サボる偉人 栗下直也

2025.2.28

14原稿をサボる——AIとレオナルド・ダ・ヴィンチ

 

 

 昨年の暮れの話だ。本コーナーの担当編集者と飲んだ。「来年の夏くらいまでに十数本、原稿を書いてください」と伝えられた。本連載は出版不況の中でもありがたいことに、書籍化を前提に始まった。それにもかかわらず、私の原稿の進みは芳しくなかった。1カ月に2本書いたかと思えば、3カ月も4カ月も全く書かない。のらりくらりの状態だったので、そろそろちゃんと書かないととは思っていたのだが、夏までに10本とは月1本以上のペースである。私のような気ままな人間が、計画的にそこまで書くなんて可能なのだろうか、身体に悪いのではないだろうかと自己弁護ばかり頭をよぎり、昭和平成の長寿番組「笑っていいとも」の観客も驚くくらい心なく「そうですね」と答えることしかできなかった。
 だが、考えれば考えるほどおかしいのではないかという気持ちが膨らんでいった。そもそも、この連載のタイトルは「サボる偉人」である。月1とはいえ締め切りを律儀に守り続けるのは「サボる」すばらしさについて書くことと矛盾するのではないだろうか、と当初から思っていたのだが月1どころかペースアップしろというのだ。とはいえ、このままでは形にならないどころか、連載も中断しかねない。そこで、暮れから2カ月は頑張ってみたものの、早々と限界に達し、「AIでも使ってみようかな」と思ったのだ。
「いくら、原稿を書きたくないからってAIに書かせるんですか!!」と、原稿をここまで読み進めた編集者の舌打ちがモニター越しに聞こえてきそうだが、テクノロジーの進化に抵抗するなんて無謀である。テクノロジーを取り込むことで、幼児の死亡率は低下し、健康で文化的な生活を私たちは享受できているのではないか。「AIを否定すると、反ワクって呼んじゃうぞ」と文句をいいたくなったがここは我慢しよう。書いちゃったけど。
 考えてみれば、人類の進化は「サボる」ことの飽くなき追及が支えたといっても過言ではない。「『人類』って大きく出ましたね。原稿、書きたくないだけでしょ」という編者の叫びがこれまた聞こえてきそうだが、今の時代に、大量のデータを「手計算しろ」といわれたら、みんな発狂するはずだ。文書も手書きで手紙を書くよりも、メールが一般的だし、筆やペンを使わずにパソコンやスマホを使う。今どき、毛筆や万年筆で手紙を書くのは武田双雲か見城徹くらいではないだろうか。こうした状況を踏まえれば、令和の今、文章を書くのにAIを使って何が悪いのだという話だ。使えるものを使って何が悪い。坂口安吾にヒロポン、栗下直也にAIである。
 というわけで、「AIを使って素晴らしきサボりを実践しよう」と、「サボる偉人」のリンクをいくつか張り付けて、AIに記事を書かせようにもリンクは読みこめないらしいので、全てのテキストデータを読み込ませて、次回作を書けと指示したら、何人か候補者を出してきた。「候補者なんていらないから、さっさと書け」と叱責したかったが、リストを眺めていたらレオナルド・ダ・ヴィンチの名前があり、自分では絶対に書こうとは思わない偉人だし、何だか知的な香りがするし、よし、ダ・ヴィンチで書いてもらおうとなったのだ。
 ところがどっこい、だ。書かせてみたところで、ダ・ヴィンチがどうサボっているかの具体例がほとんどない。この連載は3000字くらい必要なのに、いくら指示したところで800字くらいにしかならない。それも特に論拠もなく、なぜか文末は「サボることで生産性が高まる」と自称コンサルみたいに謎にまとめてくる。
 そこでダ・ヴィンチに関する本を何冊か取り寄せ、「サボる」に関係しそうな記述をいくつかテキストベースにして、新聞や雑誌記事を検索できる「日経テレコン」でもダ・ヴィンチの怠惰に触れていそうな記事を2、3買い求め、こちらもテキストにして、それらをAIに読み込ませたうえで、何度かやり取りして出来上がったのが下記の文章である。

 

「完璧を求めすぎた天才 ―レオナルド・ダ・ヴィンチに学ぶ創造性のジレンマ」

締切を守らない天才がいた。約束の期限までに作品を完成させず、クライアントを怒らせ、そのあげく「新しい表現技法を試してみたかったんです」と言い訳する始末。今なら即刻原稿を突き返されかねない職業倫理の持ち主―それが、あのレオナルド・ダ・ヴィンチである。

