サボる偉人 栗下直也

2025.12.31

20ダーウィン、ケインズ、ハラリ 労働の外に出る

 

8時間労働は長すぎる
「なぜ、1日に8時間も働かなければいけないんだ!」と夕方4時くらいになるとあからさまに不機嫌になり、鬼のような形相でパソコンを必要以上の力でカタカタと叩く人があなたの職場にもいるはずだ。
いや、ひょっとしたらそれはあなた自身かもしれない。
 確かに、私も会社に勤めていたころは夕方どころか、昼ご飯を食べ終えると、「なんで8時間も働かなくてはいけないんだ、もういいだろ」とこぼしていた。で、実際、記者クラブのソファーに寝っ転がって、漫画雑誌『モーニング』や『漫画アクション』をパラパラとめくっていた。よくわからないが『ビッグコミックスペリオール』まで読んでいた。どんなにマンガ好きなんだよと突っ込まれそうだが、今考えれば、漫画を読みたいのではなく、何もしたくなかったのだ。そこに漫画があったから読んでいただけだ。
 おそらく令和の時代に働く人たちのほとんどは「8時間労働なんて長すぎる」「週休3日は欲しい」「現代人は仕事ばかりし過ぎだ」と思っているかもしれないが、約100年前の人はもっと働いていた。あなたが「仕事辛すぎ」と漏らすならば、「8時間しか働かなくていいなんて天国じゃねーか」と突っ込まれるのは避けられないだろう。
 日本で8時間労働が正式に導入されたのは20世紀初頭だ。一般的には1919年に川崎造船所が初めて8時間労働制を導入したといわれているが、広く普及したのは労働基準法(1947年)制定以降だ。つまり、約80年前までは8時間以上働くのが当たり前の職場がそこらにあったわけだ。
 産業革命以降、工場労働者は1日十数時間働くことも珍しくなかった。言うまでもないが1日は当時も今も24時間であり、十数時間も働いたら寝る時間もほとんどなくなる。働き過ぎだ。19世紀になるとさすがに、異常ではないかと気づく人がチラホラ出てくる。「ちょっと過酷すぎるでしょ」と指摘する人が増え、働き方の見直しが始まる。「仕事に8時間を、休息に8時間を、やりたいことに8時間を」という21世紀の今になっても実現していないスローガンまで誕生した。
 1886年にはアメリカのシカゴで労働者が立ち上がる。8時間労働制を求めて大規模なストライキを実施した。これが5月1日の「メーデー(労働者の日)」の起源といわれている。
 とはいえ、資本家にしてみれば「8時間労働がつらい? 好き勝手言いやがって! おまえらは働いて、働いて、死ぬまで働け」と叫びたい。ただ、実際に死ぬ人もいたわけだから、そうした声を無視もできない状況にはなっていた。そこで、8時間・9時間・10時間労働の生産性を比較する実験が各国で実施されたのだが、結局、8時間程度の労働が生産性や健康、生活の質向上につながることが明らかになった。つまり、「資本家が労働者を働かせまくっても生産性は上がりません。だらだら働いても意味ないよね」となったわけだ。
 ここで奇妙なことに気づかないだろうか。8時間労働が生産的だとわかってから100年以上経つのに、8時間以上働く人は後を絶たないし、そもそも人間を取り巻く環境は激変しているのに、なぜ私たちはいまだに8時間という数字に縛られているのだろうか。やっぱり働き過ぎなのではないか。

ダーウィンという究極のニート―あるいは別の生き方―
 もちろん、誰もが8時間に縛られているわけではない、あまり働かなかった人もいる。そうした文脈でよく挙げられるのがチャールズ・ダーウィンだ。
 ダーウィンは1809年にイングランドで生まれている。労働観が変わる真っただ中の19世紀を生きた人物だが、1日の作業時間はわずか3–4時間。90分の作業セッションを3回繰り返し、正午には「今日はよく働いた」と宣言し、残り時間を散歩や手紙の執筆、昼寝、思索などにあてた。毎日必ずサンドウォークと呼ばれる小径を歩き、重要な問題を考える際は小石を積み上げて歩数を数えた。
 現代のホワイトカラーが「めっちゃ理想!」と憧れそうだが、偉人のいい話にはだいたい裏がある。そもそもダーウィンの「作業」とは何か。辞書によれば作業とは仕事であり、仕事とは「生計を立てる手段として従事する事柄。職業」とある。だが、ダーウィンは何の職にも就いていなかった。どこかの大学に勤めていたわけではなく在野の研究者だった。歴史的名著『種の起源』も家に閉じこもり、約20年の歳月を経て世に送り出した。
 なぜそんなことが可能だったのか。答えは単純だ。ダーウィンは我々の想像を絶する金持ちだったからだ。

