「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2019.12.11

09恋愛は存在しない?――「転移性恋愛についての見解」再読

 

 JM・クッツェーの『恥辱』(1999年)は、いまや言わずと知れた名作である。
 教え子メラニー・アイザックスに対するセクシャル・ハラスメントがもとで大学教員の座を追われたデヴィッド・ラウリーは、半ば人生を放り出すような気持ちで、離れて暮らす娘のもとに身を寄せ新たな生活を始める。彼はそこで思いもよらぬ陰惨な事件に遭遇する。物語の舞台はアパルトヘイト廃止後の南アフリカであり、歴史のうねりから生じる社会的混乱と、生死の緊張が刻々と描き出される。
 ラウリーとアイザックスの関係を描いた冒頭部分は、作品の特性上、読後には必ずしも強い印象を残さないが、示唆に富んでいる。古典文学の専門家であるラウリーは、大学の組織改編にあたって廃止された「文学部」ではなく「コミュニケーション学部」の教員を務めていて、彼はこの組織に馴染めず、仕事への情熱をすっかり失っている。これを読んで、日本の大学(とりわけ人文系の学部)を隅々まで覆っている今日の危機を重ねないでいることは難しいが、ここで注目したいのは、あくまでも主人公ラウリーとセクハラの被害者である女子学生アイザックスの関係である。
 クッツェーは、言葉をぎりぎりまでそぎ落としたきわめて簡素な記述でこの関係を展開させてゆく。ラウリー自身がはっきりと認めているように、このセクハラ事件にかんして教員を庇う余地は少しもない。そうした前提に立ったうえでなお謎として残されるのは、アイザックスがラウリーにいったい何を求めていたのか、ということである。
 彼女がラウリーとの性行為に同意していないことは描写の端々からもはっきり読み取れるし、ラウリーのほうもそのことを十分理解している。だが、アイザックスが唐突にラウリーの自宅にやってきて、しばらく泊めてほしいと言ったりするところなどをみると、ことはそれほど単純ではないことも確かである。どうやら彼女は、ラウリーとの関係を100パーセント断ち切ろうと踏み出す前の段階で、ラウリーに何か――しかしラウリーが彼女に押しつけた肉体関係とは異なる何か――を求めていたようだ。
 物語は、アイザックスとその周囲の者たちによる告発というかたちで、アイザックスの欲望の謎を宙づりにしてしまう。問題は、ラウリーその人が、スキャンダルの火消しにあくせくする大学側の査問を飄々とこなすばかりで、この謎に少しも向き合っていないことだ。そもそも彼は、アイザックスに対する自分の感情の高まりを一種の「愛」にちがいないと確信してはいるものの、この「愛」の正体が判然としない。彼はそれを「ちょっとした情事」にしておくつもりだったと述べているが、その冷静な振る舞いから察するに、たんに性的欲求の衝動に負けたというわけでもなさそうである。
 おそらくここには、自身のセックスアピールが目に見えて失われつつあるというラウリーの暗い自己診断が深くかかわっている(この自己診断は、彼のなかで、自身の職場を取り巻く嘆かわしい現状とも連動している)。いずれにせよ、ラウリーのなかで彼自身の欲望がまったくと言っていいほど掘り下げられていないことと、彼がアイザックスの欲望の謎に手を付けずに放置していることは、パラレルな関係にある。まさにそれゆえに、この主人公は、今度は娘のルーシーとのあいだで、同じ問題に対峙することになるだろう。
 この物語のなかでラウリーにつきまとう困難の本質は、じつは、彼が自分の欲望について何も知らない、あるいは知ろうとしない、ということに尽きるのではないだろうか。

 

***

 

