きものが好きな人なら、とっておきのきもの、というのがあるのではないだろうか。いや、きものがたいして好きではなくても、ちょっと年齢が上の方なら、きものは結婚するときに親が用意してくれた、という人も少なくないので、そういう人も、とっておきのきもの、をお持ちだと思う。
とっておきのきもの、とは、もちろん、普段着として着ないで、ここぞ、というときに着るものだ。きものは用途が決まっているのである意味、たいへんわかりやすい。礼装、準礼装、おめでたい時に着るもの、お悔やみの時に着るもの、全て決まっている。決まっているので大変だ、という向きもあろうかと思うが、決まっている、というのはある意味、たいして考えずに決まったときに決まったものを着れば良いので年齢がいくほどラクに感じる。こういう時にはこういうもの、と、きまっているので悩まなくて良い。
たとえば、既婚女性の第一礼装は黒留袖、未婚女性の第一礼装は振袖、ときまっている。いまどき結婚しない方も多いのだが、結婚しないから、と、生涯振袖を着ていいかと言われると、よほどの力と勇気がないと、ちょっと難しい気がする。作家の宇野千代さんは、何度も結婚されているが、90代でも振袖を着ておられた。あれほどの愛嬌と実力と自信がないと、やっぱり振袖は生涯着られないような気がするから、おおよその人にとって、振袖は若い頃のもので、成人女性の第一礼装は黒留袖、ということになるのだと思う。
成人女性の黒留袖といっても、いまや、黒留袖を着る機会は子どもの結婚式くらいしかない。実際、多くの方は黒留袖を「結婚式の母親や祖母、親戚筋の女性が着るきもの」と認識しておられると思い、それでまちがいではない。私もそう思っていた。第一礼装、といえば、結婚式くらいしか思い浮かばなかった。しかし、第一礼装だから、自分が主人公で大変おめでたい席には、着てもよいものなのだ。
教師なので、還暦を迎えた時に卒業生たちからお祝いをしてもらうことになった。卒業生の中にはとてもまめな人がいて、卒業したゼミ生全員のメーリングリストを作って管理してくれている。そのメーリングリストを使って、還暦祝いを呼びかけてくださった。週末に100人近い卒業生があつまって、お祝いをしてくださることになった。ありがたいことだ。さて、日常的にきものを着ているので、こういうときにも、もちろんきものを着るのであるが、さて、何を着るべきか。
卒業生の中には、染色家で人間国宝の志村ふくみさんに弟子入りしてきものを織っている人もいて、彼女がわたしのために糸から桜や梅や冬青で染めてくれた淡いピンクの紬の着物があるので、当初はそれを着ようかな、と思っていた。いつもこまったときには相談するきものメンターの友人に相談したところ、「還暦祝い? 卒業生が100人? それは、黒留袖でしょう」、と、いう。結婚式の黒留袖は、白い帯揚げに白い帯締め、あるいは金銀の帯締めなどをつけるのだが、友人曰く「自分がお祝いされるのだから、黒留袖に、帯は派手で華やかなものにして、帯締めや帯揚げは礼装のものでなくて良いので、派手に“遊んで”みたらいい」という。つまり結婚式に装うような黒留袖の装い方から少し崩して、自分がお祝いしてもらうのだから、大いに楽しくて派手な格好をすれば良い、というのである。
なるほど。いわればその通りである。第一礼装とは人をお祝いして礼を尽くす時に使うという意味だと思っていたが、盛大にお祝いしてくれる人がいて、自分が主人公なら、それはお祝いしてくれる人に最大の敬意を表するために、こういう時にこそ使っていいものでもあるのだ。知り合いにいただいた、彼女のお母さんものだったという、若干、裄が短いが、菊などの模様が大変華やかな、ひと昔前の黒留袖をきて、一面に金の千羽鶴の模様がある帯を締め、還暦なので、赤い帯揚げをして、赤い帯締め、という、ものすごく派手な装いをした。こんな格好、まあ、ほかの場所ではできないが、卒業生たちが大勢で祝ってくれるのには、ふさわしいもの、となった。祝ってくれた卒業生たちと、アドバイスをくれた友人には感謝するばかりである。
さて、「とっておきのきもの」の話をしていたのだ。黒留袖はさておき、きもの好きな方、きものをもっておられる方にとって、とっておきのきもの、というのは多くの場合、訪問着ではないか。美しい絵羽づけの模様の訪問着は、まさに一枚の絵であり、芸術品である。すべて絹でできていて、手が込んだ模様が描かれており、博物館にも展示できるような、こんな贅沢な衣装は、世界にも例があるまい。そういうとっておきの訪問着、であるが、とっておき、であるがゆえに、ほんとうにとっておいてあって、着ても今までの人生で、数回、あるいは、誂えたものの、着る機会がなくて、一度も着ていない、袖すら通していない、という方も少なくないのではあるまいか。
リサイクル店やメルカリなどで中古の訪問着が出回っているのだが、おそらく持ち主はほとんど使わないまま、この世を去ってしまったり、手放してしまったりしたのであろう。きっと、とっておきのきもの、だったはずなのに、持ち主は、そのきものを存分に楽しむことがなかったのではないか。中古市場でおそらくは10分の1、20分の1以下の値段で出回っている訪問着をみると、なんだか、悲しくなってしまったりするのである。
とっておきのきもの、は、とっておかないで、着たらどうだろうか、としみじみ思うようになったは、とっておいている間に、人生終わるな、というのが、なんとなく実感として感じられるようになったからでもあり、2020年に猛威を振るい、この文章を書いている時にもまだおさまっていない新型コロナパンデミックにより、オンライン仕事が増えたからだ。大学教員で、ずっときものを着て仕事をしていたが、大学に通っているときは、さすがに訪問着とか、そういうとっておきのきものを着て大学にいくことはなかった。卒業式とか入学式には訪問着を着ても良いかと思うが、質実剛健な女子大として知られている私の職場では、華やかな訪問着より、一つ紋の色無地くらいが相応しいような気がして、訪問着なんか着ることはなかったのである。
ところがオンライン授業になり、家できものを着て講義をするようになると、家から出ない。家から出ない、ということはきものが汚れることがない。汚れることがないから、とっておきのきものをきても汚れない。それに、オンライン授業だから、全身映ることはなく、上半身しか学生さんには見えない。それならば、上半身が華やかに見えるほうが良い。上半身に華やかな柄行きがあり、さらに、汚れる心配をしなくてもよいのなら、ここはとっておきの訪問着を着て、仕事をしよう、と、最近は、訪問着を着て、オンライン講義をしているのである。とっておきのきもので、美しいバーチャル背景を選んで講義していると、けっこう気分がいい。
革命後、女性に人民服を着させた毛沢東とは対照的に、ベトナム革命を指導したホーチミンは、「アオザイをタンスに入れていないで、着なさい」といった、と言われている。世界で最もセンシュアルでエレガントな衣装、アオザイは女性をとても美しく見せる。とっておきの衣装をとっておかないで着なさい、といったホーチミンは、すてきだな、と思いながら、派手な訪問着着て、授業をしている。まことに、自己満足の極みとしかいいようがないのであるが、60過ぎたらどんなとっておきも、とっておかないで着ることがきものへの敬意でもあり、作ってくれた人へのお礼でも、ある。わたしが何着ていても、学生は大して気にしていないであろうところが、また、よい。そのようにしてすぎていった、2020年、オンライン授業の一年であった。
次回、2021年1月17日(日)更新予定