親ガチャ大成功——労働の外側にいた男
 父親は高名な医者で、父方の祖父は当時イギリスで最高の名医ともいわれていた。母方の祖父はジョサイア・ウェッジウッド。あの英国御用達の高級陶磁器メーカー、ウェッジウッドの創業者だ。生まれながらにして莫大な資産が転がり込んでくることが約束された「勝ち確」の人生。現代風にいえば「親ガチャ」大成功、それも同世代に1人か2人レベルの超絶ガチャだ。
 学生時代、ダーウィンは学費とは別に年400ポンドの仕送りを受けていた。当時の1ポンドを現在の5万円で換算すると2000万円になる。「血が苦手」という理由で医学部を中退して、22歳から27歳まで5年間、ビーグル号で世界一周の旅に出る。カネは腐るほどあるから好きに生きればいいのである。30歳近くになりプラプラしていても、何の問題もない。ちなみにこの航海、海軍の調査なのに全額自費参加だった。
結婚後も財産は増え続けた。30歳で結婚すると親からの支援は年500ポンドに増額、妻の実家からも年400ポンドの仕送りがあった。さらに結婚時には両家から1万5000ポンドの債券が転がり込み、その利回りだけで年600ポンド。現代の貨幣価値に換算すると、少なく見積もっても年収1億円超が働かずに入ってきた計算になる。『種の起源』(1859年)が発刊されたころには不労所得は年5000ポンドまで膨らみ、1870年代以降は株式投資で年8000ポンドの利益を叩き出していた。もう、何だか自分で書いていてアホらしくなってくる。カネはあるところにはあるのだ。
 現代で彼の職業を分類するならば、ひきこもりのニートである。ただし、超富裕層の優雅なひきこもりだ。興味深いのは、ダーウィンが「労働」という概念の外側にいたからこそ、人類の知的財産となる発見ができたのかもしれないことだ。労働から解放されたとき、人は何をするのか。この問いは、私たちが「働く」ことの意味を考える上で重要な示唆を与えてくれる。

ケインズの誤算——私たちはなぜ働き続けるのか
 経済学者のジョン・メイナード・ケインズは1930年に「孫の世代の経済的可能性」と題したエッセイを発表している。その中で、100年後の先進国の生活水準が4~8倍になると予測して的中させた。一方、技術進歩により2030年までに週15時間労働が実現すると説いた。人々が労働から解放され、そこにむしろ哲学的な悩みが生じないか危惧していた。時間の使い道がなくなり、人生の目的を見失ってしまわないか、と。
 この主張は古いようで新しい。歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で示した問題にも通じる。AIが人間の仕事のほとんどを代替し、多くの人が「無用者階級」になるという衝撃的な未来だ。
いまのところ、15時間労働は実現していない。技術が発達し、AIが事務作業を代替しても、その分、判断を求められる回数が増え、新たな仕事が次々と生まれている。例えばAIがイラストをほんの数分で作れば作るほど、それをチェックし、修正し、最終判断を下す仕事が増えていく。皮肉なことに、効率化を進めれば進めるほど、仕事は楽にならない。
 私たちが今こなしている判断業務も近い将来AIに置き換わるかもしれないが、それはそれで悩ましい問題である。本当の意味で、することがなくなってしまうからだ。実際、現在でも「AIで今の仕事を効率化してしまうと、別のプロジェクトや会議が増えるだけで、よくわからない新しい仕事を押し付けられかねないから、AIの導入にあえて反対する」という声も聞かれる。
 仕事はしたくない、効率化したい、でも、仕事を失いたくない。ここに現代の奇妙な逆説がある。私たちは「働きたくない」といいながら、同時に「仕事を失いたくない」と怯えている。労働からの解放を夢見ながら、労働なしの人生を想像できない。この矛盾は一体何を物語っているのだろうか。

「サボる」という思想
 働きたくない。でも、仕事を奪われたくもない。正直、やっていられない。
 わからなくもない。それならば思いっきりサボってみたらどうだろうか。サボることで見えてくることもあるはずだ。ケインズもハラリも同じことをいっている。「人間の生きがいとは何か」。人間が何を生きがいに生きるかは非常に重要だが、なぜか私たちはそれを考えずにひたすら仕事をこなしている。不思議な話だ。
「サボる」とは、立ち止まることかもしれない。効率化の波に逆らい、生産性の呪縛から逃れ、「何のために」という根本的な問いに向き合う。会議で黙っている時間、誰も読まない報告書を書いている時間、形式的なやり取りに費やす時間——これらは本当に私たちの人生に必要なのだろうか。
 本連載では、こうした問いを通じて、働くことの意味を問い直してきたつもりだ。それは時短術でもライフハックでもない。むしろ、「時短」や「効率化」に盲目的にこだわる自分自身を嗤い飛ばしたかったのだ。
 働き方改革が叫ばれて久しいが、働き方はそんなに変わっていない人がほとんどではないだろうか。そもそも、改革するには、何のために生きるかを考えなければならない、そして、その上でどう働くべきかを考えなければならない。だが、多くの人は何のために生きるかはあまり考えない。
「何のために生きるか」を考えると、「働くためではない」とすぐにいきあたる。誰もがそう口をそろえるはずだ。とはいえ、働かなければ生きていけないという現実にもぶち当たる。働くために生きているわけではないけれども、働かなければいけない。だからこそ、忙しすぎる現代人にとって「サボり」が必要なのではないだろうか。世の中のルールが大きく変わりつつある今だからこそ、うまく「サボる」姿勢が重要になる。8時間労働が永遠の真理でないように、私たちの働き方もまた、問い直される時期に来ている。
 サボっても意外にうまくいくことを多くの先人たちは教えてくれる。いや、サボったからこそ先人は楽しく生きられたのかもしれない。ダーウィンのように億万長者でなくとも、私たちには私たちなりの「サボり方」があるはずだ。そして、その選択肢はひとつではない。いかにサボるかとは、人生の時間をいかに楽しむかという選択なのだ。

 

今回の教え:人生にとって本当に大切なことを考えよう。

 

(終わり)

*本連載は加筆修正の上、2026年3月に刊行予定です。

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