気温が下がってきた。きものをきていると、「寒くありませんか?」とよく聞かれる。夏には、よく、「暑くありませんか?」と言われていた。雨の日には、「雨なのに、おきもの、大変ですね」と言われる。要するに、きものを着ていると、いつだって「たいそう」にみえて、「たいへん」にみえる現代である。だから、まあ、日常着としてきものを着るようにしよう、と思うと、そのように誰からもひとこといわれる、ということを覚悟しておいた方がよい。とはいえ、「きものと仕事」というタイトルに惹かれてこの文章を読み、「仕事の時にきもの着ようかなあ」と思ってくださっている方というのは、すでにそのように、「変わったことをする」という自覚は、とうにおありの方かと思うので、まあ、覚悟はおありでしょうか、と思う。
15年以上前、よし、きものを着るぞ、毎日着るぞ、仕事もするぞ、ずっときもので暮らしていくぞ、という固い決意をかためたころは、今思えば、かなり意地になっていたところもあったのだ。きもので生きていくことに決めたので、洋服はいらない、とも思っていたし、現実に2年か3年くらい、一切、下着にいたるまで、洋服を買わなかったことも覚えている。どんな天候であってもきものを着られるようにきもの支度をそろえよう、とした。
雨が降ったくらいできものを着ることをあきらめる気はなかったので、まず、雨支度を整えた。当初、雨の時は下駄ですね、といわれ、ビニールのつまがけがついた利休下駄を買い、足元は下駄を履いていた。下駄だと接地面からかなり高くなるので、足元も濡れず、なかなか快適である。下駄を履いている、というのはそれなりに風流なものであって、雨の日に利休下駄を履く自分、というのがけっこう気に入っていたりもしたが、ほどなく利休下駄はやめることになった。現代日本の道は、ほとんど舗装されている上、屋内も結構ツルツルしているところが多いから、利休下駄を履いていると、すべる。転倒は、高齢者のいちばん身近な危険なのだから、高齢に向かおうとしているときに、滑るようなものを履くわけにはいきません。まずは安全に問題がみうけられるようになったのだ。そして、下駄を履いていると、「行けないところ」というのがあることもわかった。きものの世界で下駄は必ずしも草履と比べてカジュアル、というわけではなく、芸者さんなどもけっこうひんぱんに下駄を履いたりなさっているのであるが、下駄では「ホテル」に出入りできない。ホテルで昼食、とか、会合、とか夕食などの予定があるときは、下駄は履き替えないとはいれないので、東京生活には結構不便である。下駄はすてきなのだが、こういった不安や不便があるため、雨の日の下駄は、ほどなくあきらめ、草履のつま先に透明なビニールのかかった「雨草履」を履くようになった。
きもの自体は、いわゆる、やわらかいきもの、つまりは色無地とか小紋とか付け下げとか訪問着とかは、もうとにかく、雨に弱い。濡らしてしまうとしみになるし、縮むので、絶対ご法度である。そういうきものを着なければならないときは、がっちり、いわゆる「雨ゴート」を着なければならない。しかし、仕事や日常にきものを着るときは、要するに、そういうやわらかいきものは、雨が降りそうなときには、やめておけばよいだけである。紬など織りのきものは、やわらかいきものよりは若干水への耐性は、ましにみえるが、それでも雨コートが必須である。絹でできたきものは、雨の日にはむかないのだ。季節によっては、雨コートは、大仰な感じになってしまうので、雨の日の仕事や日常には、木綿のきものに木綿の帯をつけるようになった。木綿の着物は、ここ20年近く、ずっと、宮崎にある、木綿をたくさん扱っておられる「染織こだま」さんの木綿の単衣を愛用している。「こだま」さんの自社製品である一乗木綿などは、冬でも暖かく着られるふんわりした木綿で、雨の日も不安がなく、濡れても、ネットに入れて洗濯機で洗える。帯は、八重山のミンサー織などが少々濡れても安心である。ということで結局、雨の時は、濡れてもかまわないきもの、をきて、雨草履を履く、というスタイルになってきた。
濡れても大丈夫で、簡単に洗える、ポリエステルの「洗えるきもの」を雨の日に着る、ということももちろんありか、とは思うのだが、結果として化繊のきものは一枚も手元に置いていない。きものを着始めたころ、何枚かいただいたし、その中には実に素敵な柄ゆきのものもあったのだが、ずっと着るには至らなかった。化繊のきものはひもをしめても生地がすべすべしているので着崩れしやすく、なにより、あまり快適ではない。きものはやはり絹や麻や木綿といった植物素材の風合いをまとうことを楽しむものだ、と思うに至った、ということだろうか。
きものを着始めたころ、雨の日にも着るのだから、雪の日にもきものを着たいと思った。そうはいっても、雪国に住んでいるわけではなく、首都東京に住んでいるので雪が降る日、雪が積もる日、というのは限られている。その限られている雪の日にもきもので暮らしたい、と思ったから、当時、ただ一人だけ残っておられた、という新潟の雪下駄職人の方のつくられた雪下駄を手に入れ、履いていた。雪が積もっていると、下駄の歯と歯の間に雪が挟まって、歩けなくなるので、雪下駄には、そのような状況になることを避けるいろいろな工夫が地方によってされていた、と言われている。新潟の職人さんの作ってくださった雪下駄は、高さはあるものの、前の歯がなく、うしろの太めの歯に向けてなだらかな局面になっていて、雪がたまりにくい。赤いつまがけに、アザラシの毛皮がちょっとだけついていて、たいへんかわいらしかった。きものを着る人が減って、職人さんもおられなくなるのだなあ、雪下駄も手に入らなくなるのだなあ、と15年くらい前、大変、残念に思っていたが、インターネットの普及とともに、雪下駄を求める人も増えたようで、現在はネットで、逆に15年くらい前より手に入りやすくなっているようだ。
ことほどさように、雨の日も雪の日も、工夫してきものを着ていた。冒頭に書いたように、「きもので生きる」ことにきめて、ちょっと意地になっていたのである。この時代に、きもので通そうとすると、まあ、その初めにはそれなりの意地も必要であったのか、と思うが、便利な洋服も、すべらない長靴もブーツもいくらでも手に入るだけの豊かないま、なぜ、そんなにがんばってきもので大雪の日に出かけなければならないのだろうか。性格上の問題だと思うので、あらためた方がよかろう、と思い、最近は、洋服も買うし、洋服もそれなりに着るようになった。きものを着るのは別に我慢大会でもなんでもなくて、快適で、ここちよくて、気持ちよくて、着ていてうれしいから着るのだ、という本来のすがたに20年近く経ってようやく気づいている、というところか。大雪の日には、防水ダウンコートに分厚い靴下に、すべらない長靴で出かけるのがよかろう、という素直な気持ちにやっとなれているのだが、なにごともやりすぎな性格はあまり変わっているように思えず、なかなか中庸に落ち着いていけないのに、歳だけは取るのである。
次回、2020年12月30日(水)更新予定