「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2019.10.11

06私は話す、ゆえに私は存在しない――主体のゆくえと永遠真理創造説(前編)


 前回みたとおり、ラカンはデカルトの形而上学から未知なる〈他者〉の欲望という精神分析の根本問題を取り出した。ここに、精神分析と哲学の隣り合うポイントのひとつがある。「欺く神」の仮説、そして「悪しき霊」の想定というかたちで、デカルトは神という絶対的な〈他者〉の欲望をめぐる問いに直面した。ここに至ってデカルトは、数学的真理をも不確かなものとみなす。というのも、〈他者〉が望みさえすれば、私たちの思考そのものが、たとえそれが純粋に理知的な営みであったとしても、避けがたく偽りへと誘導されることになるからだ。
 ポイントは、こうした致命的な地点まで懐疑を押し進めることによってはじめて、「私が考えているかぎり、私は確かに存在する」というコギトの命題が確証される、ということである。ここで想い起しておきたいのは、第一回で触れたミシェル・フーコーとジャック・デリダのコギトをめぐる論争だ。『狂気の歴史』のなかで、フーコーは、コギトを理性による狂気の排除の産物とみなした。これに対して、デリダはむしろ、コギトの成立と狂気とは切り離せないと考えた。注目すべきは、こうしたデリダの議論のなかでも、「悪しき霊」の想定はきわめて重要な位置を占めていることである。
 デリダは「コギトと狂気の歴史」のなかで、この想定が「全面的狂気」につながっているとしている。それは、「純粋な思考、思考の純粋に知性的な対象、明晰判明な観念の領域のうちに、自然的懐疑を免れる数学的真理のうちに、転覆を導き入れる狂気である」[1]。デカルトの懐疑の第二段階、すなわち「自然的懐疑」(感覚由来の情報や経験的事実への懐疑)という第一段階からさらに一歩踏み込んだ「形而上学的懐疑」の段階では、狂気はもはや思考の外にあるのではない。それは考えるという行為そのものに深く根を下ろしていて、数学的真理の確実性をも無に帰してしまう。
 こうした意味で、コギトの確立はおよそ人間的理性の対極にあるといえる。だが、デリダによれば、今日の私たちはこのことを真正面からとらえていないという。その理由について、デリダは次のように述べている。

デカルト的コギトの誇張的大胆さ、その狂った大胆さを、おそらくわれわれは、もはや大胆さとして理解していない。それは、デカルトの同時代とは違って、われわれがコギトの先鋭的な経験よりもその図式に慣れ過ぎてしまっているからだ。[2]

 コギトの先鋭的な経験そのもの、全面的狂気の可能性をつうじて主体の存在根拠を確立するという極限状態の経験そのものは、徐々に忘れ去られてゆく運命にある。デカルトがそれを『省察』に書き記したまさにそのときから、経験そのものは言葉の後ろにおのずと退いてゆくことになるからだ。その結果、あたかもデカルト自身の経験を埋め立てるかのように、お馴染みの「デカルト主義」の平板で大雑把な図式――例えば、悪名高い心身二元論の生みの親デカルト、カントを経てフッサールへと流れ込む哲学的「自我」の系譜の出発点デカルト、等々――が幅を利かせるようになる。
 だが、これはなにもデカルトに限った話ではなく、より一般的に、経験とそれを語る言語との本質的な乖離の問題でもある。言語が機能するのは、つねに、何かを語り損ねることによってである。このことについては少し後でまた述べる。
 ラカンの「デカルトへの回帰」とは、つまるところ、このようにして埋め立てられたデカルトの経験そのものを、別のかたちで回帰させる試みである。『省察』をひとつのドキュメントとして書いたデカルトの狙いが、そこに証言されている現実を読者自身が辿り直すことにあったのだとすれば、ラカンの試みはデカルトの哲学にきわめて忠実だったといえるかもしれない。ただしラカンは、デカルトを哲学とは異質なフィールドに、つまり精神分析というフィールドに、連れ出すことを躊躇(ためら)わなかった。
 このように考えると、ラカンがデカルトとフロイトの歩みを重ね合わせようとしたことの必然性がはっきりとみえてくる。ラカンは、精神分析にとって最も基本的な概念である無意識が、フロイト自身の試行錯誤の経験と切り離せないことをあらためて強調した。ラカンの「フロイトへの回帰」とは、フロイト自身の経験を掘り起こし、精神分析を発明し直す企てにほかならなかった。標本のごとくみずみずしさを失った概念から、それを生み出した経験と出来事のほうへ。そして、ラカンはこれと同様の作業を、デカルトに対しても行った。だからこそ、精神分析の再発明というラカン独自のプロジェクトのなかで、「フロイトへの回帰」と「デカルトへの回帰」はぴったり重なり合っているのだ。

