その日、なにを着るか、というのは、これはもう、洋服でも、きものでも、同じ楽しみだと思うが、きものの場合は、とりわけ、季節とその日の空気と気温とで、きものを選んでゆく。だから、楽しみもひときわである。仕事の上でのきものなら、正式な場ではないから、いわゆる、十月から五月は袷(あわせ)、六月と九月は単衣(ひとえ)、七月と八月は夏物、という暦通りの更衣にそれほどこだわる必要もない。つまり、その日の気分で着てもよい。とはいえきものだから、柄にも、布にも季節感があるから、何を着てもいいわけではない。その日の気分と空気の感じと、自分の持っているきものがぴったりあった時の喜びというのは、誰かと分かち合う喜び、というのとはちがうけれど、ひとりでしみじみと生きていることがうれしくなる、という類のなんともいえない喜びで、そういう瞬間を経験したくて、ついきものがやめられなくなるのである。
以前の連載に、「紗袷」、というきものことを書いた。一年に少しだけしか着られない贅沢なきものであるが、大好きである、控えめなところが仕事向きだと思っている、というふうに。紗袷とは、夏ものの生地、つまりは、絽と紗、あるいは、紗を、二枚あわせた、軽やかでたいへんエレガントなきものであり、無双、とも呼ばれる。二枚の布が重ねてあるから、あくまで「袷」である。だから、「普通の袷のきものを着ていると、なんだか暑くなってきた、だけど、単衣のきものを着るには、まだ、季節的に早すぎる、だから、袷を着るのが良いのだが、ふつうの生地の袷を着るには暑いのだから、夏ものの生地を二枚合わせて、袷、として、ひとえに更衣する前に着たら良いのではないだろうか、という発想で、できたきものだ、と理解している」、と、書いたのである。
最近は、紗袷は、単衣の時期の六月や九月に着ると良い、ときものの本などには書いてあるものの、いやいや、自分のこの理解からして、もともと、夏にむかうきものにちがいない、と感じていた。つまりは、一番、紗袷がぴったりくるのは、袷の時期が終わろうとしているがまだ、単衣を着るには早い、五月半ばから末あたりだろうと信じていたし、実際に、そのころから六月にかけて紗袷を着ていた。最初に求めた紗袷がかきつばたの柄で、いかにもその季節にぴったりであった、ということもある。
きものの本とか、きものに関する説明を調べてみると、紗袷は、夏に向かう前の時期だけではなく、「夏の名残を惜しんで秋口にも着られる」とか、書いてあるが、今年になるまで、実は、その「秋口にも着られる」という言説を、あまり信じていなかった。夏物から単衣の季節に移り、そして、単衣から秋が深まって、袷を着る、という流れのどこに「紗袷」を入れるのか、よくわからない、論理的整合性がないじゃないか、いや、きものを着るのに、しかも、仕事で普段着として着ようとしているのに論理的整合性もなかろうが。いや、論理的整合性はなくても、自分の思いと季節の空気はぴったりとあっていてほしい。おお、これではないか、これ。今日、このきものを着たかったんだ、このきものは今日着られることを待っていたんだ、という、あの感覚をもとめて、今日のきものを選ぶ。そういうプロセスに、「秋口の紗袷」、が入ってくる隙間はないように思っていたのだ。きものは、季節の先取り、というイメージが強かったからかもしれない。柄も、生地も、常に季節を先取りするのが粋なものだ、と書かれているし、自分でもそう思っているし、特に、花などは、その花が盛りの季節になると、自分は一歩引いたほうがいい気持ちになるから、その花が咲く前に、その花の盛りを待つように、きものの柄であらわしたいような思いになるからだ。秋口の紗袷、それは、ちょっと、ないでしょう。季節の先取りじゃないんだもの、と、思い込んでいた。
そのように思い込み、自分の中で「夏の名残に秋口に紗袷を着る」ということには、ちっとも納得していなかったにも関わらず、紗袷というきものが好きすぎて、つい買ってしまったリサイクルの紗袷がある。そしてそれは、表地が小豆色の紗、重ねてある下の地は、一面に萩の模様の書かれた絽、なのである。紗袷のカテゴリーは訪問着だと思うし、おおよそ紗袷の柄ゆきは訪問着の柄ゆきが多いのだが、このきものは、小紋の柄ゆきであった。しかも、萩。「夏に向かう」時の柄ゆきではなく、どう考えても「秋に向かう」時の柄ゆきである。真夏に萩の柄は涼しげでいいな、と思うけけれど、夏にもなっていない時に、萩は、いくらなんでもちょっと早すぎないか? 素敵だな、と思って買ったものの、考え込んでしまっていた。一体いつ着るんだろう?購入したけど着る機会がないんじゃないか、と、ちょっと不安になったりしていた。先ほど書いたように、きものは、季節の先取りで、着るものであって、「逝く季節の名残を惜しんで着る」とか、って、ちょっとありえないんじゃないのか、と思っていたのである。だいたい、紗袷の透ける感じはどう考えても、秋口にはそぐわないのではないか、と。
九月二十四日、暦からいえば、単衣の季節、袷の季節の直前である。最近は、九月末でも、暑い日が多いので、透けない夏大島、つまり夏物のきものでも透けないものは、まだまだ着ていることが多い。しかし、今年(二〇二一年)は、九月の初めに一度、結構気温が下がってきて、暦通りに単衣を着るので、ちょうどいいな、という感じだったので、よく、単衣を着ていた。単衣を着てはいたのだが、九月二十日がすぎるころ、なんだか、また気温が上がってきた。九月二十四日は、まるで夏のような日差しが戻ってきていたのである。単衣ではちょっと暑いのではないか、というような日差しである。
その日、都心に住む長男のお嫁さん(いまどき、嫁、という言葉はポリティカリーコレクトじゃないらしいが、愛情を持って呼ぶ分には、何卒許してもらいたい。他の言い方がなんとなくすっきりとおさまらない)と、銀座でランチをする予定になっていた。さて、何を着て行こうか、と考えた時に、この「萩の柄の紗袷」がうかんだ。着てみると本当に、気持ちにぴったりと合う。秋分の日も過ぎているが、まだ、夏を感じさせる日差し、でもすぐに本当の秋がやっていくることが確かにわかっているような雲も出ている。夏は逝ってしまうのだ、いろいろあったけど、名残惜しいあの夏の日々である……と思うと、夏きものの生地を二枚重ねて、透けた紗の生地からうっすらと萩が浮き上がるきものは、その日にまさに、着られるべききものである、と感じられた。いったん、九月に単衣のきものを着始めてから、袷にうつるまえの紗袷だから、とてもぴったりする感じもあった。夏のような日差しだから、透けるきもの、はよくあうのだが、九月なのだから透ける夏物はふさわしくない。その時にこそ、紗袷、なのだ。
ということで、教科書に書いてあるような「紗袷は夏の名残を惜しんで、九月の単衣の時期に着ても良い」に、心底、納得したのである。まとった時に、ああ、これは今日着るべききものだったと感じる幸せを、一度でも与えてくれるきものは、まことにかけがえがない。萩の柄の小豆色の紗袷に、単衣の八献の博多帯を締め、お嫁さんと歩いた銀座は、美しいシーンとして記憶に刻まれる。そういうことを、幸せ、と呼ぶ。関係性と紗袷のくれる幸せ、である。
次回、2021年11月20日(土)更新予定