「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2019.11.11

08あなた以上にあなたのことをよく知っている誰かについて――転移の構造論

 

 私を絶えず欺いているかもしれない悪意の神から、真理の究極的な保証者としての神へ――前回私たちは、全能の〈他者〉をめぐるデカルトのこうした論理展開を取り上げた。ラカンは、神という〈他者〉に真理の最終根拠を丸ごと委ねてしまうデカルトのやり方に繰り返し言及し、その意味を問い直している。一見するとこれは奇妙なことに思えるかもしれない。ごくふつうに考えれば、神の意志を云々するいかにも形而上学的な議論と、分析家のところで思いつくまま話すことを繰り返す精神分析の日常的な実践とは、かなりかけ離れているからである。今回は、これらがどんなふうに絡み合っているのかを考えてみたい。
 まずは、コギトと神の関係と、そこでの真理の位置づけについて、ラカンが何を語っているのかを確認しよう。

理解すべきは以下のことである。すなわち、デカルトが言わんとしているのは、そして実際彼が言っているのは、もし224であるならば、それはまったく単純に、神がそれを望んだからなのだということだ。そうしたことは神の問題(affaire)だ、というわけである。[1]

  ここで着目したいのは、引用の最後、「そうしたことは神の問題だ」という部分である。デカルトにとって、何が真理であるかということは、そもそも人間に関与できる事柄ではない。それはどこまでいっても〈他者〉の欲望次第であって、有限な存在である人間にできるのは、〈他者〉があらかじめ決定したことをあとから追いかけるようにして、部分的に知ることだけである。つまり、「私はまだ知らない、しかし、〈他者〉はすでにそれを知っている」というのが、デカルト的な真理の探究の出発点だ。
 デカルトは、哲学者であると同時に科学者であった。例えば、今日では「運動の第一法則」としてニュートンの名に結びつけられる「慣性の法則」は、デカルトによってはじめて定式化された。主体(としての科学者)に先立って真理を知っている〈他者〉に依拠することではじめて、デカルト的近代科学は成立する。デカルトからすれば、神が真理を永遠不変のものとして創設したという形而上学的前提があってはじめて、自然界が首尾一貫した法則性をもち、科学がそれを漸進的に明らかにしていくことができるからである。
 ひるがえって、「〈他者〉はすでに知っている」というこのデカルト的前提は、ラカンによれば、精神分析の主体の前提でもある。無意識というのは、定義上、「私」自身には知ることのできない領域にほかならない。それにもかかわらず、まさにその未知の領域にこそ、いまの自分を決定づける何かがあるというひとつの仮説にもとづいて、ひとは精神分析を始める。分析家との関係のなかで、自分の無意識が多少なりとも明らかになり、それによって自分は変われるだろうという期待を抱けなければ、誰も実際に精神分析をやってみようとは思わないだろう。
 では、精神分析において「すでに知っている〈他者〉」の役割を果たすのはいったい誰なのか。ラカンのいう〈他者〉の最も基本的な定義に立ち返れば、それは言語の場そのものだということになる。とはいえ、主体が自由連想を行って話すためには、当然のことながら、分析家が言葉の宛先となって話を聴かなくてはならない。つまり分析関係のなかでは、事実上、分析家こそが〈他者〉を代表している。むしろ、〈他者〉の仮の代理人というポジションに身を置くことが、ひとつの精神分析が始まるときの分析家の重要な役割である。このことを指して、ラカンは分析家のことを「主体の証人」、あるいは「真理の主」と呼んだりしている[2]
 しかしこれは、分析家がデカルトの神のごとく何でも知っているとか、主体の無意識の内実を把握する特権を持つ、という話ではもちろんない。まったく反対である。うえで「仮の代理人」という言い方をしたのもそのためである。分析家は、主体の無意識と発話(パロール)のつながりを保証する〈他者〉の機能を、あくまでも仮初めに、肩代わりする。逆にいえば、分析家が〈他者〉の位置に身を置き続けることはできないし、またそうしてはならない。これはラカンの精神分析思想の最も重要なポイントのひとつだ。
 分析の開始において分析家が仮初めの〈他者〉となる、というのはいったいどういうことなのか。これについてラカンは、「知を想定された主体(sujet supposé savoir)」という独自の概念を練り上げることで自身の考えを展開してゆく。ラカンによれば、デカルトの神は、まさに「知を想定された主体」である。すなわち、コギトという主体が、「真理を知っている」と想定しているもうひとり別の主体(=〈他者〉)、それが神である、ということだ。
 ラカンがあえて「知の主体」(知っている主体)ではなく「知を“想定された”主体」という表現を用いている点は重要である。これは、「神こそが真理を知っている」というのがあくまでもコギトの側の「想定」である、ということを意味する。実際デカルトの議論のなかでも、神の存在証明や「永遠真理創造説」の主張は、もっぱらコギトの試行錯誤のみから導き出されており、それを外部から保証する審級は存在しない。神が本当のところ何を知っているのかよりも、その中身が何であれ、神は真理を知っているとコギトが想定すること自体のほうがじつは本質的なのだ。〈他者〉に対する知の想定はひとつの主体的行為であり、真理の探究に不可欠な一歩である。
 精神分析の開始という一歩についても、これと同じことがいえる。第三回で述べたように、無意識とはそれ自体がひとつの仮説である。この仮説は、何らかの想定された知(問題は自分の無意識であり、そこには知られるべき何かがある、という想定)であって、分析家は、分析主体が携えてくるこの想定を具現化する。いいかえれば、分析家は、いまだ証明されざるこの仮説の支持者であり、それに身をもって具体的なかたちを与える支持体である。このような構造によって成り立つ分析関係(分析主体と分析家の二者関係)として、ラカンはフロイトのいう「転移(Übertragung)」を再定義している。

