きものにさほどの縁もなく、たくさんもっていたわけでもなく、きものに関連のあるおけいこごとをしていたわけでもなく、それでもきものを着るようになったのは、そこにきものへの憧れがあったからだ、憧れに牽引されてきものを日常的に着るようになったのだと、この連載の初回にも、書いた。きものを着たい、という憧れに。
この「きものを着たい」という憧れの根幹に、沖縄がある。沖縄なるもの、沖縄的なもの、沖縄の原型に近いもの、なんと言えばいいのだろう。沖縄への憧れと、きものへの憧れは、かさなっている。そもそも、憧れの第一歩は、きものそのものではなく、髪型であった。沖縄の伝統的な髪のまとめ方である、「カンプー」であった。このことについても以前、きものの本を書いた時に言及したことがあるのだが、あらためて書いてみる。きものを着たい、いつか、着たい、と思うようになる前に、この髪型で髪を結いたい、ということが、すでに、始まっていたからである。この髪型を結いたい。この髪型を結って、生きていきたい。いまは、琉球舞踊の舞台などでしかみることができなくなっている髪型だが、長い髪をくるくるとピンなしにまとめてまんなかに、かんざしをさしてとめる。舞踊や沖縄芝居の舞台ではカンプーは頭の上に結われているが、日常生活ではもっと低い位置に結われることも多かった。
1960年に最初に刊行された岡本太郎の『沖縄文化論――忘れられた日本』[1] は鮮烈な本である。いまあらためて読み返しても、いささかも古いと感じさせられるところがない。短い滞在で沖縄の本質をつかみとり、見事な筆致で描かれた、当時米軍統治下にあった沖縄。その後、時代は移り、沖縄は日本に復帰し、日本は大きく変わっていった。沖縄もまた。日本の文化の根幹が沖縄にこそあるのであり、沖縄が本土並みになるのではなく、文化においては、本土こそが沖縄並みになるべきだ、と語る岡本太郎の筆致は、今こそまた、読まれ、解釈されることを待っていると思う。
岡本太郎自身が撮影した多くのモノクロの写真が本の冒頭にあげられている。そのひとつが、カンプーに結った、若くはない、とうに中年は過ぎてどちらかといえば老年に近いかと思われる女性の、後ろ姿である。「琉球鬢の漆黒の髪につきささった白銀色のジーファー(かんざし)は、あざやかな沖縄の印象である……」と書かれている。その写真を見たのはもう40年以上も前のことだった。本当に美しいもの、とは、こういうものなのだ、と思った。後頭部のまんなかあたりに、たっぷりとした鬢が結われ、銀のジーファーできりっととめてある。後ろ姿だけであり、顔は見えず、いかにも仕事着らしいおそらくは木綿の藍染の襟がみえている普段着姿なのだが、匂い立つような気品に満ちていた。その一枚の写真にとらえられ、この髪型の結い方をまなび、のちに、きものもきるようになった、といえる。わたしの髪は、漆黒どころか、茶色に近いような色で、髪質も、猫っ毛と言われるようなとても細いもので、長く伸ばしても、『沖縄文化論』のようなたっぷりとしたカンプーは結うことができない。沖縄の方から見たら、ほんとうに、おかしいくらいの小さな貧弱なおだんごしかできないのであるが、それでもピンなしに髪を結い上げ、その真ん中にジーファーをさす喜びは、憧れに牽引されていたものだから、いつも薄れることがない。銀のジーファーは今ほとんど手に入らなくなっているのだが、わたしのジーファー好きを知る沖縄に住む友人が、那覇でみかけるたびに銀や黒木のものを手に入れてくれていたので、いまも手元に何本かもっている。
『沖縄文化論』の一枚の写真にあこがれて始めたことだから、着たいきもの、といえば、いつも、琉球柄、とよばれるようなきものであった。トゥイグヮー(鳥)、ミジグヮー(水)などとよばれる、いかにも琉球らしい柄のはいった黒っぽいきもの、藍のきもの、茶色のきもの。琉球絣、久米島紬などのきものはもちろん、琉球柄のきものは新潟などでも織られているし木綿の琉球柄のものもある。髪型からきものまで、沖縄的なるもの、に惹かれ続けている。
「あら、おきもの、いいですね。私も本当は着たいんですよ。和服、いいですねえ……。いつか着られるようになるといいと思うんですけどね……」。きものを着ていると、そんなふうに声をかけられることが多い。多いとはいえ、もちろん、そんなにいつでも声をかけられるというわけではない。しかし、あるとき、わかった。そのように声をかけられるきもの、というのがある。ああ、あのきもの、いいなあ、着てみたいなあ、きものってよさそうだなあ、そういうふうに、多くの人に思わせるらしいきもの。それは、圧倒的に「琉球柄」のきもの、でもあるのだ。わたしが沖縄的なものに惹かれ続けている、と書いたが、沖縄的なものは、まさに、わたしたちの心の根幹にある、意識の古層にはたらきかける何か、があるのではないのか。
2003年ごろにきものを普段着として仕事に来始めて、一番活躍してくれたのは、宮崎の木綿の普段着を多くあつかっておられる「染織りこだま」さんがオリジナルで開発された、「一乗木綿」である。たふんわりした厚手の木綿で、初心者にも手の届く範囲の値段で、木綿の単衣仕立てで冬でも着られるほどあたたかい。簡単に家で洗濯もできる。この一乗木綿に琉球柄のものがいくつかあった。色違いの糸が互い違いにおられているそうで、表地が黒、裏地が茶色で、リバーシブルである。黒を表に仕立てたものと茶色を表に仕立てたものと、両方つくっても、いる。きものの初心者であった頃も、20年近く着てきた今も、最も活躍してくれているきものであり、さらに、「あら、おきもの、いいですね」の声を、いちばんかけられる柄でもある。
一乗木綿の風合いに、心奪われているものの、沖縄的なものに憧れ、きものを20年近く着ていると、さらに欲も出てきて、つい、本物の琉球絣や久米島紬に手を出すようになってしまうので、きもの道は果てしなく、底が深く、そして、やっぱりお金もかかるようになるので、恐ろしくも美しい、と言おうか。沖縄的なものに憧れるなら、もちろん、沖縄の方が地元で丹精込めて織り上げた、唯一無二の一枚を欲しくなってしまうのである。この連載のプロフィール写真で着ているのは、久米島紬である。「米倉美津」さんという織り手の名前の入った、ハリとやわらかさが共存し、着ているだけで元気になるような美しいきものである。プロフィール写真は、首里城で写したものだ。2019年10月に消失してしまった首里城、友人たちへのお見舞いの気持ちを携えて、なんとかその年のうちにたどりつきたくて、2019年12月に訪れた時に、首里城の東のアザナあたりで撮った。その日は偶然、首里城公園に、ある程度入ることができる許可のおりた最初の日でもあったのだ。久米島紬に、石垣でおられたミンサーの帯を締めて、黒木のジーファーをさして、沖縄への憧れと思いは、尽きることがない。
[1] タイトルを変え、何度か出版し直されている。現在入手しやすいのは下記の中公文庫版。岡本太郎『沖縄文化論――忘れられた日本』中公文庫、1996年
次回、2021年4月20日(火)更新予定