着物を脱いだ渡り鳥 ― 落語家をやめて、落語のことを考えた。 ナツノカモ

2020.4.24

05今日のお相手はこの人

 

 リエさんの結婚パーティーの会場は都内の温泉施設だった。

 宴会場に友人知人を集めて、即席ではあるが高座を作り、僕とトラが出演する落語会を開催するのだという。何度かパーティーの現場に出し物として落語をしに行ったことはあったが、そういうところで本格的に「落語会」の形を取るというのは初めての経験だった。最初にして最後の経験だ。

 「出番が終わったら、ゆっくり温泉にでも入っていってください」

 リエさんから届いた詳細メールの末尾にはそう打ってあった。 

 彼女の人生の大事なイベントなのに、どこかこの会には僕への労いの気持ちも込められているように思えた。お言葉に甘えて、終わったらお湯に浸かろうかなと思った。きっとその時、自らの落語人生をふり返ったりするのだろうかと想像しながら、パーティー当日、僕は電車で現場に向かった。

 トラと会場の入り口で待ち合わせ、一緒に楽屋に入る。僕が落語界を去ってから初めて顔を合わせたが、彼はいつも通り自然に僕と接してくれた。特に慰めるでも労うでもなく、いつも通り。

 落語家をやめるにあたり、既に後輩たちに着物を譲ってしまっていた僕は、学生時代に使っていた着物を部屋の押し入れから出した。やや丈が短く、いま着ると不格好になってしまうが、もうプロではないのだからちょうど良いだろうと思いそれを着ることにした。

 ただ、あの頃のように会話の遊びはしなかった。

 

 結果から言うと、その日の落語はたいしてウケなかった。

 一年ぶりの舞台であるし、自分にとって最後の落語だと気負い過ぎた部分もあっただろう。集まった約60名の出席者は落語初体験の方が多く、観る上での戸惑いもあったはずだ。僕も、そしてトラもそれほど良い反応はもらえなかった。

 しかし僕以上に緊張して舞台を見ていたリエさんの

 「ありがとうございました。幸せな時間でした」

 という言葉で、やって良かったなと思った。ビールをついでもらいながら「いえいえ」と僕は返した。宴会場の一角、ちびちびと飲みながら、これで本当に終わったんだなと僕は思っていた。周りに座る人たちはお酒で陽気になっていく。

 「……あの」

 短い返答の後、目をそらしたままの僕にリエさんが尋ねる。

 「はい」

 「もう落語はしないんですか?」

 グラスを持つ手が止まる。ここ数ヶ月、色んな人たちに聞かれたことをまた聞かれた。顔を上げるとリエさんはまっすぐこちらを見つめていた。

 「うーん、どうなんですかね……

 僕は答えた。曖昧な返事だ。なぜか毎回「やりません」とは言えずにいた。本当に終わったんだなと、本当は思っていないのだろうか。彼女は僕のその反応を見て少し満足した様子で、

 「また、やってくださいね」

 と言った。その顔は微笑んでいた。

 思わず再びそらした視線の先には、彼女のお腹があった。外から見ても分かるほど大きくなっている。

 「改めて、おめでとうございます」

 と、僕は言った。

 

 トラは自分の出番が終わった後、宴会には参加せず会場を出て行った。この後もう一つ別の落語会があるのだという。

 「すみません。お先です。お疲れ様でした」

 慌ただしく温泉施設を出ていくその背中を見送りながら、僕はトラと楽屋で話したことを思い出していた。

 「後ろから話しかけられた人物の演じ方はどうしてる?」

 落語の技法の話だ。出番が先だったトラの落語を控え室から見ていて、気になったところだった。

 「え、なんですか?」

 「話しかけられた人物がふり向く時の動作なんだけど、どうしてる?」

 落語は正座でお客さんの方を向いて座る。それは演技の可動域が制限されていることを意味する。対面した人物同士の会話は、首を右に動かし左に動かし、それによって向き合って話しているように演じることが出来るが、難しいのは前後に並んだ人物同士の会話を表現する場合だ。後ろから「おーい」と話しかけ、「なに?」とふり返るシーンを描く際、正座による縛りで本当に後ろを向くことが出来ない。よって横を向くことで「後ろを向いていることにする」形になる。