***

 転移とは、一言でいうと、強い感情的な結びつきのことである。フロイトによれば、転移は親密な人間関係にきまって現れ、精神分析の実践に限らず広く一般に見られる。例えば、はっきりとした性的要求を伴う恋愛のようなあからさまなものもあれば、尊敬や信頼といった、表面上はより整序されたものもあり、そのかたちは様々である。もちろん、親密さというのはつねに肯定的な感情のみによって形作られるのではない。むしろ、顕在化していようとなかろうと、そこにはしばしば敵対的な負の感情も含まれていることを強調するのが、フロイトのリアリズムである。アンビヴァレンツなき感情(例えば憎しみをほんの少しも伴わない愛)は、少なくとも神経症者の世界には存在しない。
 いずれにせよ、感情的な高まりと他者への強い結びつきが転移現象の核である。ところで、精神分析の実践はこの現象と切っても切り離せない。それは、治療者と患者のあいだではつねに転移が見いだされる、という臨床的事実のみによるのではない。そうではなく、より積極的に、転移を原動力にする技法として、フロイトは精神分析を発明したのである。フロイトは、患者から恋愛感情を告白されたり(陽性転移)、強い攻撃性を向けられたりする(陰性転移)経験を繰り返すなかで、それを治療上偶発的に生じる障害ではなく、むしろ治療の本質をなす現象と位置づけた。精神分析とは、人為的に転移を生み出す実践であり、転移関係こそが分析に固有のフィールドである。
 フロイトによれば、転移とは、症状が分析関係のなかに移されたものである。übertragenは「移す」とか「翻訳する」といった意味だ。患者の無意識のなかに押し込められているトラウマ的経験の記憶やそれがもたらす葛藤は、転移のメカニズムによって、分析関係のなかで新たなかたちを得て再演される。例えば、患者がかつて抱いていた母親への嫌悪や、すでに取り返しようもなく破綻してしまった恋愛関係の回復への要求が、分析家へと向けられる。これは、患者のなかで抑圧されてきたものがいわば現在形で、直接取り扱い得るかたちで姿を現す、という意味で、分析の進展に必須のプロセスである。
 だが、転移には、分析を進展させるのとは反対の方向性、フロイトのタームでいう「抵抗(Widerstand)」の側面もある。患者による分析への抵抗は、もとをたどれば、抑圧のメカニズムに由来する。分析が抑圧されたものを思い出し、それを言葉にする困難な作業を患者に要求する以上、患者のうちで働く抑圧は、今度は分析への抵抗として現れる。分析家への恋着にせよ反発にせよ、患者がそれにどっぷりと浸ってそこに自分の無意識をみようとしなければ、分析の進展を滞らせることになる。フロイトはこれを「転移抵抗(Übertrangungswiderstand)」と呼ぶ。
 しかしフロイトは、こうした抵抗を斥けようとはしなかった。むしろ、抵抗の必然性を認め、分析関係のなかでそれを存分に展開させる道を選んだ。フロイトの狙いは、患者自身が抵抗ととことん向き合い、それを主体的に乗り越えるよう促すことにあった。なぜなら、論理的にも経験的にも、分析が患者の症状の根に近づけば近づくほど、患者の抵抗は強くなっていくということを確信していたからである。したがって「転移こそが精神分析の原動力である」というフロイトのテーゼは、「転移抵抗」をも、そしてより本質的に、転移をつうじて新たな姿をとった症状それ自体をも、肯定する発想として受け取らなれければならない。

患者は勇気をもって、自分の病気の現れの数々に向けて注意を働かせなければならない。病気そのものは、彼にとって軽蔑すべきものであってはならず、むしろ尊敬すべき敵とみなされてしかるべきなのだ。それは確かな動機にもとづいた、患者の本質をなす一部であって、そこから患者の今後の人生にとって価値あるものを引き出すことこそが肝要である。[3]

  ここには、第三回でみたのと同じフロイトの一貫した立場がはっきりと見て取れる。すなわち、精神分析は症状に対立するのではなく、むしろ症状をパートナーとして進んでゆく実践である、という立場だ。フロイトにとって、患者の主体性を最大限尊重することは、患者の症状の価値を最大限尊重することに等しかった。ひとりの患者が、ほかの誰でもないその人であるということと、その患者をとらえ、その無意識に刻み込まれた運命、やがて症状を生み出すことになった運命とは、どうやっても切り離せないからである。

***

 転移をめぐるフロイトの洞察から引き出されるのは、精神分析は、症状が展開してゆくそのプロセスと同じ方向を向いて進む、という原則である。精神分析とは、それ自体が、患者と分析家の二者関係によって代理された症状なのだ。第二回でも述べたように、症状の軽減や解消は精神分析の「結果」ではあっても、「目的」ではない。そうだとすれば、当然次のような疑問が浮かんでくる。

 精神分析はいかにして終結するのか?

