きものと仕事 三砂ちづる

2021.12.22

22アイロン

 

 日常生活でアイロンをよく使うだろうか。どうもアイロンというのは日本の生活になじんだようで、なじんでいないような気がする。とてもおしゃれな友人夫婦は、アイロンを持っていないという。アイロンをかけなければならない服が、ないそうだ。ご夫君がスーツを着る時のワイシャツにはもちろんアイロンが必要なわけだが、それはクリーニング屋に持っていっている。スーツを着たり、ネクタイを締めたり、という生活のビジネスマンの多くは、シャツは自分でアイロンをかけるのではなく、クリーニング屋に頼み、洗ってもらって、アイロンをかけてもらっている事が多い。これはもう、何十年も前からのやり方のようで、すでに亡くなった昭和2年生まれの父も、常にワイシャツというものはクリーニング屋に持っていくもので、ビニール袋に入ってきちっとたたまれたものがもどってきて、いつも家にあった覚えがある。出張というと、そのたたまれたシャツをビニールごと持って行っていた。今では、クリーニング屋さんがたたまずにハンガーにかけて渡す場合も多いようだが、あの輝くように真っ白に洗われて、びしっと業務用アイロンをかけられたワイシャツには、家でアイロンをかけたものはかなわないので、そう、日本のワイシャツは長くクリーニング屋で洗われてきたものなのであった。しかし近年は、形状記憶シャツなるものが登場し、アイロンをかけずに洗ったままで大丈夫なワイシャツが増えた。いや、正確にいうと、昭和30年代(今の人にとっては大昔である)生まれの私が高校生の頃、すでに高校生の制服の白いシャツはすでに「ノーアーロン」で着られるシャツだったから、アイロンなしのシャツの歴史も、思えば、長い。
 というわけで、おしゃれな友人夫婦はアイロンを持っていないのだ。奥様はとてもおしゃれな方なのだが、そもそもハイブランドのものはクリーニングに出すし、そのほかの服もレーヨンや柔らかい素材が主体だから、洗濯した後、アイロンをかける必要もない。1980年代に登場して今も最前線をゆくイッセイミヤケのプリーツプリーズなどもお気に入りなので、こちら、洗濯機にネットに入れて洗えてアイロンはいらない服だから、やっぱりアイロンが必要ない。普段着にアイロンをかけることなどあり得ないし、友人夫婦はおしゃれだけれども、アイロンがいらないらしいのである。

 西洋暮らしではそうはいかない。アイロンは、「絶対に必要なもの」であり、アイロンがけ、は「欠くべからざる絶対必要な家事」なのであった。西洋暮らしといっても西洋全て知っているわけではないが、イギリスに5年住んで、ブラジルで10年住んだ。大陸ヨーロッパは住んだことはないが、友人は、いるので感覚はわかると思う。ブラジルをはじめ、ラテンアメリカというところは、西洋的生活様式を忠実に踏襲している地域である。要するに、テーブルに椅子にナイフとフォークの食事、ベッドで寝る暮らし、キリスト教を中心とした(熱心な信仰を持っているかどうかに関わらず)暮らしのあれこれ、ということである。その西洋文化圏において、アイロンがけは、食事を作ったりお皿を片付けたり掃除をしたりするのと同じレベルの当然の家事である、と感じた。
 イギリスにはオーペアという制度があった。今調べても、出てくるので、まだあるのだろうかと思う。ハイティーンから20代半ばくらいの若い大陸ヨーロッパ諸国の女性たちがイギリスの家庭で家事を手伝いながら語学学校に通って英語を学ぶ、というシステムであった。日本人オーペアがいたこともある。今はどうなっているのか正式な制度はよくわからないが。このオーペアの仕事は、まずは、子どもの保育園やら小学校やらへの送り迎えと、留守番、次がアイロンがけ、であった。「手伝ってもらうべき家事、手伝ってもらえると助かる家事」の筆頭がアイロンがけ、なのである。
 ブラジルにいた頃は、いわゆる中産家庭の暮らしをしていたので、というか、医者とか、教員とかそういう専門職の共稼ぎ家庭(我が家もそうであった)には、必ずお手伝いさんがいた。お手伝いさんには掃除とか洗濯とか料理とかやってもらうのであるが、彼女たちの午後の重要な仕事も、また、アイロンがけであった。ブラジルでは、下着からTシャツまで全てアイロンをかける。ビシッとアイロンをかけたTシャツが引き出しにおさまることになる。そりゃあお手伝いさんがいるからできるのだろう、と言われるかもしれないが、観察したところでは、ブラジルの方は、お手伝いさんのいないところでは、自分でせっせとアイロンをかけていた。子どもたちの父親のブラジル人医師はロンドンに留学している間中、土曜の午後はアイロンの日、と決めて、それこそTシャツまでアイロンをかけていたものである。

