「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2019.9.18

05哲学者の夢――コギトの裏面、欺く神の仮説(後編)

 

 デカルトの懐疑には、大きく分けてふたつの段階がある。私たちが前回までの議論で触れたのは、感覚の誤りや夢と現実の区別の不確かさにかんする懐疑だった。眼に映るものが本当にそのとおりの姿で存在しているとは言い切れないし、今ここで起こっていることが夢ではないとは言い切れない、という懐疑である。そこから狂気の可能性が出てくるわけだが、これはデカルトの議論のなかではあくまでも懐疑の第一段階にすぎない。デカルトは、このような懐疑を経てもなお疑い得ないものがあるという。
 感覚から得られる情報がすべて誤りであると仮定したうえで、なおも真とみなされるべきもの。デカルトによれば、算術や幾何学といった、具体的な対象(モノ)やそれにかかわる経験に依拠せずとも成立する知がこれにあたる。この種の知が疑い得ない理由について、デカルトはこう書いている。「〔…〕というのも、私が目覚めていようが眠っていようが、つねに235となるし、四角形は四つ以上の辺を持ちようがないのであって、かくも明白な真理は、いかなる誤謬や不確実さの嫌疑もかけられることがないと思われるからである」1。数学的真理は、懐疑の第一段階では揺らぐことがない。このように、これこそは何があっても確実だといえるものをあぶりだすところに、懐疑という方法の本質がある。
 ところが、デカルトはうえの一節のすぐあとであっけなくちゃぶ台をひっくり返してしまう。一度は確実なものとみなされた数学的真理にも、まだ疑う余地があるというのだ。これが懐疑の第二段階である。そして、この第二の懐疑、デカルト自身が「形而上学的」とみなす新たな懐疑の根拠こそ、『省察』の主要テーマのひとつである神だ。ラカンがコギトと神の関係を主体と〈他者〉の関係として読み解こうとするのは、この局面においてである。まずはデカルトの議論のアウトラインをみていこう。
 ポイントは、キリスト教が説く神の全能性を肯定し、それがもたらす帰結の数々を理性にもとづいた方法によって引き受ける、というところにある。神は全能の創造者であり、人間は有限な被造物であって、両者の関係は完全に非対称だ。この前提に立つなら、私たちが何を真理とみなし何を誤りとみなすのかということそのものが、神の意志によってあらかじめ決定されていることになる。ここからデカルトが導き出す仮説が、「欺く神の仮説」である。

また、私はときとして、他の人々が、自分ではこのうえなく確実に知っていると思っている物事においてさえ誤りを犯している、と判断する。それと同様に、私が23を足すそのたびに、四角形の辺を数えるそのたびに、あるいは、これ以上に簡単なことを想像できるならばもっと簡単なことについて私が判断を下すそのたびに、私が欺かれるのを神が望んだ、ということもあり得るのではないだろうか? 2

 神をすべてをなし得る絶対的な存在とみなすことは、コギトと真理の関係そのものが、全面的に神のコントロールのもとにあると認めることである。例えば「23=5」というきわめて単純で基本的な認識、しかも感覚を経由しない純粋に知性的な認識を、コギトが真理とみなすその瞬間にも、やはり神の意志は働いている。そうだとするなら、神には、コギトが間違い続けるよう、つまり誤謬を確かな真理だと思い込むよう仕向けることも、やろうと思えば簡単にできるはずだとデカルトは言う。それゆえ、数学的真理でさえも、実は疑わしい。こうなると、神がこのような悪意を働くのかどうかが重大な問題となる。神はいったい何を望んでいるのか。いやそもそも、神が何かを望むというのはどういうことなのか。ここで、〈他者〉の欲望がひとつの問いとして浮かび上がってくる。