「モナ・リザ」や「最後の晩餐」など、後世に名を残す傑作を生み出した一方で、彼の作品の多くは未完成のまま放置された。現存する油彩画はわずか十数点。同時代のミケランジェロが次々と作品を量産していたことを考えると、その寡作ぶりには目を見張るものがある。

彼の「未完」癖を最も象徴するのが「アンギアーリの戦い」だろう。1503年、フィレンツェ政府から依頼を受けたこの壁画で、従来のフレスコ画という確実な技法を避け、油彩とフレスコを組み合わせるという危険な実験に挑戦。結果は惨憺たるもので、絵の具は壁からだらだらと流れ落ち、プロジェクトは完全な失敗に終わった。

「東方三博士の礼拝」も同様だ。1481年に意気揚々と制作を開始したものの、途中で放置。「モナ・リザ」ですら16年もの間、改良を重ね続けた。当時のクライアントの懐具合を考えると、かなりの神経を逆なでしたに違いない。

しかし、彼の一見無責任な行動の裏には、ある種の天才性が隠されていた。絵画を描きながら「この光の反射面白いな」と解析に没頭し、人物を描くつもりが「人体の構造をもっと知りたい」と解剖学の研究に走る。制御不能な好奇心の持ち主だったのだ。

「最後の晩餐」では、従来のフレスコ画に満足できず、油彩とテンペラを組み合わせるという暴挙に出る。結果として作品は早期劣化を始めたが、これは完璧主義が招いた結果といえる。

そして何より彼を締切から遠ざけたのは、とどまることを知らない多趣味ぶりだった。絵画、解剖学、工学、建築、と興味の赴くままに研究分野を広げていく。「万能の天才」と呼ばれる所以である。

面白いことに、この困った天才は、実は徹底した顧客志向の持ち主でもあった。依頼主との密なコミュニケーション、要望の深い理解まで実践していた。ただし、理解が深まるほどに「もっと良い表現ができるはず」と考え始め、結果的に納期を踏み倒してしまう。

このような困った天才の働き方は、実は現代のクリエイターの姿を映す鏡でもある。新しい表現技法への執着、完璧を求めすぎる性質、複数の企画への没頭―これらは現代のクリエイターにも共通する特徴だ。

しかし、このような特徴を持つダ・ヴィンチが歴史に名を残せたのは、彼の「未完」には独特の価値があったからだ。残された4000枚以上の手稿や素描には、革新的なアイデアや深い洞察が詰まっている。完成品は少なくとも、その制作過程で生まれた知見は、後世に大きな影響を与えた。

また、彼の完璧主義は、たとえ未完に終わろうとも、その途中経過に価値をもたらした。「モナ・リザ」の謎めいた微笑みは、16年もの試行錯誤があったからこそ生まれたものかもしれない。

ダ・ヴィンチの創造プロセスには、現代のクリエイターへの重要なメッセージが含まれている。完璧を求めすぎず、かといって妥協もせず、その過程で得られる学びを大切にする―。この微妙なバランス感覚こそが、創造性の本質なのかもしれない。

締切を守らない困った天才は、500年以上の時を経て、私たちにこう語りかけているようだ。
「完璧な作品を作ろうとするな。代わりに、完璧を目指す過程を大切にせよ」と。

まあ、それでも原稿の締切は守った方がいいだろう。

 

 おお、AI、すげー、内容はともかく、「むっちゃサボれた、へへへ」と思ったのだが、出力された文章をいくつか修正したところで気づいてしまったのだ。文献を取り寄せ、テキストにして読み込ませ、方向性を指示して、何度かやり取りして、それを修正する。「これ、最初から自分で書いた方が早くないか…」。不都合すぎる真実である。
 とはいえ、乗り掛かった舟というか、生来のサボり癖というか、損切りできない人間の心理というか、いまさらゼロベースで書く気力もなく、今に至るのである。

 AIは文章を要約させたり、会議の議事録をつくらせたりするには非常に有効だ。文章を書くのも、新聞記事のようにフォーマットが決まっている文章は得意だ。ただ、AIに限らないが、何事も用途次第である。特にネット上に事例が少ない記事、つまり、すぐに役に立たないと世の中で思われている記事を書かせるにはちょっと今のところ向いていないだろう。事例が少ないということは、悲しいかな、需要が少ないということであり、これからもAIにはあまり向かないかもしれない。書き手としては、喜んでいいんだか、悲しんだ方がいいんだか。

 長々と書いてきたが、結局のところ、私の場合、本連載を書くにあたり、無駄な仕事を増やさないためには、急がば回れなのだろう。皮肉なことに真面目に取り組むことがサボりへの近道なのかもしれない。

 

今回の教え:サボるのだって甘くない!


バナーデザイン:藤田 泰実(SABOTENS)