また電車で席を譲られた。制服を着た可愛らしい女子高生が、「どうぞ」と言ってくれる。「あら、つぎで降りるから大丈夫よ」と言いつつも、せっかく譲ってくれたのだから、素直に座る。席を譲ろうとしてくれた若い女性の気持ちが、ありがたくうれしいからである。しかし、わたしは席を譲られていていいのだろうか、という気持ちは、ないわけではないのだ。まあ、還暦過ぎているし、高齢者カテゴリーに入って間違いない年齢になりつつあるし、電車の席は、あいていたら座るほうだし、自分の孫はいないが、孫のいる同年齢の友人はたくさんいるわけで、おばあちゃん年齢であることに、まちがいはない。しかし、元気な80代以上とか、めずらしくもなく、100歳以上人口が7万人を超える高齢化日本にあって、60をちょい出たくらいのわたしが、席を譲ってもらって、ほいほい、座っていいのだろうか、と思いはするが、冒頭に書いたように譲ってくれる気持ちがうれしいから、座るのである。席を譲ってくれるのは、高校生とか中学生とか制服を着ている若い人たちであることは、ほぼ一貫している。
年相応か、それ以上に、「席を譲らなければならない」ように見えているだけなのかもしれないが、譲ってくれるのが一貫してティーンエイジャーであることを考えると、そして席を譲られるのは、かならず、きものを着ている時であることを考えると、どうやら彼女たち、彼らは、きものに反応しているようである。「きものを着ている人」=「老人」=「席を譲るべき人」。あるいは、「きものを着ている人」=「たいへんな思いをしている人」=「席を譲るべき人」という認識なのではあるまいか。そう思うのは、席を譲られるのが、60をすぎた、今に始まった事ではないからである。
きものを日常着として着るようになったのは、45歳のことだった。はっきりと覚えている。いつかはきものを着たい、いつかはきもので仕事をしたい、いつかは自分でさっさと着付けができるようになりたい、そう願っていたのが実現したのが、40代半ばだった。きもののことをなんでも教えてくれる親しい友人ができて、もう、靴を履きたくない、と思うことがあって、それくらいの年齢になると、研究者といった比較的自由な服装が許される職場であれば、何を着てもいいんじゃないか、と思えるようになって、きもの生活に突入したのが、45歳になったばかりの秋だったのだ。そして、きものを着るや、席を譲られるようになった。いまのわたしは60過ぎているから、席をゆずられることも、まあ、はい、あってもいいかと思うが、当時はまだ40代なかば、それこそ席を譲られるには早すぎる年齢であろう。最初は「どうぞ」と言われているのが、自分とは思わず、他人に向かって言われているのかと思い、周りを見回してしまった。間違いなく、自分に向けて言ってもらっているのだ。
年齢というのは不思議なもので、自分の年齢をそのままに受け入れるのは、簡単なようでむずかしい。若い頃は年上に見られることは少し誇らしいもので、10代後半や20代では年齢より上に見られること、「え? そんなに若いの? そうは見えないなあ、落ち着いていて」みたいに言われると、うれしいんじゃないかと思うし、大人っぽいと言われることがうれしくもあるが、30代も半ばをすぎてくると、実年齢より上に見られていると思うと若干の衝撃をうけるようになり、それこそ40代半ばをすぎると、絶対、歳より若く見えたい、と思うようになってくる。年相応に見られるのがいやだから、若く見えたい。それぞれ方向性は違えど、だから、おしゃれをしたり、身だしなみをととえたり、中年以降はいっそう、力を入れて、するのである。だから、「電車で席を譲られる」は、けっこう、「年よりも老けて見える」あるいは、「年相応に老けて見える」ということの象徴であり得て、とりわけ男性にとっては、ショックだったりするようだ。
68歳で亡くなった夫は、60歳で定年退職していたのだが、退職直前、職場からの帰りの電車で席を譲られたことを、憤りを込めて語っていたのであった。オレが立っていたら、前の席の若い男が、座ってください、というんだよ、バカにしてるよな、オレがそんな年寄りに見えるのか……。本当に腹が立った。座ったかって? 座るわけないだろ……。彼は特に老けて見える人でもなかったのだが、一日の終わりには、実にくたびれた顔を見せる人だったから、おそらく帰りの電車で前に座っていた若者は、前に立っているおじさんがあまりに疲れているから気の毒になってそう言ったのだろうに。せっかく席を譲ろうとしたのに、おじさんに憮然とした顔をされた若者の心を思って、気の毒になってしまったのであった。
70代の知人は、いつも和装の男性で、着流しか、作務衣を着ているのだが、彼もまた、ある日、「前にいた若い女性に、どうぞ、と席を譲られた、こんなことは初めてで、実にショックだ」と、わざわざ、それだけのために、連絡してきた。よほど衝撃だったのかと思われる。70代なのだから、まあ、譲られてもいいと思うのだが、もともとエネルギッシュで若々しい人でもあり、自分もそう思っておられたのだと思う。その日は着流しではなく、作務衣であったらしい。あのね、考えても見てくださいよ、と私は言った。今どき、きものなんか着ているだけで、珍しすぎるんですよ。女の人でもめずらしいのに、ましてや男の人のきもの姿なんか、若い人は日常的に見ることないんですからね。男の人のきものなんて、時代劇か絵本かマンガでしか、みていませんよ。だから、着てる人はみんな、時代がかった「年寄り」って思うんですよ、きっと……。作務衣を着てらしたんですか? それはもう、若い人には「花咲か爺さん」にしか見えていませんから。花咲か爺さんに電車で会ったら、爺さんなんだから、席、ゆずるでしょ? ショック受けないでください……。
本人は、「花咲か爺さんか……」と、しばし考え込んでいた。次に彼に席を譲った若者は、気まずい思いをせずにすんでいると良いのだが。
そういうことを考えてみると、40代からきものを着て、40代から席を譲られているわたしは、席を譲られ慣れていて、全然、ショックじゃない。そう見えているのなら、そう見てもらっていい、と思うようになっている。要するに、きものを着続けていると、年齢より上に見られる、あるいは、「ご苦労様であるな」と言った若い人からの、そういう視線に慣れてくる。
以前、きものを着続けていると、年を重ねることがこわくなくなることがあって、それはいいことだ、という書いたことがある。簡単に言えば、洋服ならば、年を重ねるに従って、似合うものが違ってくるからよほど考えて着ていないと、大きな勘違いになることもあるし、だいたい、若い頃に着ていたものをずっと着ることはできないものだけれど、きものは40代くらいで着ているきものは、おそらく死ぬまで着ても構わないことが多い。だから、これを着て老いていけばいい、と思うと、こわくない、と思っていたのだ。
しかし、それは同時に、きものさえ着ていれば、どう見られたっていいや、みたいなところに落ち着いてしまい、自省がきかなくなる、ということと同義であったりする。それって、きものを着ていたら、どう見えているか、誰もなにも言ってくれない、ということでもある。席を譲るくらいしか反応が思いつかないだけなのかもしれない。席、譲ってもらって、ほいほい、ありがとう、って座ることに慣れているだけでは、単なるきもの婆さんになってしまうぞ、と、自重する今朝であった。きもの婆さん? 上等じゃないか、などというところに、居座ってはいけないのである。
次回、2020年11月10日(火)更新予定