「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2019.9.11

04哲学者の夢――コギトの裏面、欺く神の仮説(前編)


 前回の議論では、デカルト的コギトとフロイト的無意識をつなげて考えるラカンの発想に触れた。今回はまずこの発想について振り返っておこう。ラカンは、「懐疑から確信へ」というプロセスに着目することで、フロイトはデカルト的方法によって無意識を発見した(=フロイトはデカルト主義者である)、というヴィジョンを示した。ラカンが精神分析家でありながら哲学に並々ならぬこだわりを持ち、なかでもデカルトには何度も立ち返っていることの背景にあるのは、まさにこのヴィジョンである。『精神分析の四根本概念』のセミネールでのラカンの発言をみてみよう。

フロイトの確信の目の前には、主体が存在している。さきほど述べたように、この主体は、デカルト以来、しばらくのあいだそこで待っていたのだ。思い切って、ひとつの真理として次のように言明しておこう。無意識の発見、フロイト的領野(champ freudien)は、デカルト的主体の出現のあとでしばらくの時を経てはじめて可能になったのだ。1

 つまるところ、ラカンはこう言いたいのである――デカルトの方法を踏まえなければフロイトの発見のインパクトの大きさはとらえられない、そしてフロイトの発見によってはじめて、デカルトの方法の真の価値が明るみに出るのだ、と。このように主張することで、ラカンは、一方では精神分析を神経症の治療技法からひとつの「思想」に変貌させ、他方では哲学者たちを精神分析のほうへと、彼自身の言葉でいえば「フロイト的領野」へと誘ってゆく。実際、ラカンが1964年からセミネールを開講していたパリ高等師範学校からは、若き哲学科生たちが学派に流れ込んだ。彼らはやがて、学派のなかで一大勢力を築くことになる。そういうわけで、引き続きデカルトに焦点を当てながら、ラカンの議論を追いかけてみたい。
 ラカンの狙いは、フロイトが「無意識の思考」と呼んだ意識されざる思考を、デカルトとの対比によってあらためて浮彫りにすることにあった。デカルトは、疑う=考える「私」、自分が今まさに考えているということをありありと意識している「私」の存在を問題にした。これに対してフロイトは、「私」にはうかがい知れないような思考として無意識を位置づける。思考は「私」から決定的に切り離されたのだ。これは、うえに引用したラカンの言葉からもわかるように、主体(=思考する無意識の主体)と「私」(=自身を意識する自我)とを明確に区別するということでもある。そして、フロイトの懐疑は、思考する無意識と「私」の意識のあいだのギャップから生じる。だが、彼にとっては、このギャップこそが、無意識の存在を確信させてくれるものにほかならなかった。
 フロイトが懐疑を抱いたのは、夢を言葉にするとき、正確には言葉にしようとしてそれがうまくいかないときだった。精神分析が話す実践であるということを踏まえれば、この点はとても本質的である。精神分析のなかで、夢にかんして問題となるのは、患者がどんな夢をみたのかということばかりではない。むしろ、患者が自分のみた夢についてどんなふうに話すのかが重要である。フロイトの「夢は無意識に至る王道である」というテーゼは有名だが、ここでいう夢とは、あくまでも話された夢、言葉に翻訳された夢である。無意識の主体は、夢をみること、そして話すことをつうじて現われる。
 このように、フロイトの無意識の発見において言語が決定的な意味をもっているならば、フロイトをひとりのデカルト主義者とみなすラカンのアイデアから、次のような問いが浮かび上がってくる。デカルト的コギトにとって、言語はどういう役割を担っているのか、という問いだ。実際のところ、デカルトは『省察』のなかでコギトと言語の関係についてほとんど語っていない。注目されるのは、これについてのラカンの次のような指摘である――「この〈私は考える〉は、われわれにとっては、それを言うことによってはじめて定式化されうるという事実と切り離せないものだが、このことはデカルトによって忘れられていた」2。コギトという主体の存在根拠の確立には言語が不可欠であるはずなのに、デカルトはこのポイントを見逃している、というのである。これついては次回も詳しく扱うが、その準備もかねて、理論的な前提を確認することから始めよう。

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 ラカンにとって、主体とはなによりも「話す主体」である。まず主体がいて言語を用いるのではなく、言語があたかも環境のごとく存在し、この環境に身を投じることではじめてひとは主体となる。ラカンは、このような言語の場のことを〈他者〉(Autre)と呼ぶ。では、人間はどうやって〈他者〉の領域に入ってゆくのだろうか。ラカンはこれを、子どもと「母」の関係の問題として考える。ちなみに、ラカンのいう「母」は、必ずしも生物学的な母親を意味しない。重要なのは、母の位置を占める人物が子どもに先立って、言葉を話しているということだからだ。話す存在、自分に向けて言葉を投げかけてくる存在としての母と向き合う経験を通して、子どもは言語の世界に入ってゆく。母こそが子どもを言語へと導くのであり、このかぎりで、母は子どもにとって最初の〈他者〉である。