 かようにアイロンが西洋暮らしで重要視されているほどには、日本ではアイロンは使わないと思う。我が家にもアイロンとアイロン台はあっても、時折使う程度だった。しかし、きもの生活を始めてからは、ちがう。時折使う、ではなく、スチームアイロンは、毎日活躍している。きもの暮らしの根幹にスチームアイロンがあるといっても言い過ぎではない。下着はともかく、長襦袢も長着も帯も帯揚げも、毎日洗うようなものではない。季節ごとにしか、洗わないものである。だからこそ、着た後に、日々の汗をスチームアイロンで飛ばすようにして、しわをとっておくと、季節中、さっぱりした感じで着られる。歌舞伎や日本舞踊などの衣装担当の方が、汗をかいた衣装に、さっとスチームアイロンをかけて汗を飛ばす、ということをなさるようで、私もそういうことを知っている方から習った。要するに着たきものにスチームアイロンをかけるのである。が、まず、あまりきものの扱いに慣れていない方は、とにかく、直接スチームアイロンを当てたりしないで、しっかり手ぬぐいなどの当て布をしたり、帯などは裏からかける、というふうになさったほうがいい、とまず、最初に言っておこう。
 それを申し上げた上で。
 一日の終わりの手順はこういう感じである。きものを脱ぐ前にまず、スチームアイロンのスイッチを入れる、アイロンの台を出す。帯締めを取り、帯揚げを取り、帯を外す頃には、スチームアイロンの蒸気が出始めているから、まず、長着にアイロンをかける。帯をして、帯の下でしわになったり、汗をかいたりしている部分を中心に、さっとスチームアイロンをかけ(慣れない人はくれぐれも、当て布をしてください)、そして、衣紋掛けにすぐかける。その後、腰紐、帯揚げ、帯、長襦袢などにも同じようにさっとスチームアイロンをかけてその日のしわを伸ばし、汗を飛ばすのである。
 スチームアイロンの温度とか、かけている時間などは、それこそ生地次第である。きもの地と、なんというか、対話しながら、このくらいなら大丈夫かな、という感じで、さっ、と、かけている。この辺、どのように、とか、何秒とか説明不能なので、再度書くけれど、布との対話とか、意味がわかりません……といううちは、当て布を当てたり、帯は裏から当てたりするほうが、安全である。そうやってきものと丁寧に時間をかけて付き合っていると、それこそ、舞台衣装担当さんが、「さっとスチームアイロンをかけて汗を飛ばす」ってこんな感じかな、とわかってきて、生地との対話が成立するようになってくる。とにかく、「汗を飛ばし、しわを伸ばす」、が目的だから、脱いだきもの一式をアイロンかけ終わるのに5分くらいしかかからない。というか、5分くらいでかけ終える程度の軽いかけ方で十分なのだ。
 毎回、しわのない腰紐や帯揚げをさっぱりと使うだけで気分がいい。慣れないうちは、腰紐あたりから、スチームアイロンを試して見てはいかがでしょうか。

 

次回、2022年1月20日(木)更新予定