 「いや、考えたことないですね」

 トラの返事を聞き、どうすれば「ふり向いた人物」をそれらしく演じられるかを伝えた。

 「間に一つ、関係ない視線を挟むんだよ」

 例えばAが前にいて、Bが後ろにいる。そんな場面を描くとしよう。Bが後ろから「おーい」とAに話しかける。Aは本当に後ろを向くわけにはいかないので、横90°を向いて「後ろを向いていることにする」のだが、この際「なに?」と言いながらパッと90°を向いてしまうのではなく、一度前方45°方向に視線をやり、その後90°に首を向ける。

 「間に一つ関係ない視線を挟むと、後ろから話しかけられてふり向くまでの'時間'をそれで表現できるから、お客さん側から見た時に本当にふり向いてるように見えるよ」

 僕は実際に演じて見せながらそれを教えた。やめた人間が現役の人間にアドバイスするというのもおかしな話だが、せっかく会えたから少しでも彼の落語の役に立ちたかった。

 「なるほど。今度やってみます」

 と、トラは言った。

 温泉施設の出口で、会場を去る後輩の背中を黙って見送りながら、「おーい」と話しかけ「はい?」とふり向かせれば、「こういう場面の演じ方の話ね」と伝えられたかもしれない。しかし、僕はその「おーい」を飲み込んだ。

 もう自分は落語家ではないのだ。

 

 帰りの電車で、僕は一人だった。思った以上に疲れていたため、各駅停車で座ってゆっくり帰った。また作家に戻って依頼された台本を書く日々が始まる。

 誰もこちらを見てなどいないことはもう分かっていた。落語家としての最後のツイートから二ヶ月が過ぎていた。

 今日の落語がなぜあんなにウケなかったのか、ふり返り反省を始めてしまっている自分に気づいた。あ、この時間はもう要らないのかと、すぐに考えるのやめる。

 スマホを開いて、トラのTwitterアカウントのつぶやきを見る。そこには今日の僕との落語会のことが綴られていた。クローズドのイベントなので詳しい中身までは書いていないが、ある写真が上がっていた。

 思わず見つめてしまった。いつ撮ったのか全く気づかなかった。風呂敷が開いた状態で、その上に僕の丈の短い着物が畳まれて置いてあった。それ以外は何も写っていない。写真には、

 「今日のお相手はこの人。誰がなんと言おうとこの人」

 と、短く添えられていた。

 

 

 このパーティーの三ヶ月後、僕は落語会を始めることになる。

 落語家に戻ったというわけではない。作家としての仕事を続けながら、月に一度だけ開催するクローズド落語会をやっていくことになったのだ。クローズドつまり公に告知をしない、秘密の落語会ということだ。

 きっかけはもちろん、結婚パーティーでのあの一言だった。

 「もう落語はしないんですか?」

 この言葉が、その後も何度も頭を巡った。

 落語家をやめた以上、落語家のようなフリをして公に落語会を開くことは礼を失する。曲がりなりにもプロであった人間がそれをやってはいけないだろう。それは道を外れた行為に思う。

 だが、リエさんのパーティーはそもそも公に開かれたものではなかった。友人知人だけを集めたもので、そこで行われたことは見た人の記憶にはもしかしたら残るかもしれないが、世界には記録されることもなく消えていく。

 僕は「これなら出来るのではないか?」と思った。

 一度引退した元落語家が、どうしても落語をやりたいならば、誰も知らないところで密かにやってしまえばいい。どうしてもやりたいのだから。そんな結論が出るまでに時間はかからなかった。

 どうしてもやりたいのだから?

 僕はどうしても落語がやりたいらしい。

 

 

(第5回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年5月8日(金)掲載予定