ。〔……〕しかしいずれにせよ、私が強調したいのは、ここに、フロイトとデカルトの歩みが接近し、収束するポイントがあるということである。5

 言語化のプロセスのなかで浮かび上がってくる、無意識が言語化に対抗し、何かを隠そうとしている徴は、同時に、無意識がみずから姿を現した徴でもある。この意味で、フロイトの懐疑は両義的である。この両義性を特徴づけるのは、不確かさ、曖昧さがその反対のものに、つまり確信に反転するということだ。「私」にとって不確かだからこそ、そこには確かに無意識がある、という反転。
 驚くべきことに、ラカンはこのような反転に着目することで、フロイトとデカルトを結びつけている。すでに述べたように、デカルトは、ありとあらゆるものを疑うことによって、いままさに疑っている「私」の存在だけは確かであるという結論を導き出す。なるほど「コギト」は、フロイトの場合と同じく、懐疑から確信への展開をつうじて成立する。もちろんこれは、フロイトとデカルトの歩みがそっくり同じだということではない。例えば、デカルトにとって思考は疑っている「私」と切り離せないが、フロイトは思考を「私」から切り離し、むしろ無意識の側に結びつけている。これはきわめて大きな違いである。だが、ラカンはこうしたことを十分承知のうえで、ふたりの歩みを重ね合わせてみるべきだと言う。それはいうなれば、精神分析の知をつうじて哲学の裏面を見て取るような発想である。次回以降は、この発想がどこへつながっていくのかを検討していこう。


1 Sigmund Freud, » Konstruktionen in der Analyse «, art. cit., S. 52.
2 Sigmund Freud, » Das Unbewusste « (1915), in : Gesammelte Werke, Band. 10, Fischer, 1991, S. 264.
3 Ibid., S. 268.
4 Jacques Lacan, Le séminaire livre XI, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse (1964), Seuil, 1973, p. 31-32. 国際ラカン協会版のテクストを参照したうえで、スイユ版のテクストの文言を一部変更した。
5 Ibid., p. 36.

 

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