 では、ラウリーとアイザックスの関係は、「恋愛」ではなかったのか。
 第三者的にみれば、あるいは制度的空間としての大学にあっては、この関係は教員の学生に対するタチの悪いハラスメント以上の意味をもたない。またアイザックスにとっても、それは「恋愛」と呼べるものではなかっただろう。だが、うえのような事情から、ラウリーにとっては、それはやはり「恋愛」の一変種だったとみることができる。少なくとも、恋愛がひとつの主観的かつ感情的な経験であり(したがってそれを外部の視点から恋愛であるとかないとか決定することは原理的にできない)、この経験のなかにいる者自身が、相手に対する愛情をつねに確信しているとはかぎらない(たいていの場合、恋愛感情は他の雑多な感情と混じり合っているし、仮に愛情への疑念が生じてもすぐさま関係の解消に至るわけではない)ということを認めるならば、それが恋愛ではないとは決して言えないのだ。
 一言でいえば、ラウリーとアイザックスの関係のなかで、欲望の謎は、恋愛の謎でもある。私たちが常日頃一括りに「恋愛」と呼んでいるもののなかには、当事者を含めた誰からみてもいかにも「恋愛」らしいものから、観点や考え方によって、いまだ/もはや「恋愛」ではなくなるものまで、様々なケースがある。「これこそが真の恋愛だ」と「これは絶対に恋愛ではない」のあいだには広大なグレーゾーンがあり、このグレーゾーンをすっかり切り捨ててしまえば、恋愛なるものの本質(もしそのようなものがあればの話だが)も一緒に取り逃してしまうことになる。
『恥辱』については語るべきことがまだまだたくさんあるが、そろそろ本題に移ろう。
 前回は、転移という現象についてのフロイトとラカンの議論を参照した。今回は「恋愛とは何か」という観点から、転移についてふたたびフロイトとともに考えてみたい。フロイトが分析実践の具体的な問題を論じた一連の技法論のなかに、「転移性恋愛についての見解」(1915年)という論文がある。フロイトの高弟だったアーネスト・ジョーンズの証言によれば、フロイトはこの論文を、自分の技法論のなかで最もよく書けたものだと言っていたらしい[1]。この証言にたがわず、じっくり取り組んでみる価値がある論文である。
「転移性恋愛(Übertragungsliebe)」とは、その名のとおり、転移関係のなかで患者が分析家に恋愛感情を抱く事態を指す。フロイトはこの論文で、女性患者が男性分析家に対して恋愛感情を(言動や態度で)はっきりと示すケースを取り上げつつ、「転移をどう取り扱うべきか」という実践の問題を論じている。この議論は同時に、「恋愛とは何か」というより一般的な問いを、精神分析独自の観点から掘り下げるものとなってもいる。
 フロイトによれば、多くの人にとって恋愛とは「他の何にも代えがたいもの」、「それ以外についての記述はいっさい受け付けない特別な一頁に書かれるべき出来事」である[2]。それゆえに、うえのようなケースは分析家にとっても患者にとってものっぴきならない事態だ。一般的な見地からすれば――ここでフロイトが想定しているのは標準的なモラルを備えた非分析家の見方である――、このようなケースで取りうる選択肢はふたつしかない。すなわち、治療者と患者という関係を越えて正式に交際を始めるか、分析家が何かしらの理由をつけて治療を打ち切りにするか、である。だが、前者の選択、例えば分析家や患者が既婚者である場合は離婚するといった選択がなされることはほとんどない。
 さらに、第三の可能性として、治療は続けながら秘密裏に恋愛関係に入るということも考えられるが、フロイトは「市民的モラル」と「医師としての品格」に照らしてこのようなことはあってはならないと断っている。なにより、これは分析家が治療者としての役割をおざなりにしている点で論外である。だが、もちろんこうした例がないわけではない。よく知られているように、当時はフロイトの弟子だったユングは、自身の患者ザビーナ・シュピールラインとのあいだでこの第三の道(継続的な不倫関係)を選んだのだった。
 これら三つの選択肢に共通しているのは、分析実践と恋愛関係は両立しない、あるいは両立すべきではない、という前提である。そして、精神分析家はこの前提をこそひっくり返さなくてはならない、というのがフロイトの主張だ。分析実践は、ある特別なやり方で(つまりうえの第三の道とはまったく違ったやり方で)、恋愛関係と両立しなくてはならない。言い方を変えれば、患者の恋愛感情を治療に役立てるべく利用するのが、ここで分析家が選ぶべき唯一の方法である。フロイトは、分析家が最も選びがちである治療の打ち切りという選択の末路について、こう述べている。

