サボる偉人 栗下直也

2024.3.15

07カール・マルクス おんぶにだっこで暮らせたら

 

 金がなければどこかから引っ張ってくればいい。
 こんなことをいう人がよくいる。
 確かに現代においてはお金を調達する手段はいくらでも整っている。
お金を貸してくれる金融機関はごまんとあるし、クラウドファンディングのように志や熱意だけで見ず知らずの人からお金を募ることすらできる。

 だが、数百年前にはクラウドファンディングはもちろん、今ほど金融制度も整っていなかった。お金を借りるというと個人的な貸し借りが中心の時代が長く続いていた。
 当然、見ず知らずの人からお金を集めたり、借りたりする術は現代ほどなく、知人や友人を頼ることになる。現代では「友達間では金の貸し借りはしない方がいい」とはよくいわれるが、友達から金を借りるしかない状況が珍しくなかったのだ。
 もちろん、当時も「飲み代くらいなら借りてもいいけど、生活費を借りる、教育費を借りるというのはちょっと…」と後ろめたさを感じる人もいたが、中にはぶっ飛んだ人もいる。「金がない」と叫びまくり、困ったら周囲の人に支援してもらっても悪びれない人もいた。

 カール・マルクスもそんなひとりだ。

 マルクスは19世紀を生きた人の中では世界で五指に入る有名人といっても言い過ぎではないだろう。ドイツの経済学者・哲学者・革命家で、彼が何を主張したかは知らなくても「マルクス主義」や著作の『資本論』は誰もが聞いたことがあるはずだ。

 マルクスはとりあえず金がなかった。
「革命のためにお金が必要だったから支援が必要だったのでしょ」と思われるかもしれないが、ちょっと違う。多くのマルクス研究者が指摘しているように、マルクスは生活に窮するほどお金がなかったわけではない。

 とにかく出ていくお金が多かったのだ。

 そして、それは革命のためではなく、単純に自身のブルジョワ的消費に使われていた。めちゃくちゃブランド志向だったのだ。
 例えば、イギリスの安ワインを飲まずにボルドー産にこだわった。夏休みになると家族で南仏のコート・ダジュールで休暇をとらないと働く気力が起きないとうそぶいていた。  
 ジャーナリストとして収入はあったが、気まぐれで気乗りしないと寄稿を依頼されても断ってしまう。当然、家計の収支は合わなくなるが、それでも暮らしを見直そうとは思っていなかったようだ。金が無くなると「お金をください」と手紙をある友人に送っていた。
 これがお金を借りるものの手紙とは思えない。例えば、「私の家が身分不相応なのは確かだし、そのうえ今年わが家は以前よりもよい暮らしをした」と書いているが、送り付けられた方にしてみれば「そんなん、知らんがな」としかいいようがない。
 マルクスのみならず妻もその友人に「私たちはすでに通常のきちんとした中流階級の生活を受け入れていたのです。あらゆることがブルジョワ的暮らしをもたらし、私たちをそれに巻き込むために企まれていたのです」と記している。マジで知らんがな。感謝の意を示すどころか開きなおっている感すらある。

 この手紙の相手、マルクス家がおんぶにだっこだった相手こそがマルクスの盟友のフリードリヒ・エンゲルスだ。
 マルクスと同じドイツ生まれで、ほぼ同時期に生まれ(マルクスが1818年、エンゲルスが1820年生まれ)で、『共産党宣言』の共著者でもある。とはいえ、教科書でチラッと名前を聞いたことがあっても、「マルクスのわきにいる人」「共産主義のサブキャラみたいな人」という認識が一般的だろう。ちょっと古い例えになるがツービートならばビートきよし、紳助竜介なら竜介、浜田雅功と小室哲哉のユニット「H jungle with T」ならばTのような存在だが、実際はエンゲルスあってのマルクスといってもいいすぎではないのである。確かに小室哲哉がいなければ浜ちゃんは歌を歌えない。
 マルクスが「お金をちょうだい」とどのくらいいっていたかは定かではない。いや、わかっているのだが、おそらく実態は記録に残っているよりもことあるごとに「ちょうだい、ちょうだい」といっていたようなのである。というのも、手紙として残っている記録だけでも1851年から1869年までの19年で計2173ポンドを送金している。これは平均すると年115ポンド程度になる。このころの熟練労働者の平均年収が約72ポンドだったというからマルクスがいかにまとまった額を送ってもらっていたかがわかる。
 ちなみにエンゲルスは生前に手紙の多くを焼き捨てている(実際、1964年には送金が認められないが、前年は370ポンドも送っている)。明らかになっている額よりも実際にはかなりの額が送られていたのは間違いないだろう。

