「きものと仕事」というタイトルだから、きものは、仕事で着られるくらい機能的で、しかも、楽で、なかなかいい衣装ですよ、ということを書いていく、ということで、始めた連載である。そう言っているうちに、新型コロナパンデミックが始まり、2021年初秋の段階で、まだまだおさまりそうにない。
2020年3月の段階で、これは長丁場になる、と周囲の公衆衛生研究者仲間は言っていて、そうだろうな、と思っていた。実効再生産数と言われる一人が何人にうつすかを示す指標を抑えていくことのむずかしさ、致死割合の高さ、などから予断を許さないウィルスであることは、すでに武漢などの初期のデータからうかがわれていたし、ワクチンができるまでの時間の長さ、ウィルスの変異等を考えると、パンデミックは数年では終わらないだろう、と当初から言われていたのだった。人類にとって初めての種類のワクチンは、思ったより早くできて、思ったより効果があるようで、直近の副作用(副反応と言われるが副作用のことである)は、接種中止をしなければならないほどには、深刻なものではない、という判断ができる。なので、接種することのメリットが副作用をはるかに上回る。結果として、ワクチンをめぐるスケジュールは、予想を超えた早回しで推移した。しかしウィルスの変異と、エアロゾル感染であることがほぼ確実になってきて、状況はまだまだ予断を許さないものであり続け、少なくとも、パンデミックは数年では終わらない、の予想自体は、全く更新できていない。
そういう状況の中、オンラインワークは、進むところでは進んで、オンラインワークなら、服装は何を着ていてもそんなに目立たないというか、違和感がないので、きものを着始める良い機会になるのではないか、ということは、すでに書いた。家で着るのなら、楽に自由に着てもいいんだし……。
と、書きながら、ふと考える。
なぜ、もっと楽でなければならないのか。なぜ、もっと自由でなければならないのか。きものが、仕事をするときに着られるくらい、楽です、と、ついそうなるわけだが、なぜ、そうでなければならないのか。自由ということが、すべての制限を取り払うこと、というその発想自体が、きものとはそぐわないのではないか。なんでももっと楽にする、なんでももっと簡単にする、なんでももっと便利にする。このご時世にきものを着よう、ということ自体、そういう「なんでももっと楽に」という発想とはちがうところにも、文字通りの楽しみがある、ということを求めているのではなかったのだろうか。
そもそも自由とは、「なんでも制限は取り除いて各自が勝手にできること」ということとは限らない。自由というのは、人間の社会におけるあり方と、深く結びついた概念なのだと渡辺京二は書いている[1]。自由というのは、近代社会が生み出したもののように言われており、近代以前は、人間に自由はなかった、抑圧されていた、というふうに思われているが、そうでもないのだ。前近代のヨーロッパ中世は、個人が直接国家と向き合っている現代のようなありようではなく、村落共同体とか都市共同体とか教会とか、そういった中間団体によって構成されていた。個人はそのような中間団体の一員であることで、権利が保障されていて、自由とは、その団体に属してその特権を享有している、ということだったのだ、というのだ。渡辺はホイジンガを引いて、17世紀のオランダでは、自由とは“おのれの属する団体が享受する特権のこと”といっている。こういう中間団体から追放されてしまうと、ひとりぼっちのはぐれものとなり、保護を失って、恐るべき状態に陥って、狩り立てられても、殺されても文句は言えないような状況になるのだという。つまりは、この時代の自由、とは、ある団体に属しているから他の団体に属しているものが持たないものを持つことができたりする、ということを指していた、というのである。つまり、前近代に自由がないわけではなく、異なった意味合いの自由があった、ということだ。
中間団体があり、その範囲でまもられる、というのはヨーロッパ中世だけでなく、日本の江戸時代も似たようなものだったようで、当時の人々の自由もほぼそのように説明される。現代からすれば、こういった何かの団体に属することによってまもられる前近代的自由は、とても窮屈なものに見えるかもしれないが、その時代にはそれなりの「はけ口」が用意されていて、ヨーロッパ中世では巡礼、旅芸人、乞食など膨大な人々が遍歴し放浪していたし、徳川時代も似たようなもので、遍歴する旅商人、旅芸人もおり、一般の人々も、例えばお伊勢参りのような形で、一時的に社会から遊行することも可能であった。現代の自由とは異なるものの、また性格の異なる独特な自由が備わっていたのではないか、というのである。
ちょっと難しい話になってしまったけれども、きもの、は、まさにそういうものなのではあるまいか。とにかく、楽に、好きなように、勝手に、からだを締め付けないように、動きやすいように、ということではなく、ある、決まった形の中で、その形にまもられている状態を楽しむもの、とは言えないか。きものにまつわるあれこれの決まりや、このようにした方が良い、というやり方を一度自らのものにしてみて、なんでも自分が決めなければならない、という状況から、自分を離してみることを楽しむ。その決まりの中で、まもられていることに憩う。そういうものではないだろうか。すでに連載でとりあげてきたけれども、きものはどういう時に、どういう立場で行くかによって、着ていくものが大体決まっている。それを窮屈ととらないで、決まっていることの気楽さ、迷わないですむことの安心、その決まりのうちにいれば、あぶなげない、失礼にもならない、というような感覚を楽しむものではないだろうか。
きものを楽に着よう、楽に手入れしようとして、さまざまな試みがなされてきた。二部式着物、つけ帯、洗えるきもの……「楽に着よう」という試みは、結局あまり定着していないのではないように思う(つけ帯などは体が不自由な場合には、とても役に立つとは思うのだが)。長着を肩からすっとまとい、体に巻き付けていき、腰紐で良い場所をきりりと締めて自らの丈に合わせる。襟を整え、おはしょりを整え、余分な空気を抜きながら、胸紐(私はこれは後で抜くので仮紐なのだが)をかけていく、という、一枚のきものを身に合わせていくこと、それが体に伝わり、さわっている指に伝わっていく喜び。一本の帯を少しずつ体に巻いていき、一回ごとにきゅっと締めて、文字通りの帯の締め心地を確認しながら、体幹がまもられていく独特な感覚の味わい。
きものを着るのは、着終わった後の美しさがを楽しみたいからだけではない、一枚ずつ布をまとう喜びを感じられるところにもあり、一見めんどうな手順も、布と、空気と、みずからのからだを確認していくていねいなプロセスである、ともいえる。そもそも、もっともっと、自由に、楽に、便利に、そのように生きようとすることに疑問がなければ、きものへの興味を持つこともないわけである。制限の中の美しさ、制限の中の可能性を追求するもの、そのようなきものを仕事でも着てみよう、ということも趣深いように思われるのだ。
[1] 渡辺京二「近代の呪い」平凡社新書、2013年.
次回、2021年10月20日(水)更新予定