母の欲望が、彼女の言うことや告げること、彼女が意味として生じさせることのあちら側ないしこちら側に存在し、母の欲望が知られていないかぎりにおいて、まさしくこうした欠如の点で、主体の欲望は構成される。3

 母から子どもへの言語の伝達は、欲望(désir)の伝達でもある。人間はきわめて未発達な状態で生まれてくるがゆえに、母=〈他者〉の世話なくしては生命を維持できない。それゆえ、母が何を考え、何を望んでいるのかは、子どもにとって死活問題である。そして、この問いを解く手がかりは、母の話す言葉にこそ求められる。母の欲望を問うことと言葉を獲得することは、子どもが主体となるプロセスのふたつの側面なのだ。重要なのは、このプロセスのなかで、子ども自身の欲望、主体としての欲望が立ち上がってくるという点である。母は何をいわんとしているのか、母は何を望んでいるのかという母の欲望の謎に向き合って試行錯誤することそのものが、子どもの言葉と欲望のベースを作っていく。
 欲望が成立するときに働くこうしたメカニズムは、子どもに限らず、広く認められる。というより、言葉を話す者の欲望は、必ず何らかのかたちで、このメカニズムにもとづいている。ラカンはこれを、「人間の欲望とは〈他者〉の欲望である」と定式化した。私たちの欲望は、あくまでも、私たちにとって決定的に重要な誰かの欲望との出会いの結果=効果として生まれる。だから、私たちが望むことのうちには、必ず、〈他者〉に望まれるような存在、〈他者〉にとって何らかの価値を備えた存在でありたいという根源的な欲望が潜んでいる。
〈他者〉の機能を担うのは、必ずしも特定の個人とはかぎらない。より一般的に、社会を〈他者〉ととらえることもできるだろう。たしかに私たちは、自分が属している社会が自分に求めている(と想定される)役割を多かれ少なかれ推し量ろうとするし、それに何らかのかたちで応えようとする。これは自己形成に不可欠なプロセスだ。だから、私たちが人生のなかで行う選択の数々には、自分でそれを意識せずとも、大なり小なり〈他者〉の欲望が反映されている。〈他者〉から自分に向けられるメッセージへの応答の努力が、私たちの社会的人格を作るのだといってもよい。
 だが、このメッセージがときとして呪縛のように機能することもある。この呪縛は、例えば社会通念としての「道徳」というかたちで力を振るうかもしれないし、性別にかんする固定観念として私たちの私的領域に土足で踏み込んでくるかもしれない。こうした〈他者〉の欲望に従わなければ自分に存在価値はなくなってしまうと――無意識的に――信じ込み、この強迫的な信念が強い不安や罪責感を生み出すケースも多々ある。
 問題は、〈他者〉が私に望み、与える役割と、私自身の欲望とが、いつも一致するとはかぎらないということである。というより、そこには必然的に齟齬や不調和がつきまとう。個人が他の誰でもないそのひとである以上、個人と〈他者〉のあいだにはおのずとギャップが生じるからだ。そのため、「人間の欲望とは〈他者〉の欲望である」というテーゼを真剣に受け取るならば、このような齟齬や不調和と向き合うことこそが、社会的存在としての人間の生が抱える本質的な課題のひとつとなる。もちろんこれは、精神分析の臨床的課題でもある。この課題のもたらす葛藤が最もはっきり現われるのは、私たちが〈他者〉に対して自分を丸ごと明け渡してしまいそうになる瞬間である。これは、主体が自己消失にかぎりなく接近する契機にほかならない。
 このような契機を受け止め、切り抜けるために必要なのは、〈他者〉との関係を引き受けたうえで(言葉を話す以上それはどうやってもなくなりはしないから)、自分の主体としての欲望、すなわち肩書きや役割には決して汲み尽くせない、固有名のように替えのきかない欲望を作ってゆくことだ。それは、「自分がどうあるべきか」という根本的な問いに確固たる「正解」があって、その正解は〈他者〉のみが与えてくれる、というファンタジーから抜け出すことでもある。あるとき自分に宿った〈他者〉の欲望を、本当の意味で自分のものにできるかどうかは、そのひと自身にかかっている。
 では、欲望というラカン独自のテーマは、デカルトのコギトにどう関わってくるのだろうか。すなわち、コギトという主体にとって、〈他者〉の役割を果たしているのは一体誰なのだろうか。先取り的に答えてしまうと、それは、『省察』でその実在が証明される神にほかならない。

 

1 Jacques Lacan, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, op. cit., p. 47. 国際ラカン協会版を参照のうえ、スイユ版のテクストに文言を補った。
2 Ibid., p. 36.
3 Ibid., p. 199.

 

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