きものを着始めた時に考えていたことと、きものを20年近く着続けて考えることには、もちろん違いもあり、同じこともある。何が一番違うかなあ、と考えてみると最も違うのは、「気合い」というか、きものへの無駄に熱い恋心、というか、そういう激しい思いであろう。2003年、45歳になったころに、きものを着ることに決めた。そこまでのいきさつはいろいろあるわけだが、ある日突然、そういういきさつとか、考えていたこととか、思っていたことなどが、形として顕現し、とにかく毎日着るのだ、と決めて、毎日着ていたのである。なにがあろうが、わたしはきもので生きて行く。毎日、着る。かならず、着る。誰が何と言おうが、着る。きものを着るぞという強い感情が胸の中から立ち上がってきて、おしとどめようもない。自分の力ではない、どこかからやってきた大きな力に押し流されるようにして、きものを着るしかない、と信じ切ることができて、きものを毎日着ることにしたのだ。理由をあちこちに書いているが、そういうものが後付けに思えるほどに、ある日突然、気が熟したというか、思いがあふれた、というか、着ることにしたのである。着付けなど一度習っただけだが、もう、絶対着ることにして、毎朝1時間半くらいかけて着ていた。当初は下着も一枚しかないけど毎晩洗って次の朝、乾いたら、着ていた。
現代日本で、きものしか着ない、というのはすごく目立つし、目立つことを覚悟しなければならないし、変わった目で見る人には、説明しなければならないし、そんな周囲の変わった目、どころか、家族も「なんできもの着るの」と言うし、思えばいろいろ大変だったし、周囲にもご迷惑をおかけした。子どもたちはまだ小学生とか中学生だったから、参観日とか個人面談とかに母親がきものを着てくる、とか、ほんと、いやだったんじゃないかと思うけど、本人たちに聞いたら、「まあ、いいよ」と言ったり、そもそも参観日自体に「くるな」と言われたりしていたから、なんとか、許容範囲に入れてもらっていたか、と、本人は思っているのであるが、やっぱりいやだっただろうな、ごめんね。
参観日といえば、自分が子どもだった頃のことを思い出す。1958年生まれのわたしが中学校を卒業した時の、つまりは、1974年3月の兵庫県西宮市の公立中学校の卒業写真が手元にある。1970年に大阪万博があって、すでに日本はおしとどめようもない高度成長の波の中にあって、伝統的なものは、バキバキと音を立ててなくなっていって近代化されていたから、生活の感覚自体は今とそんなに変わっていないようなところまですでに到達していた気がするのだが、この70年代半ばの中学生の母親たちは、ほぼ全員、子どもの卒業式には、和服で黒い羽織を着て写真におさまっているのである。通っていた中学校は、阪神間の山の手高級住宅街とは何の縁もない、海辺にほど近い下町にあり、どう考えても西宮市内の中学校の中で、最も環境も悪く、生活レベルからすれば困難な地区にあったのだが、そういう地区であっても(つまりは、絵に描いたような奥様など、ひとりもいないような地区でも)その時代の母たちは子どもの卒業式のみならず、参観日とかにも、まだ、和服で出かけていたものだった。調べてみると昭和30年代から50年代にかけては、無地や小紋のきものに、一つ紋の絵羽模様の丈の短い黒い羽織を着るのが流行っていたようだ。リアルタイムで卒業式に出ていたと思われる昭和一桁生まれの叔母にきいてみたら「ほんとに、みんな黒い羽織だった。わたしはみんなと同じことやりたくなくて、色物の一つ紋の絵羽模様の羽織を着ていたから、ものすごく目立っていた」とのことだった。この叔母は、文学少女で女学校時代に太宰治情死、の新聞記事を見て、情死って何だろうと思ったけど親には聞いちゃいけないことじゃないかと思ったから必死で辞書で調べた、というような人で、戦後「大人は全部噓をついていた」と思い、人と同じことをしたくないと思うようになったレジスタンス精神旺盛な人なので、黒い羽織にも抵抗していたわけだが、それは、まことに、稀なことであったようだ。
みんなが着ていた、あの黒い絵羽模様の羽織はどこにいったのだろう。もう、着ている人など、それこそみることもないのだが、80代以上の女性たちのタンスに今も眠っているのだろうか。思い始めると気になって、メルカリで検索してみたら、2021年現在、山ほどの絵羽模様の黒い羽織が2000円から4000円くらいで売られている。おばあちゃんたちが子どもの卒業式などで着て、その後、タンスにはいっていたものにちがいない。いくら2000円でも黒の羽織をリフォーム目的以外で、買って着る人がいるとも、あまり思えない。黒じゃなくても、以前の連載に書いたように、羽織自体がいまどきおおげさになるから、いくらきものに興味があっても着る人はあるまい、と思うが、「鬼滅の刃」人気に牽引されて、今後、市松模様とかうろこ柄とか片身替わりの羽織が流行らないともかぎらないし、前回の連載で引用した篠田桃紅さんが、羽織は、帯に邪魔されないまっすぐな後ろ姿の一本の線が美しい、と書いておられたから、そういう美しさが見直されることもあるかもしれない。そうだといいが、いまのところ、羽織の運命には、楽観的になれない。
ともあれ、わたしの母たちの世代は、戦争を経て戦後に青春時代を送った人たちであり、この世代にとって、もはや、きものは日常着ではないが、「いざという時」の身近な衣装であり、その「いざという時」も現代のように、成人式と結婚式だけ、くらいという頻度ではなく、子どもの入学式、卒業式に、授業参観、あるいは夫の実家訪問時、などけっこうな頻度だったのであって、もちろん、着付けを人にしてもらうわけではなく、自分で着ていた。ほんの一世代うつりかわっただけで、わたしの代になると「気合い」なしには、毎日きもの、という生活には、入っていけなくなっていくわけだから、衣装という風俗は、はかない。
ともあれきものを着はじめた2003年ごろ、とにかく熱に浮かされたようにきものを着ることを考え、毎日着て、どんな場所にでもきもので行った。体操をしたり、お肌の手入れをしたり、きものを脱ぎ着しなければならないシチュエーションでも、きものを着て、脱いで、着替えていたのである。全く周りは迷惑であったと思う。きもので生きていくときめたから、と洋服もかなり処分したし、新しい洋服は下着に至るまで約2年間くらいは何も買わなかった。海外出張にもきものだけしか持って行かなかったし、飛行機でもきものですごしていた。快適だったけど、まわりからみたら、ただの変人だったか。最初は熱をもっていたのだが、だんだん、この熱と気合いが、ただのこだわりになっていって、意地できものを着ているんじゃないか、と思うようになってきたのは、きものを着はじめて4年後くらいだっただろうか。『きものとからだ』という本をだした頃には、狂おしいきもの熱もある程度収まっていて、常識的な範囲で洋服も着るようになり、いまに至る。でもこれって、きものにかぎらず、なんでもそうなんじゃないのか。自分の力でコントロールできないような大きな力に押し流されるから、見ず知らずの人だった人と恋愛だってできるし、結婚だってできるのである。20年近く着続けた今、着始めた当初とくらべて、きものに持つパッションは、慈愛のような穏やかな愛情にかわりつつあり、まあ、それがいちばん、変わったことかな、と思うのである。
次回、2021年7月21日(水)更新予定