***

 さらに、このあとデカルトは、「悪しき霊(genius maliginus)」、すなわち悪意に満ちた全能者が存在して、絶えず自分を欺こうとしているかもしれないという妄想のごとき想定まで持ち出してくる。これこそ、誇張的懐疑の名にふさわしい、狂気じみた徹底ぶりである。いうなれば形而上学そのものが含んでいる狂気だ。現代の日本の読者が、デカルトのこうした記述を「ふむふむ、たしかにその通りだ」と思いながら読むことはあるいは難しいかもしれない。だが、これがデカルトの方法であり、あくまでも、確かな真理に到達するためのステップである点を忘れてはならない。なるほど、「悪しき霊」が登場するに及んで、『省察』の主人公はいよいよ信じられるものは何もないというところまで追い込まれてしまう。しかし、この懐疑の第二段階にも、真理への歩みを進めるためのポジティヴな効用がある。以下は第二省察の序盤の一節である。

しかし、何か私の知らない、きわめて力強く、きわめて狡猾な欺き手が存在して、絶えず私を欺こうと技巧のかぎりを尽くしている。好きなだけ私を欺けばよい。それでも、自分が何ものかであると私が考えているかぎりは、私が何ものでもないということには決してなり得ないだろう。3

 仮に「悪しき霊」が存在して、今まさに「私」を欺いているとしても、欺かれる「私」は確かに存在する。つまり、「欺く神」や「悪しき霊」といった、真理への回路を完全に閉ざしてしまいかねない存在の仮定、哲学という営みそのものがまったく無意味になってしまうような仮定さえも、コギトという主体の存在根拠の保証にはむしろプラスに働くわけである。ここから、「私が考えているかぎり、私は存在する」というコギトの命題が絶対確実な足場として導き出される。デカルトによれば、たとえコギトが、絶えず「悪しき霊」の詐術に曝されるのだとしても、少なくともそれに身を委ねない、つまり何も信じないというかたちで、「悪しき霊」に対してぎりぎりのところで抵抗することができる。とはいえ、この抵抗は決然たる意志の力を必要とするから、困難をきわめるとされる。第一省察の終わりで、デカルトは印象的な言葉を残している。

しかし、この企図〔引用者註:悪しき霊に最大限用心すること〕は骨の折れる困難なものであって、少しでも怠ければ、日常生活の惰性のなかに引き戻されてしまう。これは、たまたま夢のなかで想像上の自由を楽しんでいた囚人が、それがたんなる夢幻ではないかと疑念を抱きだしたときに、目覚めることを恐れ、心地良い幻想とともにゆっくりと目を閉じるのと同じようなものである〔…〕。4

 もしも「悪しき霊」が存在するとすれば、私たちはさしずめ、自分が囚われの身であることを忘れて幸福な夢のなかに身を置き続ける囚人のようなものだ。この夢、「悪しき霊」が見させる日常という夢から目覚めるチャンスは、疑うこと、考えることのうちにしかない。しかし、その一歩を踏み出すよりは、たとえ偽りであっても心地よい日常に身を任せるほうがよっぽど楽である。デカルトはここで、あくまでも真理を目指す思考と、偽りの満足から成り立つ日常とを対立関係に置き、それぞれを覚醒と夢に対応させている。
 この一節が興味深いのは、夢に与えられるこのような否定的な価値に、デカルトとフロイトの、あるいは哲学と精神分析のコントラストがはっきりと見て取れるからである。フロイトが突きつけるのは、夢のなかにも思考があり、夢をつうじてはじめて明らかになる真理がある、ということだ。それは主体の欲望にかかわる真理である。ちょっと乱暴な言い方をすれば、神という〈他者〉の欲望の問いに出会ったデカルトは、しかし自分自身の欲望については、問いを深く掘り下げることをしなかった。そしてこれは、コギトと言語の関係があまり語られていないことと、どこかでつながっているにちがいない。この点は次回検討しよう。いずれにせよ、精神分析が教えているのは、覚醒中の「私」だけが思考し、真理に到達できるというヴィジョンそのものが、哲学者を囚えていた夢にほかならなかった、ということだ。「フロイト的領野」が現われるのは、哲学がこの夢から目覚めるときである。

 

1 René Descartes, Meditationes de prima philosophia, in : Œuvres de Descartes, AT-VII, p. 20.
2 Ibid., p. 21.
3 Ibid., p. 25.
4 Ibid., p. 22.

 

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