 じつは、この点についてフロイトの考えは揺れている。そもそも、ひとつの精神分析が終わるとはどういうことなのか、明確な終わりを設定できるのかという根本的な問題が、精神分析の歴史のなかで長らく手付かずのまま残されていた。この問いにはっきりとした答えを与えたのが、ラカンである。問題は、分析作業を経た「転移の解消」がどうやって起きるのか、ということだ。転移の成立によって始まるプロセスが転移の解消によって終わるというのはある意味当然のことだが、ラカンはこれを原理的なレベルで再考し、理論化した。このようなコンテクストで大きな意味をもってくるのが、うえでみた「知を想定された主体」という概念である。
 ここまで足早に確認してきたフロイトの議論は、転移の現象的な側面、すなわちそこで現れる厄介な感情のもつれの意味や取り扱いをメイントピックとするものだといえる。これに対してラカンは、その議論を再構築しつつ、問題の現象を条件づける基本構造に焦点を当てる。この基本構造こそ、分析家が仮初めの〈他者〉となり、分析主体がこの〈他者〉に知を想定するというものである。ひるがえって、転移の解消は、この構造そのものが解体することによって果たされる。つまり、分析主体が分析家を〈他者〉とみなすことをやめ、自分の無意識について、自分以上に分析家のほうが何事かを知っていると考えるのをやめるとき、精神分析は終わりを迎える。
 ひとは、誰かが自分以上に自分のことをわかってくれているとみなしたとき、その相手に対して強い感情的な結びつきを持つ。そして、そのひとから見た自分こそ、真の自分だと信じるようになる。ごくありふれた恋愛関係にも、このような面はたやすく見て取れる。これは、転移によって相手を理想化している状態であり、「知を想定された主体」とは、このように理想化された他者のことである。
 精神分析において、分析家がこのような理想化の対象となる局面は避けられない。だからこそ、フロイトが伝えるような愛憎が臨床の日常風景となる。しかし、逆にいえば、この理想化にしっかりケリをつけることこそ、精神分析の真の終わりであり、その目的にふさわしい。ラカンによれば、「分析家は、まさしくこの理想化から転落し、権威を失わなければならない」[4]
 これは、分析家の職業的能力の限界が明らかになる、というような意味ではない。そうではなく、個人の無意識の最も特異な部分にかんしては、どんな分析家も、それどころかどんな〈他者〉も、決定的な答え(=真理)を持っていないということ、これを分析主体が精神分析の経験をつうじて身をもって知るという意味である。自分が何者であるかを決定できるのは〈他者〉ではない。そのような〈他者〉は存在しない。この根本認識を新たな出発点として一歩を踏み出すとき、主体はもはや分析家を必要としなくなる。
 主体が〈他者〉に依拠することで始まるひとつの精神分析は、この〈他者〉そのものが問いに付され、やがてはその不在がそれぞれなりの仕方で引き受けられることで終わる。ラカンが提示するこうした発想は、臨床のイニシアティヴをもっぱら患者の側に置き、その症状の展開に同伴することを臨床家の使命としたフロイトの議論にすでに胚胎されていたとみることもできる。フロイトの技法を特徴づけるのは、治療者が患者に対して知や権威を振りかざす契機を徹底的に排除する姿勢である。
 ここまでみてくれば、ラカンの実践原理とデカルトの形而上学のコントラストは明らかだろう。精神分析の主体とデカルト的コギトは、〈他者〉に知を想定するという出発点を共有している。しかし、デカルトが真理の決定を〈他者〉に委ねたままそれを問い直すことがないのに対して、ラカンは真逆の立場を取る。主体は〈他者〉を問いに付すところまで、つまり自身の出発点にあった仮説をひっくり返すところまで進まなくてはならないというのだ。真理は、もはや〈他者〉が不在となった地点で、主体が自己決定を行うことではじめて創り出される。それはどこまでいっても主体自身の問題(affaire)である。

[1] Jacques Lacan, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, op. cit., p. 205.
[2] Jacques Lacan, « Fonction et champ de la Parole et du Langage en Psychanalyse » (1956), in : Écrits, op. cit., p. 313.
[3] Sigmund Freud, »Erinnern, Widerholen und Durcharbeiten « (1914), in: Gesammelte Werke, Band. 10, Fischer, 1991, S. 132.
[4] Jacques Lacan, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, op. cit., p. 245.

次回は2019年12月11日(水)更新予定