 ここまでで、多くの人はおそらく疑問を抱いたはずだ。

「エンゲルスって共産主義なのになんでそんなに金持っているの」。

 確かに共産主義者は清貧のイメージがある。だが、スターリンも毛沢東も今の中国共産党の幹部も全く清貧ではないではないか。共産主義者が貧乏なのはおとぎ話のようなものなのだ。
 日本もそうだ。日本共産党の志位和夫前委員長は公団分譲マンションに住んでいた庶民派として知られるが、「共産党のプリンス」と呼ばれ、委員長も務めた不破哲三氏は神奈川の別荘地の大豪邸に住んでいることが週刊誌でかつて報じられた。広さは約1000坪で、門から屋敷に辿り着くまで森の中を車で走る広さを誇る。元共産党職員は月刊『正論』(2016年11月号)で「日常生活のために党職員が常時5名、不破家に宿泊体制で配置され、運転手付き乗用車や洗濯・炊事まで不破夫妻の暮らしは党丸抱え」と答えている。
 話がそれたが、エンゲルスが金を持っていたのは彼が実業家だったからである。父親が出資する会社に20年近く勤めて最後は経営陣のひとりになっている。当然、生活には困らない。1850年代後半には年収は800ポンド前後あり、経営陣に加わってからは1000ポンド以上の収入を得ていたとの指摘もある。これは現在の貨幣価値に換算すると10万ポンド以上になる(日本円に換算すると1000万円台後半)。
「共産主義者が実業家ってちょっとおかしくない?」と突っ込みたくなるだろう。実際、長い間、エンゲルスの実業家としての側面はあまり語られてこなかった。それはそうだろう。いくら理屈をこねて正当化しようとしたところで、共産主義の創始者のひとりが父親の会社から高額な収入を得て、その収入はマルクスが『資本論』を世に送り出す支えとなっていたとなるとなんだか気まずくなる。

 このいびつな関係は両者で何かの取り決めをしたわけではない。マルクスの才能にほれ込んだエンゲルスが自ら経済援助を申し出たのである。給料日はもちろん、マルクスから「金がない。どうにかして」と手紙が来れば会社の現金箱から小銭や郵便為替をくすねてせっせと送った。現金のみならず「食べるものがない」と手紙がくれば食べ物を、「酒が飲みたい」といわれれば木箱入りのワインを贈った。マルクスの娘の誕生日には欠かさずプレゼントも贈った。もはやパパ活である。
 エンゲルスが最愛の愛人をなくして失意のどん底にあるときも、マルクスは無心する。「辛いのはわかるけれども悪いことは重なった方がいい、何を言いたいかというと俺は金がないから頼む」と手紙を送っている。さすがのエンゲルスもこのときは飽きれきって、しばらく無視する。さすがにこれはまずいと慌てたマルクスは謝罪することによって、100ポンドをせしめている。マルクスは『資本論』なんて書く前に何か学ばなければいけないと思うのは気のせいだろうか。

 共産主義の実現のためにマルクスが知的な営みをする代わりにエンゲルスが資金を拠出する、生活の面倒をみる。大義のためといえばそれはそれでありなのかもしれないが、マルクスの自由気ままさはお金の面にとどまらない。お金も使えば腰も使う。妻の留守中に家政婦に手を出して、妊娠させてしまう。狭い世界だけに明るみになれば「偉そうなこといっているのにおまえはなんだ」と糾弾されかねない。困ったマルクスはここでもエンゲルスに助けてもらう。「おまえ独身だから、お前が家政婦とワンナイトしてしまったことにしろ」と家政婦のお腹の子の父親になってもらう。この一件によってマルクスの娘たちからエンゲルスはだらしない人とみなされ、「エンゲルスおじさんはいい人なのに自分の子どもにだけは冷たい」と嘆かれる。エンゲルスはこの秘密をマルクスの生前は口外せず、自分が死ぬ間際になってようやくマルクスの娘のひとりに「俺の息子は実ははきみの父さんの子だよ」と伝える。エンゲルス、いい奴過ぎてちょっと怖い。

「マルクスよ、どこまでエンゲルスに頼るのよ」と突っ込みたくなるが、どこまでも頼るのがマルクスだ。実際、「本業」でもエンゲルスに頼っている。
 マルクスは頭が切れたが、勉強はできなかった。大学も学業不良で退学になっている。ちなみに素行も悪く、学生時代に酒を飲んで拳銃をぶっ放し、警察に捕まっている。この話はなぜか旧ソ連時代には「学生時代に革命運動にかかわって捕まった」ということに美化されたが、単なる酔っ払いの狼藉に過ぎない。

