「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2019.10.18

07私は話す、ゆえに私は存在しない――主体のゆくえと永遠真理創造説(後編)


 さて、ラカンのコギト解釈に戻ろう。
 重要なのは、話す主体の欲望が位置づけられる言表行為の次元がきわめて脆弱で、輪郭を欠いた不確かなものだという点である。この次元は、そもそも言葉がなければ存在し得ないにもかかわらず、言葉そのものにも、その文字通りの意味にも、決して還元できない。言表行為は言葉の隙間や余白に宿り、そこから掬(すく)い取られることではじめて存在する。つまり、話す主体の欲望は、それを聴き取る別の主体、すなわち他者なくしては存在しない。
 だからこそラカンは、言語がもたらす主体の「存在」の喪失を強調する必要があった。「私は考える」がひとつの発話であり、コギトがこの発話の産物であるとするなら、コギトもまた、このような脆弱さを抱えていることになる。デカルトの立場からすれば、「私は考える、ゆえに私は存在する」は、誰がそれを発話しても、言表内容と言表行為とが完全に一致する究極的な命題であるというべきかもしれない。しかし、言語のもたらす分裂はあらゆる主体に降りかかる現実であり、コギトも例外ではない。コギトの自己確立は原理的に不可能なのだ。
 まさしくそれゆえに、ラカンは、デカルトの誤りは「『私は考える』をたんなる消失点としなかったこと」[1]であると述べる。「私は存在する」というコギトの確信は、逆説的にも、言語のなかでその「私」の存在が消失する瞬間にしか得られない、ということだ。事実デカルトは、「私」を純然たる精神的存在、すなわち「思考実体(res cogitans)」とみなし、「延長実体(res extensa)」としての身体と厳密に区別した。この意味で、デカルト的主体とは身体を持たない亡霊のごとき存在であるといってよい。コギトの成立プロセスにあっては、狂気以上に、身体が排除されている。
 では、自己消失という極限状態にあって、デカルトはどうして「私は存在する」という知を確立できたのか。彼はその確信の保証をどこから引き出してきたのか。この問いに対するラカンの答えは、あの全能の神、すなわち、およそいっさいのものの根拠をその手中に収めている〈他者〉である。ただし、前回みたとおり、コギトが確立される段階では、デカルトは「欺く神」の仮説を手放していない。仮に神がコギトを巧妙に欺く悪意の〈他者〉であるとすれば、そこからはいかなる保証も得られないだろう。コギトの確信の次に証明されるべきは、信頼に値する〈他者〉の存在である。
 デカルトの議論は、おおよそ次のような手続きで進んでゆく。まず、二つの方法で神の存在証明が行われる(観念に含まれる実在性よる証明と、「私」という存在の因果性による証明)。続いて、神の本質としての無限性を根拠に、その至上の完全性が論証される。この完全性には、神の悪意の否定が含まれる。ひとを欺くというのは、デカルトからすれば、不完全性(欠陥)の証左にほかならず、不完全なものは神ではないからだ。そして、第三の方法による神の存在証明(いわゆる存在論的証明)がそれに続く。
 ラカンが着目するのは、こうしたデカルトの論証プロセスよりも、むしろその帰結のほうである。ここで、あの「欺く神」の仮説が、数学的真理に対する懐疑に繋がっていたことを思い起そう。デカルトにとって、神と真理とは互いに切り離せない。ひるがえって、ひとたび神の実在と善意が証明されさえすれば、神こそが真理の最終根拠となるとともに、哲学者が理性の道に沿って首尾よく真理に到達することを保証する。こうした観点からデカルトが唱えるのが、「永遠真理創造説」と呼ばれる考えである。デカルトは、旧い友人の修道士マラン・メルセンヌに宛てた書簡のなかで、印象的な比喩を用いて次のように語っている。

永遠であると称される数学的真理は、他のすべての被造物と同様に、神によって確立されたものであり、神に全面的に依存している、ということです。〔…〕あたかも王が自分の王国に法を確立するように、自然のなかにこれらの法を確立したのはまさしく神であるということを、どうかいたる所で断言し、公言なさるのをおそれませぬよう。[2]

 デカルトにとって、神の存在証明はあらゆる学知を基礎づけるために必要不可欠なものだった。神なくして真理は存在し得ないし、何が真理であるかは唯一神の意志のみによって決定されるからだ。これは、例えば235という最も単純な数学的真理でさえも、もしも神がそれを望まなければ、真理たり得なかったということである。同じくメルセンヌ宛の書簡では、こう言われている――「神においては、望むこと、理解すること、創造することは同じひとつのことなのだから」[3]。神が何かを望んだ瞬間、あるいは神が何かを理解した瞬間、現実はそのとおりに創造される。デカルトにとって真理とは、〈他者〉の欲望の産物以外の何ものでもなかった。
 それだけではない。ほかならぬ「私」もまた神の手で創造されたものである。厳密にいえば、神を認識することには、神の作品のひとつとして「私」自身を認識することが、分かちがたく含まれている。極限状態の経験によって立ち上げられたコギトは、神の存在証明を経由することで、ひとつの認識、すなわち「私は存在する」という真理の認識に変化するのだ。デカルトの議論のなかで、神の存在証明は、経験から認識への、出来事から知への転回軸の役割を果たしている。
 デカルトは、すべての根拠を〈他者〉のうちに見いだすことによって、コギトを「たんなる消失点」ではなく、真理を探究するための立脚点とした。まさにここを分岐点として、精神分析の主体はデカルト的コギトとはまったく異なる方向に舵を切ることになる。精神分析において問われる真理は、〈他者〉によって定められたものではなく、主体が自身の無意識と向き合うことによって、新たに創出すべきものだからである。
 問題は、デカルトが「欺く神」の仮説で一度は〈他者〉の欲望を問う局面に立ち至ったにもかかわらず、最終的には、「永遠真理創造説」というかたちで、〈他者〉の欲望を問いに付すことを止め、むしろそれに全面的に従属する道を選んだことだ。デカルトのこの選択に、ラカンは何をみたのか。それに対して精神分析が示すことのできる別の道は、どこにつうじているのか。次回はこの問いから始めることにしよう。


[1] Ibid., p. 204.
[2] Descartes à Mersenne, Amsterdam, 15 avril 1630, in : Œuvres de Descartes, AT-I, p. 145.〔『デカルト全書簡集』、山田弘明ほか訳、第一巻(1619‐1637)、知泉書院、2012年、135頁〕

[3] Descartes à Mersenne, Amsterdam, 27 mai 1630, in : Œuvres de Descartes, AT-I, p. 153. 〔同上、142頁〕

 

次回は2019年11月11日(月)更新予定