***

 先ほど、経験とそれを語る言葉との乖離の問題に触れた。経験を言葉にすることは、その経験のある部分を避けがたくとらえ損ねることを含んでいる。だが、経験と言語はたんなる対立関係にあるわけではない。むしろ、ここで考えてみるべきは、経験そのものが言語によって編み上げられているケース、つまり、経験と言語がどうやっても切り離せないようなケースだ。もちろん、精神分析の実践がこうしたケースにあたることはあらためて強調するまでもない(「言語は無意識の条件である」というラカンのテーゼを思い出そう)。それは、分析主体が分析家を前に話すことを、ただそれだけを繰り返すなかで、分析主体自身が徐々に変化してゆく実践にほかならないのだから。
 ラカンのデカルト読解の中心的なモチーフは、まさにこのようなケースとしてコギトの成立を考える、というところにある。前回触れたように、ラカンの考えでは、「私は存在する」というコギトの確信をもたらす「私は考える」は、まさにそれを「言う」ことによってはじめて意味をなすのであり、デカルトはその点を見逃していた。コギトとはひとつの発話(parole)、すなわち言語の効果にほかならない。そして、裏を返せばそれは、コギトには必然的に、語り損ねられたものが、つまり何らかの喪失がつきまとっている、ということを意味する。どういうことか。
 例えば、「私は〇〇である」という発話について考えてみよう。この発話の主語は、「私」という一人称の代名詞である。当たり前だが、この「私」という言葉は、それを発する人物自身ではなく、あくまでもその代理として言語の領域に送り込まれる。これは、見方を変えれば、ひとが「私」という言葉を発するそのたびに、そのひとの「存在」そのものが言葉の織り成す「意味」の世界から締め出される、ということだ。言語は、発話者を交換可能な言葉のひとつに切り詰めることで、話す主体を生み出す。これが話す主体の本質をなす逆説である。
 言語のもたらすこうした事態を、ラカンは「主体の分裂」と呼んだ。話す主体とは、言葉が産み出す「意味」の次元と、そこで失われる「存在」の次元とに分裂した主体である。主体の分裂は、例えば「言表内容(énoncé)」の主語と「言表行為(énonciation)」の主体の分裂として現れる。これは、平たくいえば、言葉の意味内容とその言葉を発する行為そのものとのズレのことである。ラカンの考えでは、この分裂は言語をめぐる古今の考察のなかにしばしば見いだされるものの、正確にとらえられてはこなかった。例えば、自己言及にかんする古典的なパラドクスは、まさにこの分裂から生じる。コギトを論じるなかでラカンは、「嘘つきのパラドクス」を引き合いに出してくる。
「私は嘘をつく」という発話は、真か偽か。これを真とみなすということは、この言表行為の主体が本当のことを言っているものと受け取るということだ。そうすると、「嘘をつく」という言表内容と矛盾する。反対に、これを偽とみなし、この言表そのものが嘘である、つまりこの言表行為の主体がじつは正直者であると考えてみても、やはり言表内容とのあいだに矛盾が生じる。つまり、真と偽どちらの判断を選んでも、その判断を否定する結論に至り着くことになる。
 だが、よく知られたこのパラドクスを額面どおりに受け取るだけで満足するわけにはいかない。実際ラカンは、ここにひとつのアンチノミー(二律背反)を見て取る「あまりに形式的な論理学的思考」[3]を馬鹿げたものだと揶揄して憚らない。ラカンにいわせれば、この種の形式主義の盲点は、まさに「主体の分裂」を見過ごしていることにある。

「私は嘘をつく」と言われて、「君が『私は嘘をつく』と言うとき、君は真実を語っているのだから、嘘はついていない」と答えるのは、まったくもって愚かなことだ。「私は嘘をつく」という言表がそのパラドクスにもかかわらず完全に有効であることは、まったくあきらかである。事実、この言表している「私」、すなわち言表行為の「私」は、言表内容の「私」、すなわち言表内容のなかで主体を指し示しているシフターと同じものではない。[4]

 簡単にいえば、うえのパラドクスは名ばかりである。むしろそれは、言語は主体を分裂させる――だから言表内容の次元と言表行為には必然的に不一致が生じる――というひとつの事実とみなされるべきだ。では、この事実を見過ごすとは、具体的にどういうことなのか。それは、一言でいえば、話す主体の欲望を見過ごすということである。ラカンによれば、欲望は言表行為の次元に位置づけられる。ひとが何かを話すとき、その話の内容とともにつねに問題となるのは、その話をすることで、そのひとが本当のところ何を言いたいのか、何を望んでいるのか、ということだ。
 例えば、「いまあなたと話すべきことは何もない」という発話は、純粋に言表内容の次元に留まるならば、その意味ははっきりしていて迷う余地もない。しかし、実際にこの言葉を受け取ったひとは、言表行為の次元で、つまり、その言表の背後にある欲望の次元で、相手と向き合い、考えることを余儀なくされる。「いま」は話したくない、つまり時間を置いてから話したいということなのか。それとも別の誰かと話さなければならないということなのか。はたまた、今後いっさい関わらないでくれ、ということか。もしかしたら、私をこうした堂々巡りに陥らせることそのものが目的の、一種のパフォーマンスかもしれない…
 そもそも、この発話が仕事の打ち合わせでなされる場合と、恋人同士のやり取りのなかでなされる場合とで、そこに読み取られるべき欲望はおのずとまったく異なるだろう(どちらもひりひりするようなムードであることに変わりはないにせよ)。生きた言葉においては、誰が誰に向けて、いかなる欲望を託してそれを発するのか、ということがつねに大きなウェイトを占める。ラカンのいう「あまりに形式的な論理学的思考」は、この事実をすっかり捨象してしまうがゆえに、欲望を論じるにあたっては出る幕がない。
 あらゆる発話は、欲望の証言である。だから言葉に向き合うことは欲望と向き合うこととつねにセットだ。だが、言葉があってはじめて欲望が現れるにもかかわらず、その欲望はどうやっても言葉の意味内容には還元できない。こうした観点からすれば、「私は嘘をつく」という発話について本当に問われるべきは、そこにある論理上の矛盾などではなく、それを言うことで発話主体が何をしようとしているのか、ということである。


[1] Jacques Derrida, « Cogito et histoire de la folie » (1963), in : L’écriture et la différence, Seuil, Col. « Tel Quel », 1967, p. 81.
[2] Ibid., 86.
[3] Jacques Lacan, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, op. cit., p. 127.
[4]
Ibid.

 

次回は2019年10月18日(金)更新予定