しかし、患者の状態によって、じきに別の医師との第二の分析治療が必要となる。すると患者はまちがいなく、この二人目の医師にも恋着状態になり、そしてまたもや、同じように治療が打ち切られて新たな分析を始め、今度は三人目の医師に恋着を起こす、以下同様、ということになる。こうしたことに帰着するのは確実なのだが、よく知られているように、この事実は精神分析理論のひとつの基盤であり、分析医と分析を必要とする患者双方にとって、利用することができるものなのだ。[3]

 ここには、前回みたのと同じフロイトのテーゼ、すなわち転移こそが精神分析の原動力である、というテーゼが見て取れる。そして、転移が症状の一形態であり、それが恋愛感情というかたちを取るのであれば、このテーゼはそのまま、患者の恋愛感情はひとつの症状であり、精神分析はこの特異な症状を原動力とする、と言い換えられる。仮にこの恋愛感情を無理に排除すれば、それは必ず別の症状となって、つまり別の誰かへの同じような恋愛感情として回帰してくる。フロイトの用いる比喩はなかなか愉しい。

それはほかでもなく、みごとな呪文でもって冥界から幽霊を呼び出そうとしていたにもかかわらず、いざ現れたら幽霊に何も問うことなく、ふたたび冥界へ送り返すようなものである。それは、抑圧されたものを意識へと呼び出しておきながら、ただそれに驚愕して、新たに抑圧し直すということである。[4]

 必要なのは、恋愛という新たな症状に尻込みすることなく、それを精神分析独自のやり方でしっかり終わらせることである。では、この「幽霊」とはどんなふうに付き合ったらよいのだろうか。確かなのは、この世のモラルを杓子定規に当てはめてみてもまったく無駄であるということだ。「分析家の取るべき道は、現実の生活のなかには範例となるようなものが何もない道である」[5]

 

***

 

 フロイトの方法は、ここまで辿ってきた論理から必然的に導き出されるものである。

われわれは恋愛転移〔Liebesübertragung〕をしっかりと保持しておき、それを非現実的な何ものかとして取り扱う。すなわち、ケアのなかで展開し尽され、その無意識的な根源へと送り返されなければならない状況として取り扱うということである。この状況の助けを借りて、患者の愛情生活のなかの最も奥深くに潜んでいるものを意識化し、制御できるようにしなくてはならない。[6]

 この方法を特徴づけるのは、分析家が患者からの愛情をはねつけるでも受け入れるでもない中立的な立場を保持すること、そして、この愛情をひとつの「見せかけ」とみなして、その向こう側にあるものを引き出そうとすることである。
 恋愛の渦中にあるとき、どうして他の誰でもないそのひとが相手でなくてはならないのか、本人にはわからない。これはフロイトのいう「対象選択」の問題である。そこには、当人が経験してきた満足や喪失、それに伴う悦びや痛みが避けがたく影響を及ぼしている。第二回でも述べたように、そのひとを決定づけた過去の経験を、たとえ本人が忘れてしまっても、無意識は決して忘れないからだ。ひとは自分自身の歴史からは自由になれない。フロイトの方法は、厳密な決定論の立場に基づいている。
 フロイトによれば、こうした過去は患者の幼児期にまで遡る。目下愛情に衝き動かされている当人からすれば、目の前の相手こそはまさに特別で、代わりなどどこにもいないと感じられる。だが、そういう場合であっても、いやむしろそういう場合にこそ、無意識に書き込まれた過去の経験が、痛切に問われることになる。愛しい人は、かつて失った人の「幽霊」かもしれない。恋愛の現在に強烈に結びつけられている患者を前にして、分析家は、この恋愛を現在から切り離し、あくまでもその背後にある歴史を相手にする。
 さて、フロイトが転移性恋愛を「非現実的な(unreal)」ものとみなすべきだと述べていることに、あらためて着目しよう。私たちはこれを「見せかけ」と言い換えたわけだが、フロイトはさらに、患者の愛情をumgeworfenとも形容している。この語はいささか訳しにくいが、文字通りには「ひっくり返された」(英語に置き換えればoverturned)という意味で、要するに本来のあり方からすっかり外れている状態を指す。こうしたフロイトの言葉使いは、転移性恋愛を虚構の、もっといえば偽物の恋愛とみなすほうに傾いているようにみえる。
 しかし、フロイトはここから一気に舵を切り、本物の恋愛と偽物の恋愛の区別、現実生活における恋愛と臨床における転移性恋愛の区別を問いに付すことになる。転移性恋愛は本物の恋愛ではないと、どうして言えるのか。フロイトはこれまでの議論を振り返りつつ、この主張を正当化できそうな論拠をふたつ挙げている。
 第一に、転移性恋愛には患者の治療への抵抗が深くかかわっているという点だ。この抵抗ゆえに、患者は分析家の言葉に耳を貸さなくなって、みずから治療を放り出そうとする。分析家のことが本当に好きだったら、双方の利益となるよう治療に協力的になるはずではないか、というわけである。第二に、転移性恋愛は幼児期を含めた患者の過去にその根をもつという点である。転移性恋愛は、その本性からして、分析家本人の特徴によって生じたのではなく、患者の過去の産物である。だから、やはり本物の恋愛とは区別されるべきだ、ということだ。しかし、これらふたつの論拠を、フロイトは次のようにあっさり否定する。