 コツコツ勉強するのは苦手なので語学も得意ではない。
 1851年に『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙からイギリスとヨーロッパの諸問題に関する記事の寄稿を依頼されたときには、英語力に問題があるマルクスはエンゲルスにこう手紙を書いている。

「もし君が、ドイツの状況に関する 記事を、金曜日の朝までに私のもとに届けてくれれば、これはすばらしい始まりとなるだろう」

 むっちゃ偉そうな文面だが、結局のところ、「俺の代わりに原稿を書いてよ」と丸投げしたのである。エンゲルスをゴーストライターとして使おうとしたのだ。

 それに対して、エンゲルスは「どんな内容にすべきかすぐに書いて連絡してくれ――それを毎回読み切りにしたいのか、連載ものにするのか、どんな立場をとるべきなのか」と返している。親族を人質にでもとられているかのような忠誠ぶりである。

 当時、エンゲルスがマンチェスター、マルクスはロンドンにいて二人は手紙で頻繁に意見を交わした。交わしたというよりも正確にはマルクスが「記事が長い」「もうちょっと彩りを加えろ」などと要求した。エンゲルスは朝の10時から夜8時まで働き、疲労で重い頭を働かせながらマルクスの要求に答えた。マルクス、資本家の搾取の問題よりも自分の搾取を問題にしろよという感じである。

 こうした寄稿は共作というよりもエンゲルスがいなければ成立しなかったのだが、マルクスは手柄を独り占めした。そして、マルクスの妻は無邪気にもエンゲルスに「あなたの記事で、うちの主人がアメリカの西部、東部、南部一帯で話題を呼んでいることは、お気に召したかしら?」と手紙を送っている。長年一緒に住んでいると夫婦が似てくるとよくいうが、あながち間違いではない。
 マルクスの代表作である『資本論』もエンゲルスあっての一作といえる。
『資本論』が理念だけの無味乾燥でない内容なのは現実の資本家の搾取ぶりに色付けがされているからである。いかに工場で資本家が搾取しているかの描写などはエンゲルスの視点がいかされている。マルクスにしてみれば実際の工場の状況など体験する術はないが、実業家のエンゼルスはまさに自分の日常こそが皮肉なことに資本家による搾取なのだ。
『資本論』の原稿をざっとみて内容や文体の修正箇所を提案したのもエンゲルスだし、発売後にプロモーションを担ったのもエンゲルスだ。注目されるために新聞などで書評を書き、読者の関心を煽った。マルクスにとってエンゲルスは巨大スポンサーでもあり、有能な編集者でもあった。
 マルクスもエンゲルスの有能さは認めていて、エンゲルスの提案は受け入れたが、陰ではエンゲルスを「チッティ氏」と呼んでいた。チッティとは小切手のことである。郵便屋が来るときはルンルンしていたという記録も残っている。だんだんマルクスのヤバさに突っ込む元気もなくなってきた。

 このいびつな関係はマルクスに才能があったからとしかいいようがない。エンゲルスはマルクスの才能に賭けたし、マルクスは自分の才能が賭けられていることを深く理解していたからこそ時に横暴な一面を見せたのである。
 後世の私たちが気を付けなければいけないのは、才能があればすべてが許されるというわけではないということだ。私たちは時に才能を過大評価し、奇人や奇行を美化しがちだが、才能があれば許されるのは度量のある人が周囲にいる場合に限られる。常識を逸脱した芸術家や実業家には人間力が高いパートナーが常に見え隠れすることからもそれはわかる。
 才能があっても許されずに消えていった人は無数にいる。だからこそ、どこかの自己啓発書が説くように、やみくもに嫌われる勇気を発揮し過ぎてしまってはいけないのである。それは凡人ならばなおさら留意すべきなのだろう。
 

今回の教え: 偉業の陰にパートナー。


[参考文献]
カール・マルクス『資本論1-3』向坂逸郎訳、岩波文庫、1969年
トリストラム・ ハント『エンゲルス——マルクスに将軍と呼ばれた男』東郷えりか訳、筑摩書房、2016年
田中章喜「資本家エンゲルス——フリードリヒ・エンゲルスとエルメン&エンゲルス 1850-1869年」『政経論叢』第80号、国士舘大学政経学会、1992年

 

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