われわれのふたつの論拠のうち、前者のほうがより強力である。転移性恋愛に抵抗が関与していることは疑いようがなく、この関与はかなりのものだからだ。しかし、抵抗がこの愛を生み出したというわけではない。抵抗はその愛を発見し、利用して、その姿を誇張したのである。この現象の真正性は、抵抗によって奪われはしないのだ。これに対して後者の論拠は、はるかに薄弱である。この恋着がかつてあった特徴の新版からできており、幼児期の反応を反復しているというのは正しい。しかし、それはおよそいかなる恋着にも備わっている本質的な性格である。幼児期の範例を反復していない恋着など存在しない。[7]

 抵抗に利用されていようがいまいが、それは転移性恋愛の本質とはおのずと別の問題であり、転移性恋愛を現実生活のなかの恋愛と区別し得るかにみえた特徴、すなわち過去の経験によって決定されるという特徴は、じつのところ恋愛一般に普遍的に見いだされるものである。だから、転移性恋愛を偽物の恋愛とみなす権利は、じつは誰ももっていない。仮にこれを偽物とみなすならば、およそどんな恋愛も偽物であるということに、つまり恋愛は存在しない(!)ということになってしまうからだ。
 私たちが日頃経験している恋愛から転移性恋愛を分かつものは、それが治療関係のなかで生じたという事実以外には何もない。さらに、フロイトはこうも書いている。むしろ、転移性恋愛には、無思慮で盲目的であるという点にかけては、通常の恋愛に望まれる以上のものがある、と[8]。仮に、どこまでも真っ直ぐで情熱的であることを恋愛のひとつの理想と考えるならば、転移性恋愛こそがこの理想を体現していると言うことさえできるのだ。繰り返しになるが、だからといって、分析家は患者の想いに応じるわけにはいかない。したがってフロイトとともに私たちが導き出す結論は、次のようになる。
 転移性恋愛とは、最初から失われている恋愛、始まったときから終わっているにもかかわらず、精神分析において束の間生きられなければならない恋愛のことだ。ひるがえって、あらゆる恋愛は、転移がそうであるのと同様に、ひとつの症状である。

 

[1] Ernest Jones, Life and Work of Sigmund Freud, vol. 2, Years of Maturity (1901-1919), Basic Books, 1955, p. 237.
[2] Sigmund Freud, » Bemerkungen über die Übertragungsliebe « (1915), in: Gesammelte Werke, Bd. X, Fischer, 1991, S. 307.
[3] Ebd., S. 308.
[4] Ebd., S. 312.
[5] Ebd., S. 314.
[6] Ebd., S. 314-315.
[7] Ebd., S. 317.
[8] Ebd., S. 318.

 

次回は2020年1月11日(土)更新予定